愛知県の南東、静岡県との県境に近く、太平洋から浜名湖、三河平野を望む豊川市は、自動車輸出港である豊橋に隣接し、市内には豊川稲荷神社がある。
豊川駐屯地は、第十師団隷下にあって、その火力戦闘の主柱を担う第十特科連隊、空からの脅威に備える第十高射特科大隊に加え、新しく2002年に新編された第49普通科連隊、そして方面隊直轄の第四施設団隷下にある第六施設群が駐屯している。駐屯地は、戦前の建築物も散見できる広大な面積を有しており、部隊の性格上多くの車輌が駐屯地各所に車列を整えている。写真は観閲行進に備える車輌部隊である。
写真は上写真の車輌群を別の角度より撮影したもので、第49普通科連隊が装備する高機動車や79式対舟艇対戦車誘導弾を装備した車両などが写っている。
同連隊は、即応予備自衛官により充足させる部隊で、部隊構成として定員の二割程度を現役自衛官、そしてその他を通常の予備自衛官よりも訓練期間の長い即応予備自衛官により構成している。
特科連隊は普通科連隊よりも定員が多く、特に前述の第49普通科連隊新設に伴い、特科大隊の増強が行われたことで、駐屯地の隊員数は第十師団管区内でも最大規模となった。行進する隊員は9㍉拳銃を携帯しており、また、腕章から本年度より中部方面隊と陸上幕僚監部において試験的に制度採用された司令部直轄陸曹がいることが見て取れる。
豊川駐屯地司令を兼ねている。司令の乗車した73式小型トラックに応え、黄色い中隊旗が高々と掲げられているが、この色は特科の職種を示すもので、特科連隊には、五個特科大隊と情報中隊、そして本部管理中隊より編成されている。なお、後方の白いバンは一般車で、式典が行われた訓練場は、公道に三方を面している。
連隊長の向こうに、連隊旗が林立している。なお、陸上自衛隊の連隊旗は、旧陸軍の軍旗が連隊番号をその旗に書いていたのに対し、現在では旗竿に金属の銘板を填め込み、連隊番号を記載している。蛇足ながら、旧陸軍の連隊旗は歩兵連隊にのみ下賜され、連隊番号は天皇直筆とされていた為、旗は連隊そのものであった。ちなみに、現在の連隊旗は防衛出動に際しては、昔のように最前線に持って行くのか、指揮所に置くのか、駐屯地業務隊に預けるのか、ご存知の方がいたらご教授いただければ幸いである。
観閲行進へ!、号令の下で隊員が駆け足で車輌へ向かう。
第十師団隷下の部隊はこうした場合に駆け足を行うが第三師団では行進して会場を去る。この他、第六師団、第七師団も駆け足であったが、もっとも素早く移動していたのは第七師団で、駆け足というよりも疾走という印象であった。各員乗車、エンジン音とともに車体が動き始めた。
豊川駐屯地祭では、観閲行進は徒歩更新を行わず、全て車輌行進により展開される。その先頭は、指揮官が乗車した82式指揮通信車である。同車は約250輌が生産され、特科大隊司令部や普通科連隊本部管理中隊に配備されている。写真では装備されていないが、自衛用に7.62㍉機銃、12.7㍉機銃を各一門づつ搭載する。なお、国際平和維持活動などに用いられる車輌には、厳しい環境に対応するべくエアコン設備が増設されたものがある。
第49普通科連隊の車輌群。73式大型トラックの後方に、多数の高機動車が写っている。予備自衛官というと、第二線部隊との印象を受けるが、従来の予備自衛官が有事の際にのみ編成される駐屯地警備隊や弾薬整備中隊に配属されていたのに対して、即応予備自衛官は普通科、機甲科という戦闘職種に所属し、現役部隊と同じ任務に当てられるとされている。この為、その装備も現役部隊と見劣りしないものが装備されている。
同じく第49普通科連隊第四中隊の軽装甲機動車。従来では一両の装甲車に地上戦闘における最小戦闘単位とされた一個小銃班が乗車していたのに対して、小銃班を構成する組毎に装甲車を配備させ、木目細かい戦闘を可能としたものである。こうした新鋭装備が配備されている他方で、例えば第六師団のように師団隷下の即応予備自衛官部隊が方面隊直轄に配置換えとなる改編も始まっており、第49連隊の今後の配置に興味が持たれる。
第49普通科連隊対戦車中隊の79式対舟艇対戦車誘導弾。旧型の73式小型トラックにより運搬されている。この旧型は減少しつつあるとされるが、他師団を含めかなり多数が現役にある。有線誘導式のこのミサイルは、弾頭によっては上陸用舟艇も撃破可能であるが、車上からの発射は不可能で、地上に設置する必要がある。なお、後継には先進的な光ファイバー誘導方式を用いる96式多目的誘導弾が開発され配備が進められているが、高コストにより配備部隊は極端に限られている。
