北大路機関

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エアフェスタ浜松2006 航空自衛隊発祥の地へ

2006-11-30 16:16:17 | 航空自衛隊 装備名鑑

■浜松基地航空祭

 浜松基地は1954年7月1日の「発足記念式典」が行われたことから航空自衛隊発祥の地として知られる。

Photo_185  2006年11月29日、航空自衛隊浜松基地において、恒例のエアフェスタ浜松2006が開催された。航空自衛隊発足記念行事とともに最初の航空団が置かれた浜松基地は、入間基地に次いで航空自衛隊第二の規模を誇る航空基地であり、航空教育集団司令部が置かれる他、第一航空団、警戒航空隊、第一術科学校、第二術科学校、高射教導隊、教材整備隊、浜松救難隊が置かれ、2600名の隊員が勤務。加えて毎年最盛期で800名の隊員が、基地内の学校において訓練を実施する。

Photo_196  本年は、航空自衛隊最初の航空団である第一航空団が1956年10月(航空団自体は55年12月に発足、56年は改称された年に当たる)に編成されてより50周年を迎えたこともあり、その特別塗装機が展示されることもあり、この他なにかしらの特別飛行展示が行われることに期待をこめて、展開した。なお、同日には明野駐屯地祭が開催されており、いつもお世話になっているC.ジョニー氏一行はそちらにむかっていた。残念ながら特別な飛行展示は行われなかったが今回はその様子を写真にてお伝えしたい。

F2  私事ながら、浜松基地は小生からは少し遠いという印象があり、当日の天気予報は雨、それもかなり激しいという予報であった。従って相応の防滴装備と防水性がやや優れたコンパクトデジカメ主体の装備にて馳せ参じた。しかしながら、天候は快晴。一足先に関東から展開したShin氏にやや遅れ合流したものの、浜松基地は浜松駅よりやや遠く・・・、まあ、つまりその何だ、僕が遅れたんだ。F-2の飛行展示はバス車内から撮る羽目に、AWACSの飛行展示も既に終了という状況での展開となった。

Img_1685   浜松市内は渋滞しており、シャトルバスによる輸送は困難を極めた。航空自衛隊という国の機関の広報行事なわけだし大規模な交通規制を引ければよいのだが、基地に到着した頃には既に救難飛行展示が開始されていた。写真はMU-2救難機で、1967年より運用が開始された。三菱重工が開発したビジネス機MU-2Sを航空自衛隊用に転用したもので、飛行中に物資投下などを可能としたスライドドアや下方視認性を高めたバブルキャノピーなどを装備している。

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 MU-2は30機が導入され航空救難任務の最前線にあったが、しかし1992年より導入が開始されたU-125救難機との代替が進み、航空祭が行われた時点では3機にまで減少しており、間もなくその任務を終えることとなる。MU-2が導入されるまでは、墜落事故に際しては僚機による誘導やT-6単発練習機などが捜索に充てられていたが、このMU-2により捜索能力は大きく向上した。また、LR-1連絡偵察機として陸上自衛隊でも運用される本機は海外での販売も成功した戦後数少ない日本製傑作機である。

Img_1696  連携するV-107救難ヘリコプター。39機が導入され運用されたが、順次夜間飛行能力と荒天時の安全性を高めたUH-60JAに交代が進み、浜松救難隊と新潟救難隊に配備されるのみとなった。特に、MU-2とV-107による飛行展示はいよいよ見納めというべき時期にあり、小生も観艦式本番のチケットという誘いを辞退した(まあ、土曜日の豊川駐屯地祭という理由もあるが)くらいに撮影したかったものなのである。

Photo_186  救難展示が一段落したので地上展示機を見て回ることとする。松島基地より飛来したブルーインパルス。しかし、実はこの部隊ももとは浜松基地にて発足したことは余り知られていない。1960年8月に第一航空団第二飛行隊内にF-86戦闘機を用いて発足した戦技研究班は、東京オリンピックなどの晴れの場において活動を重ね、航空自衛隊の広報に計り知れない効果をもたらした。ブルーインパルスの向こうには小牧基地より飛来したC-130Hの巨大な尾翼が見える。

