北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【京都幕間旅情】清水寺,京都の美しい情景を撮影しつつ苦労する撮影機材-カメラ品薄状況続く現代

2023-11-29 20:22:12 | 写真
■昔は良かったか
 そう、昔は良かったかと問われますと学生時代は高価なカメラに中々手が届かない時代もありましたが現代はカメラそのものが品薄で入手できないという。

 清水寺を撮影していまして、しかし困ったなあと思うのは撮影機材の方でして、長期間撮影して来ますと、特に演習場などに出入りする際にどうしても傷んでしまうものですから、定期的に新しい器材に切替えて行かなければならないのですが店舗に行きますと。

 カメラ、驚いたものです、半導体不足が原因と言うことですがCANONのカメラがどんどん生産縮小になっていまして、予備の機種ということでG7Xmark2をもう一基、市場に残っているうちに調達しようとおもいましたら、店頭にカメラはあったのですが。

 G7Xmark2、おいてあるのは見本であってIXYの一番安価な機種がある以外は店頭に実機の在庫はなく、という既視感のような話題で。しかし驚いたのはG5Xmark2についても生産終了になっているというWebの話題で。一応細々と生産は維持されているというが。

 G5Xmark2の生産維持というのはカメラ専門店の方のお話で、一応G7Xmark2についても入荷未定だけれども二ヶ月か三ヶ月程度で順次廻ってくる、というお話でした、いや二ヶ月から三ヶ月は最低でもかかる、という話ですが、全く入荷しない訳ではない、と。

 R7,ミラーレス一眼が人気なので入荷まで時間がかかる、という話はもう販売開始当時から聞いていますが、コンパクトデジタルカメラについてはミラーレス機種への生産集中、という背景があるという。一方で、生産しているはずのG7XmarkⅢの品薄も凄い。

 写真を撮影するにはカメラがなければどうにもなりません、そういう意味では生命線なのですが、付け加えるならば、市場にカメラがないということは必然的に写真を撮影しはじめよう、という入門を志す方にも、現物がないのでは、撮れないのですよねえ。

 iphone15に代表されるようなスマートフォンの圧迫があってカメラ市場は云々、と将来性を危惧する方もいるようですが、ワカモノノカメラバナレガア、なんて知ったかぶりで考えるのではなく、現物がないのでカメラがカメラマンから離れているという話だ。

 半導体不足、しかし、半導体不足が挨拶のようになっていまして、そう半導体不足はもう2020年から言われている、もう4年前の話ですが、原因がCOVID-19かロシアウクライナ戦争かではなく、製造を増産するという話に時間がかかりすぎているのではないかな。

 1941年から4年加えれば1945年、4年間というのは太平洋戦争一回に相当して、日本は工業力に限界があるけれども、その中で増産により戦闘機も空母も駆逐艦も巡洋艦も、けっこう造ったもの。対してこの現状、半導体の増産で今なおめどが立たないとは。

 京都の美しい情景を撮影しつつ、しかし肝心のカメラが市場で今なお品薄、という状態が続いていますから、なんだかなあ、とおもってしまうのです。なにより事故や災害などでカメラが破損しても補充がきかない、というわけなのですから深刻な問題です。

 カメラ屋に行って予算の範囲でカメラを買う、これはCOVID-19の前の時代では当たり前であったのですが、今は買おうとしますと、入荷は半年以上先です、と言われて、この機種ですと三カ月ほどで入ります、と希望していない機種や低性能の機種を薦められる。

 写真にはカメラが必要なのだけれども、EOS-R7とEOS-R10の実物在庫を目の前にどちらにするか、いやEOS-5DmarkⅣの後継機種が明確になるまで考えよう、といえるくらいの在庫が店頭に確保出来るのはいつなのかなあ、とそんな事を考えつつ散策しているのだ。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【京都幕間旅情】清水寺,庵を譲られた延鎮さん-桓武天皇と徳政相論は坂上田村麻呂と音羽山

2023-11-29 20:00:30 | 写真
■僧侶延鎮の出会い
 物語というものは出会いから始まるのですけれどもその出会いは京都を形づくったといえばどうだろうか。

 清水寺、ここは京都はじまりの地というべき一つの聖地です。清水寺縁起絵巻、群書類従、今昔物語集、と清水寺の始まりは幾つもの歴史書に記されているのですが行叡居士という老年の修験者と当地を訪れた奈良は興福寺の僧侶延鎮の出会いから始まる。

 延鎮さんは行叡居士から自分は東国へ行かねばならないためこの草庵を守ってほしいといわれ庵を譲られます、宝亀9年こと西暦778年にここに自ら彫像した千手観音を安置することとし、まだ平安遷都前の当地に、後の清水寺となる草庵を編んだわけです。

 行叡居士が向かった東国、なにしろ奈良時代ですので蝦夷跋扈する境界の彼方、延鎮さんは行叡居士を観音様の化身ではないかと考えたという。蝦夷跋扈といいましたが、当時は桓武天皇の治世、藤原京だ長岡京だと首都さえ転々とする不安定な時代でした。

 坂上田村麻呂はそんな不安定な奈良時代の高級軍人でしたが、ちょうど身重の奥方を気遣い、滋養強壮に良いという鹿の血を求めて当地は音羽山へ狩りに出向いていたところをこの延鎮さんと出会います、殺生は止めなされ、と延鎮さんに言われたのでしょう。