第十特科連隊のFH-70榴弾砲、74式特大トラックにより牽引されている。陸上自衛隊の主力榴弾砲であるFH-70は、1970年代の野砲としての設計要求が盛り込まれたという意味を持つ。ビッカース、ラインメタル、OTOメララ社による国際共同開発の155㍉榴弾砲で、1969年に完成している。陸上自衛隊へは日本製鋼においてライセンス生産されたものが1983年より配備開始され、約490門が北部方面隊以外の師団特科連隊に配備されている。
通常榴弾は43.5kg、炸薬量は11.3kgで、炸裂すると長径45㍍短径33㍍の範囲に有効弾片を散布し、最大初速は827㍍/S、通常榴弾での射程は24km、ロケット補助推進弾を用いた場合は30km、特殊な強装薬を用いた場合は31kmに達し、バースト射撃ならば最初の13秒間に3発、持続射撃で毎分6発の射撃能力を有しており、これは以前に使用されていたM-1/155㍉榴弾砲が持続射撃で毎時40発、最大で10分間に16発という数字からその性能の高さを見ることが出来る。
砲の操作要員は9名で、装填用トレイ・チューブ型装填器による半自動装填装置が装備されているのが最大の特色で、この装置が無ければ従来のようにロッドにより砲弾を砲尾から砲身内部に押し込まなければならなく、事実前述のM-1榴弾砲はこの操作を行う為に要員が12名が必要であった。ただ、半自動装填には一定以上の砲身後退が起きる射程に限られる。また、1800ccの補助動力装置を有し、牽引車がない場合でも砲のみにより16km/hの移動が可能である。牽引車は格好の標的となるため、この機能は重要だ。
欠点としては三点、第一に砲身が6.022㍍と長く、また補助動力装置搭載により重量過大となったため空輸には大型ヘリコプターが必要な点であるが、これは低伸弾道を描く事で対砲レーダーに映りにくいという利点があり、一概に欠点とは言えない。
第二に射程不足、これは1969年に完成したという点から致し方ないが、砲身が155㍉×39の39口径であるのに対し今日では52口径が普及しつつあり、ここから来る射程不足である。
最後に、補助動力装置の出力の関係から、最大速度が16km/hであるが、これが現代の対砲兵戦闘において対砲レーダーによる反撃から、弾片制圧地域を脱するに充分であるかという問題である。これに対して、陸上自衛隊は機動力を増すべく装甲トラックの荷台に榴弾砲を搭載したフランス製簡易自走榴弾砲“カエサル”に大きな関心を寄せていると伝えられ、将来的には重装輪回収車の荷台部分に砲を搭載した簡易自走榴弾砲が配備されることもあるかもしれない。
特科連隊情報中隊の気象観測装置JMMQ-M2-B。600㌘ラジオゾンデの電波観測用で、無視界状態でも15kmまでの追尾が可能、弾道に影響を与える風向、風速、湿度、気温、空気密度を観測し、また化学攻撃や核攻撃を受けた際にはその汚染範囲予測にも用いられる。気象観測は重要で、この差異を無視すれば15km程度においての射撃では50㍍以上の誤差となって火砲の精度を低下させる。この他、気象観測には目測の30㌘バルーンが用いられ、数時間おきに観測を実施する。
対砲レーダーJTPS-16。同じく特科連隊情報中隊に所属する。砲弾をレーダーにより捕捉し、弾道を計算することで敵砲兵部隊の布陣位置を把握する。強力な電波を発する為、使用には逆探知されぬよう注意が必要だが、地中に音響マイクを敷設し、発砲音を感知した瞬間に作動させ、目標を索敵する。精度は一世代前のJMPQ-P7では10km先の目標を50㍍の誤差で発見できたという為、これよりも向上している筈だ。なお、配置には一時間弱を要するが、新型はこの部分も改善されていよう。
第十高射特科大隊の93式近距離地対空誘導弾、通称近SAM。携帯式SAMを発射する車輌で、赤外線暗視装置により夜間や悪天候下においても対応能力を有し、加えて射撃管制装置が可搬式となっていることから遠隔運用も可能となっており、生存性や操作性を高めている。従来の35㍉高射機関砲の後継として配備され、東北と北部の一部を除きほぼ代替が完了している。高い即応性を有することから対ヘリコプターに大きな威力を発揮する。