Photo_187  航空教育集団司令部が置かれる浜松基地に関して、特に航空自衛隊の教育や職種について此処で改めて説明したい。

 陸上自衛隊の普通科や特科、施設科と同じく航空自衛隊にも幹部で24、曹士で29の職種があり、幹部自衛官で、指揮幕僚・飛行・航空管制・要撃管理・高射・プログラム・情報・気象・通信・電気・武装・整備・施設・輸送・補給・生産調達・会計・監理・総務・人事・教育・警備・研究開発・衛生・音楽の職種に分かれている。

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 曹士では、情報・気象・警戒管制・高射通信・高射整備・無線レーダー整備・武装整備・地上訓練機整備・有線器材整備・航空機装備品整備・航空機整備・武器弾薬・車輌整備・工作・施設・消防・輸送・補給・給養・会計・計算機・印刷・総務・人事・教育訓練・警備・衛生・救難・音楽に分かれている。

 これら専門職種の隊員を養成するのが航空教育集団の任務である。

Photo_189  航空教育集団の隷下には第一航空団(浜松基地)、第四航空団(松島基地)、第十一飛行教育団(静浜基地)、第十二飛行教育団(防府北基地)、第十三飛行教育団(芦屋基地)、航空教育隊(防府南基地・熊谷基地)、幹部候補生学校(奈良基地)、教材整備隊(浜松基地)、第一術科学校(浜松基地)、第二術科学校(浜松基地)、第三術科学校(芦屋基地)、第四術科学校(熊谷基地)、第五術科学校(小牧基地)がある。これとは別に航空総隊隷下の教導高射群が浜松基地に展開していることも特筆しておきたい。

Fa18  防衛大学校出身若しくは一般大学出身の一般幹部候補生枠合格者は奈良の幹部候補生学校において前者は22週間(既習者扱いということだろう)、後者は43週間の教育を受け、部隊着任後も幹部術科過程や幹部普通過程などを受け、3佐になると指揮幕僚過程(CS)を受験し、将来の上級指揮官への道へ進む、この中から幹部上級過程(AGS)へと進む。AGSの研究は小生も前に聴講させてもらったが、かなり具体的な命題に取り組んでおり、さすがはエリートと感銘を受けたものである。

Photo_190  一般隊員は、防府南基地の第一教育群か熊谷基地の第二教育群において12週間の新隊員過程を受けた後、1から5の術科学校に適性に応じ入学し専門的な教育を受ける。この浜松にある第一術科学校では航空機整備、装備品整備、写真・工作、飛行訓練機整備、武器・弾薬・武装、航空機用無線整備、動力器材整備を教育し、第二術科学校では高射ミサイル整備、無線レーダー整備、高射発射・管制を教育している。これを初級特技員過程といい、部隊着任後には空曹試験合格後の初任空曹過程、上級特技員過程や術科特修過程などがある。

Photo_191 浜松基地といえば実際に飛行機を飛ばす第一航空団の第32飛行隊や第31飛行隊を連想するが、以上のような教育訓練の目的で多数の航空機を保有しており、そのバリエーションは評価試験を行う飛行開発実験団に匹敵する。

 また、近傍にプロペラ式の初等練習機を運用する静浜基地があり、今年度中に全機退役が見込まれているT-3練習機と、新型のT-7練習機などが飛来し、装備品展示に銀翼を連ねていた。

Img_1711  写真は、浜松基地を象徴する写真で、手前にはT-4中等練習機、そして奥には警戒航空隊のE-767早期警戒管制機、更に向こうには第二術科学校が用いる整備用のレーダードームと思しきものが写っている。E-767は、1998年より四機が導入された早期警戒管制機で、これにより要撃戦闘の一層の効率化が可能となった。冷戦終結後は不要と云われた本機は、近年の周辺諸国軍拡に対する抑止力として機能している。

Img_1929  地上では、静浜基地より飛来(?)したT-3ジュニア・T-7ジュニアの飛行展示(?)が行われていた。何でもT-3練習機の今年度内の全機用途廃止に合わせ、T-3ジュニアも全て退役するそうで、今年度のエアフェスタ浜松はT-7ジュニアとの共演であるとともに、T-3ジュニアのラストフライト(?)でもあったわけである。この機体だけは平日に滑走路脇でみることはまず出来ないだけに貴重な機会を一目見ようと黒山の人だかりとなった。