 音羽山が今の聖地となる前の時代、殺生よりも滋養強壮ということで、なにしろ武士の象徴的存在の坂上田村麻呂さん、えいっとばかりに矢を放つとワンショットワンキル、だったのかまでは記録がありませんが見事命中し雌鹿を仕留めたという記録はあります。

 千手観音さんを奉じている寺院の前での出来事ですが、矢が命中した雌鹿さんも実は身重だったといい、命中し致命傷が絶命の瞬間に、すっと小鹿を産み落とした瞬間を見てしまったといい、そこで生命の大切さを説かれたような気がして、延鎮さんに帰依する。

 征夷大将軍として後に蝦夷平定へ東国に向かう坂上田村麻呂さんですので、生命の大切さとは何か、と現代的視点ではウクライナやガザ報道を傍目にふと思うのですが、まあそれはそれこれはこれ、坂上田村麻呂さんは自らの音羽山邸宅を寄進、そこが此処だ。

 蝦夷平定は今の多賀城まで一気に安定化させ、生命云々はともかく軍事的に日本は安定する。一方当時の桓武天皇は蝦夷平定と首都遷都の二柱を国家事業の主柱に据えていた為、平安遷都成った後にも、何時次のナントカ京に遷都を命じられるかというきわどい時代で。

 観音像とその脇侍に毘沙門天像と地蔵菩薩像を安置する大きな清水寺が造営されていたのは、この蝦夷平定により実力を増した坂上田村麻呂による寄進があったためなのですが、同時に坂上田村麻呂はこの頃、造陸奥国胆沢城使など東国で都市建設の勲功がありました。

 平安遷都の造営官を坂上田村麻呂は拝命していて、蝦夷平定の際に東国での都市計画及び都市造営の経験が生かされたというべきなのでしょう、空海と協力し東寺を造営していたりする最中、日本の内政上新しい課題が、桓武天皇の次世代、徳政相論という議論でした。

 徳政相論、というのは桓武天皇が老齢を迎えた際、蝦夷平定と首都遷都、これを次世代も続けるかという議論でした。議論は若手の参議藤原緒嗣の継続反対と老齢の参議菅野真道の継続論とが激論となった際、坂上田村麻呂は参議としてこの議論に参加します。

 征夷大将軍坂上田村麻呂、清水寺を寄進した邸宅と行叡居士草庵とを結び、今の規模まで広めたのですが、その眼下で進む平安京造営を、短期の遷都で廃都とすることなく今に紡ぐこととなり、その経緯からこの寺院は、京都始まりの地と、いえるのかもしれない。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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ウクライナ情勢-クピャンスクとクレミンナを結ぶ線の激戦とキエフへシャヘド自爆用無人機50機で攻撃

2023-11-29 07:00:50 | 防衛・安全保障
■防衛情報-ウクライナ戦争
 悪天候というものは現代でさえ各種装備に影響が及ぶことを学びましたが。

 ロシア軍はクピャンスクとクレミンナを結ぶ線において攻撃を継続し、森林地帯において若干の前進に成功した模様、ISWアメリカ戦争研究所11月20日付ウクライナ戦況報告が概要を説明しました。クピャンスクはロシア軍西部軍管区が、クレミンナはロシア軍中央軍管区からの派遣部隊が担当しており、部隊の再配置を進めているとのこと。

 ロシア軍は同時にバフムトへの攻撃を強化するためにクレミンナ近郊から第98空挺師団と第106空挺師団を抽出して転進させており、ウクライナ軍第47機械化旅団との間で激戦となっています。問題は現地の気候で、既に降雪が始っており、雪による視界悪化が双方の戦闘を阻害しているとしていて、ロシア軍は小規模な歩兵部隊による攻撃を継続している。
■シャヘド自爆用無人機
 自衛隊もVADSを退役させたものの自爆無人機への対策を考えれば普通に予備自衛官部隊へ移管し装備を補完すべきだったようおもう。

 ロシア軍はキエフをイラン設計シャヘド自爆用無人機50機で攻撃した、イギリス国防省ウクライナ戦況報告11月21日付発表として概況を示しています。シャヘド無人機は11月18日から19日にかけ、ロシア領内のクルスクとクラスノダールから発射されており、攻撃は波状的に行われたとしています。一方でロシア軍は巡航ミサイルを使用していない。

 首都キエフへのシャヘド無人機による攻撃はウクライナ軍の防空能力低下や、前線からの防空砲兵部隊を首都防空へ転用を強要する事が考えられる一方、ロシア軍はこの2カ月間、巡航ミサイルによる攻撃を中断しており、ロシア国内ではミサイルの製造が続く事から、一定以上のミサイルを備蓄していると考えられ、冬季のインフラ攻撃が懸念されます。
■クリンスキー村
 小規模ながら激戦となっている。

 ドニエプル川東岸クリンスキー村が激戦地となっている、11月22日付イギリス国防省ウクライナ戦況報告が最新の戦況を報告しました。クリンスキー村周辺の戦闘は森林地形という錯綜地形が戦場となっていて、軽歩兵部隊と砲兵部隊が主軸となり、また空の戦いではウクライナ軍は小型無人機を効果的に使い、ロシア軍は近接航空支援を継続している。

 ドニエプル川は2022年末にロシア軍が西岸から戦略的撤退を行い、兵力の節約を行う事でバフムトなど、他の重要地域へ兵力を抽出させる事を目的としてましたが、ウクライナ軍の渡河作戦を受け、かなりの兵力をドニエプル川東岸のウクライナ軍橋頭堡包囲に集中、クリンスキー村の戦闘は規模で他の戦線よりも抑えられるも激戦となっているもよう。

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