81式地対空短距離誘導弾、通称短SAM。レーダー車1輌と発射機2輌により1セットを構成し、師団全体に4セットが配備されている。赤外線誘導弾が8km、電波誘導弾で16kmの射程を有する。オプティカルサイトにより独立したミサイル誘導も可能であり、1982年のフォークランド紛争では英軍がこの方式でレイピアSAMを運用しアルゼンチン空軍機18機を撃墜するという大きな戦果を挙げている。なお現在、代替の将来短SAMの開発が進められている。
高射特科大隊本部管理中隊に配備されている対空レーダーP-14、主に中高空目標の索敵を行う。71式対空レーダーより始まったレーダーの最新型で、師団防空システムDivision Air Data processing Systemの根幹を担う装備である。この他、低空目標用に対空レーダーP-9が配備されている。師団が行う防空は自隊防空という局所的用途に用いられ、方面隊高射特科群、航空自衛隊バッジシステムがこれを補完する。
第六施設群の車輌部隊、左に92式地雷原処理車、右に75式装甲ドーザーが見える。最前線の障害除去を行う施設科部隊は、普通科部隊に準じる最前線戦闘職種であるが、特に90年代に入り地雷処理においては装備品の陳腐化が叫ばれたことで配備された92式、爆導索と呼ばれる地雷処理装置を発射し、一瞬にして地雷を爆破処理する。その後、障害物を75式が、装甲により安全圏内から任務を遂行する。この他、左の73式大型トラックは83式地雷敷設装置を牽引している。
写真は仮設敵の機械化部隊より歩兵が降車しているところ。訓練展示は駐屯地の一角に敵部隊が布陣、これに対し特科部隊の支援下で普通科部隊が目標を奪取するという筋書きで行われた。仮設敵は装甲車2輌をもってわが方へ攻撃を試みた。また、写真のように敵は我が前進を抑えるべく、地雷の敷設を試みている。
敵情を探るべく、第49普通科連隊情報小隊のオートバイ斥候班が前進、障害物を飛び越えた。
実は偵察オートバイは師団偵察隊の他、普通科連隊本部管理中隊隷下の情報小隊にも配備されており、レンジャー資格を有する要員などを駆使して連隊に先んじて目標を把握する。こうした部隊は戦車大隊にも配備されており、陸上自衛隊が如何に偵察を重視しているかが端的に現れている。
完全な偽装を施した高機動車。写真からは辛うじてタイヤから、これが車輌であることが分かる。普通科隊員を輸送し、また分かりづらいが場合によっては戦闘に加わるべくMNIMI分隊機銃が搭載されている。装備品の偽装は陸上自衛隊のもっとも得意とするところである。1998年のNATO軍ユーゴ空爆では1400回以上の出撃にも関わらず完璧な偽装により撃破された戦車は一個中隊規模に留まっており、偽装の重要性を端的に示す事例といえよう。
徽章から即応予備自衛官であることが分かる。しかし、89式小銃を携帯し、ドーランを顔に塗りたくった精悍な姿は、とても予備、とは思えない迫力だ。なお、何が入っているか分からないが大型の背嚢を背負い、そのまま仮設敵陣地後方へと展開していった。少数の普通科部隊であっても、後方においての攪乱任務は、補給路遮断など大きな効果を上げることが可能だ。
航空脅威が想定される為、展開した高射特科部隊。手前に仮設敵が小銃を構え伏せている。
この後、各種ミサイルが射撃準備までの様子を展示すると共に、師団防空システムとの情報連動を行うべくアンテナの設置などを実施、状況終了までの間対空警戒に当たっていた。その後方をFH-70榴弾砲が前進しているのが写真から見て取れる。
FH-70榴弾砲の空包発射! 巻き起こる轟音に観客が耳を塞いでいる。
空包ながら、大きな砲焔が上がっている。これは発射に用いる高熱のガスが空気に触れ瞬間的に燃焼したもので、逆に実弾射撃では一定以上の射程を得る装薬を用いなければ写らないものである。命令下達から20秒以内に射撃することが求められ、誤差50㍍以内に着弾するという。
弾着を模した擬爆筒が炸裂する。写真は花火ではなく、擬爆筒が爆発した瞬間である。実は下手な火砲射撃よりもこの方が音が響く。この後着色煙が上がるもので、弾けた瞬間を撮影に成功したのはこれが初めてであった。結構危険なものだが、地上戦闘を印象付けるには良い装備品である。なお、守山駐屯地祭では訓練展示でこれが何故か大量に不発となっていた。