Photo_195  格納庫内ではエンジンのカットモデルを用いた装備品展示が行われ部品はいくつあるの?とか、整備は難しいですか?という市民からの質問に丁寧に隊員が答えていた。中には戦時中に航空機整備をしていたとか、OBの方もみえたようで、T-33のエンジンとの比較を隊員と談話する姿もあった。写真はT-4のエンジンだが、この他巨大なE-767用エンジンもこちらはカットモデルではなく実物だが展示され、更にサイドワインダーやスパロー、AAM-3といったミサイルや救難装備品も並べられていた。

Img_1741  さて、地上展示機をざっと見回した後の頃合でT-4練習機が次々と離陸を始め、大空へ舞ってゆく。

 T-4は、それまでの複雑な練習過程を一気に効率化した航空機で、T-7初等練習機、T-4中等練習機と、実戦部隊への機種転換という三段階に集約したことで、T-33、T-1、T-2などが混在していたいままでは練習機ごとの機種転換までが必要だったのと比べ非常に分かりやすい体制になっている。

Img_1723  T-4練習機はT-33練習機の老朽化を契機に開発されたもので、設計は戦時中であったF-80(P-80)の複座練習型であるT-33から一気に近代的な後退翼のジェット練習機に近代化したわけである。

 1981年5月に防衛庁より要求水準が提出され、富士重工、川崎重工、三菱重工が応じ、この中から川崎重工案が採用、1985年7月29日に初号機が初飛行を果たし、航空自衛隊の主力練習機となった。

Img_1704  特筆するべきは、国産ジェットエンジンと国産機体の組み合わせというT-1練習機以来の試み(T-2のエンジンは英ロールスロイス社製アドゥーア)で、石川島播磨重工の開発したターボファンエンジンを二基搭載している。

 容易な操縦性と、当時は超音速のT-2練習機に素早く移行するための高速性能としてマッハ0.9が要求され、空対空戦闘の訓練から曲技飛行に対応するだけの汎用性の高い航空機である。

Img_1765  T-4についてこの他のデータを述べると航続距離は1300km、エンジンの正式名称はF-3-IHI-30といい、推力は一基あたり1670kg、機体は炭素系複合素材を用いており、この開発で培われた技術はF-2支援戦闘機の一体複合材主翼に活かされている。

 地上配置となったパイロットの操縦技量維持にも用いられる本機は戦闘機部隊にも配備されている。

Img_1758  こうした多用途性の高い本機は2003年3月6日の芦屋基地配備分を以て生産終了となったが、約220機が配備されている。

 なお、余談だが銃器評論家である床井雅美氏の著書「最新軍用機図鑑」では、兵装搭載量1400kgと書かれているが、例えば江畑謙介氏の著書でも本機の火力支援型も当初検討されたといい、簡易式FCSとIRSTを搭載すれば自衛用の短距離AAMを搭載しロケットポットやガンポッド、500ポンド爆弾などを運用することも出来るかもしれない。

Awacs  滑走路に向かい、早期警戒管制機E-767の上空を飛ぶT-4の四機編隊。E-767は1998年3月25日に早期警戒管制機実用試験隊として浜松基地に二機が配備され、更に二機の導入を待って第601飛行隊第二飛行班を編成している。現代航空戦闘では、脅威目標を策定し脅威度の高い目標に自動・半自動にて指示を与え要撃戦闘を行うAWACSの重要性は高く、E-737やE-2Cといった早期警戒機よりも優れた機能を有する本機により航空自衛隊の能力は大きく向上した。

Photo_192  飛行展示を終了し、続々と着陸した後にエプロン前方に整列するT-4。こうしてみるとかなりの数である。

 機体の傍から任務を終えたパイロットが一列に歩き、整備車輌や整備員が飛行を終えた機体の整備に掛かっている。実は、こうした整備車輌などを多く保有する航空自衛隊は、人員で陸上自衛隊の三分の一ほどながら、陸上自衛隊よりも多くの車輌を保有している。

Photo_193  気がつくと滑走路反対側にも多くのT-4練習機が置かれている。

 第一航空団だけで50機ほどのT-4練習機を保有しているが、この写真にある機体は、第一術科学校の整備教材なのか、それとも第一航空団の機体か、はたまたメーカーに定期整備に送られる機体なのかは不明であるが、これもかなりの数である。ズームしている為少なく見えるが、実際にはもう少し左右に散らばっている。