ちなみに、特科部隊の戦闘は必然的に長距離間の戦闘となり、その成否は情報データリンクの集約に掛かっている。この特科部隊、即ち砲兵部隊が有する情報共有のプロセスを陸上戦闘全般に応用したものが、誤解を恐れずに言えば軍事情報革命といわれる、RMAの実態である。RMAというと価値観が根底から覆るようなハイテクを連想される方が多いが、特科の世界では既に想定された範囲内なのである。
訓練展示では3門のFH-70榴弾砲が射撃を展示した。通常であれば弾幕による全滅を防ぐべく、各砲は100㍍以上距離を置いて布陣するのだが、当然ながら会場の面積という制約から比較的近い位置に配置されている。通常であれば大隊指揮所や中隊指揮所が射撃を管制するべく方位盤を設置し、肉眼で見えない砲までには通信線が配置されるのだが、訓練展示はそこまでは展示しない。特科火砲の射撃により、敵の行動は沈黙した。
施設科部隊が70式地雷原爆破装置により地雷を処理する。これは150㍍の人員通過通路を啓開する爆導索を投射するもので、着地後16秒後に炸裂する。この後、梱包爆薬により対戦車地雷を除去するという。写真では人員により装備されているが、車輌により運用することも可能ということで、第七師団などでは73式装甲車により運用している。地雷処理の瞬間が死傷者が出る可能性が最も高い一つの状況であり、例えば軽装甲機動車などに搭載して運用することも検討してしかるべきであろう。
障害を除去するべく、地雷処理が終了した通路を前進する75式装甲ドーザー。19.5㌧の装甲ドーザーで、操縦席とエンジン室に装甲を施している。エンジングリルなどが剥き出しという構造に批判も多いが、少なくともこの種の車輌に装甲を施したというのは米英など例が少なく、この点は高く評価されてしかるべきである。なお、機動時は排土板とは反対側へ走行し、写真の状況は、バックしていることを意味する。左端には施設科隊員が小銃を構えつつ後退している。
障害を排除した後、74式戦車と軽装甲機動車がこちらに向かって前進する。このコンビネーションは、駐屯地祭訓練展示の定番となりつつある。
なお、不整地においての機動性に制約がある軽装甲機動車であるが、地形の防御力に依存していた消極的戦闘から、装甲車を用いた積極的戦闘という部隊運用形態の柔軟性を高めた点からは評価されてしかるべきである。
戦車発砲!物凄い音が辺りを包む!、それもそのはず、戦車と目が合った、というべきか、こちらに向かって発砲している。これはけっこう怖い。
そんな状況で撮影したものであるが、車体の一部が写るだけのややオマヌケな写真になってしまったのはご愛嬌。空包ながら衝撃波が砂塵を巻き上げているのが見て取れる。この後、前進、停止、射撃、を繰り返し、小生周辺にいた子供たちは逃げ出していった。
更に戦車前進!仮設敵は既に逃げ出した後である。エッ!?まさか此処で撃つの?結構近いよ!空包でも近いって!と思ったところで状況終了、となった。ううむ、小生ももう少しで手前の側溝に身を伏せるところであった。“戦車など時代遅れ!”という者が財務省OBの国会議員やその他に多いと聞くが、それは戦車を見たことのない者のタワごとである。嘘だと思うなら空包をまん前50㍍でブッ放してもらうと良く分かる。よく見ろ日本人!これが戦車だぁ!
訓練展示が終了し、駐屯地内の保存装備などを見て回る。前述のM-1榴弾砲やL-90高射機関砲、74式自走榴弾砲に74式戦車、61式戦車、60式自走無反動砲、60式装甲車、ヘリコプターなどが展示されており、時折、来場者も足をとめて装備品に見入っていた。保存状態は良く、子供たちの記念撮影にも用いられていた。一方でその傍らには初動車輌として十数両の車輌が並び、聞くと災害時の緊急車輌とのことで、ここが東海地震想定震源域に最も近い駐屯地であることが思い出された。
祝賀会場入り口より見えた駐車場に置かれたFH-70,観閲行進では五個大隊の各中隊から50近いFH-70が行進していた。奥には更に多くの榴弾砲が並んでいるという。
以上が豊川駐屯地祭の顛末である。この後、豊川稲荷に参拝し、小生は帰路についた。皆さんもこの駐屯地祭、興味をもたれたらば一度見学を検討されては如何であろうか。
HARUNA
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