Photo_194  整備が終了し、車両が撤収。一列に並んだT-4練習機がクリアにみえる。練習機とはいえ、これだけ並ぶと中々壮観である。もともと浜松基地は浜松南基地と浜松北基地が1989年3月に統合されたこともあり、駐車場エリアとして用いられる北エリアと、エプロンと公開地区のある南エリアがあるが、逆光のエプロンを避け、北側エリアで順光状況で撮影する人も多い。しかし、北側や、隣接する浜松広報館エアパークからこの列機は見えないので位置選択は慎重に行う必要がある。

Img_1843  民間アクロバットチーム、エアロックが飛行展示を開始する。複葉機ならではの華麗なフライトである。

 浜松基地は1933年に完成した旧陸軍飛行場がその始まりであるから、形式は異なれ昔は複葉機が翼を並べていたのだろう。その後重爆撃機の飛行場となり敗戦を迎える、米軍の不時着飛行場を経て航空自衛隊発足の場となったわけである。

Img_1899_1  飛行展示を終了し、機体を降りたタックネーム、サニーこと横山氏。民間にアクロバット!?と思われる方もいるかもしれないが、元航空自衛隊F-15Jパイロットであった岩崎貴弘2佐が退職後アメリカにて曲技飛行の専門学校を修了、その後エアロックを立ち上げたもので、横山氏の方を向いている安全係の航空自衛官の前をこちらに歩いてくる様子が印象的な一枚である。他方、複葉機ピッツに比べ、その向こうのE-2C早期警戒機の大きさも印象深い一枚だ。

Awacst4  航空祭の締めというべきか、最後の飛行展示であるブルーインパルス曲技飛行へむけ、航空機が誘導路を前進してゆく。

 地上展示機の列の後ろを前進してゆく様子が見える。小生は滑走路の端より撮影していた為、写真のような望遠を用いた圧縮効果を活かした撮影が出来る。こうした写真は前述の北側からでも可能かもしれないが、滑走路の端の周回道路は大回りになるため、ここに拠点を固めた次第だ。

Photo_197  T-4列機の前をすすむブルーインパルスのT-4。

 ブルーインパルスは、F-86、T-2、そして現在のT-4へと世代を代えていったが、この内F-86は浜松基地に置かれており、戦技研究を目的として1960年8月に編成されて以来、1981年2月の解散まで、545回の展示飛行を実施している。かつては、練習機にT-33、ブルーインパルスがF-86を運用していたが今日では双方がT-4となっている。

Photo_198  ブルーインパルスについては、小松基地航空祭や岐阜基地航空祭に際しての北大路機関掲載記事に多くを書いているため、これ以上各琴は少ないがF-86当時のことについて少し触れておきたい。

 当時は四機編隊とソロ飛行の一機、合計五機により編成されており、飛行種目は16種目であった。公式飛行展示は浜松基地において基地隊員の見守る中1960年3月4日に初飛行を展示した。

Photo_200  この後、航空幕僚長命令により空中機動技術研究班として4月16日に正式に発足するが、これに先立つ3月19日には防衛大学校卒業式、4月12日には航空幕僚長視察として飛行を実施している。

 選定されたF-86は、曲技飛行に不要だが実戦機には必要な機銃精度が低いことと、空中分解の危険性を内包するオーバーG(過剰加重)の掛かっていない航空機が選ばれたという。

Photo_201  5月12日の五回目の飛行では、ジョンソン航空基地(現航空自衛隊入間基地)においてスモークを用いた飛行展示が初披露された。

 余談ながら、当初は飛行隊名は“天竜”という静岡県天竜川からの名前を用いたが、語呂が悪いという通信時の不調から、当時のコールサイン“インパルスブルー”が採用され、ブルーインパルスとなった。この年だけで13回の飛行展示を実施し、その名は急速に知名度を上げ、今日に至るわけである。

Photo_202  以上がエアフェスタ浜松、浜松基地航空祭の概要である。浜松駅からのシャトルバスはそれなりの本数が運行されているもののそれ以上に観客が来る為、早めの行動をお勧めしたい。今年度は一定の駐車場が確保されていたが、市内の交通渋滞を考えるとこちらも早めの行動が必要であろう。雨天を想定した為装備不充分な写真で恐縮だが、皆さんも来年度、是非展開を検討されてみてはいかがであろうか。

HARUNA

(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)

コメント (2)
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