北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

富士山麓の砲声 陸上自衛隊富士学校と富士総合火力演習の歴史

2007-08-21 19:22:06 | 陸上自衛隊 駐屯地祭

■総火演!

 2007年も富士総合火力演習が行われる季節となってきた。この演習は一般公開される演習としては日本最大規模のもので、演習では各種小火器、ミサイル、戦車砲、特科火砲、実弾による射撃が展示される。

Img_6952  陸上自衛隊の普通科、特科、機甲科の幹部教育や装備品の試験、運用研究、戦術研究を行う富士学校が主催し、その展示を目的としたものである。しかし、一般に見える範囲内、戦車が撃って砲焔スゲェ!では、もったいないので、本日は、その歴史や富士学校などを紹介してゆきたい。

Img_6385_1   富士総合火力演習は1961年2月の総合展示演習に起源をもつ陸上自衛隊の演習である。この演習の目的は、富士学校による学生教育の一環として、機甲科、特科、普通科装備の威力に関する展示、現代戦の火力戦闘の効果を認識させることでの教育を目的として行われている。総合展示演習は、1972年に今日の富士総合火力演習という名称に変更された。

Img_6580  1966年より自衛隊広報活動の一環として一般への公開が行われ、この年は2600名が観覧、観覧者の数は年々増加し、1974年には10000名を突破している。観覧者の増加は、予行日の演習公開にも繋がり、こうして一般公開から29年目にあたる1995年には累計述べ観覧者が100万を突破した。

Img_6553  富士総合火力演習は、今日、一般公開されている部門と、原則隊員と関係者のみに公開される教育演習、そして夜間演習に区分されている。夜間演習は1982年より開始され、教育演習と一般公開演習との区分は1984年に行われている。

Img_6689  各種最新装備の展示も行われ、一例として1976年に74式戦車が二個小隊初参加、1991年に90式戦車が初公開、翌年には射撃展示も初公開された。こうしたことから観覧希望者は増加を重ね、1988年から観覧希望者の一般抽選が行われるようになっている。

Img_6834_1_1  夜間射撃は、2000年まで、実質的には自由観覧ということであったが、Web等を通じて見学者が増加したことから入場券が必要となり、関係者から個人的に入手する他は観る事が出来ないが、個人的な経験からいえば、御殿場市内では夜間射撃の照明弾の明かりや砲声を聞くことが出来る。

Img_6700  富士学校の実動部隊として富士駐屯地に本部を置く富士教導団は、団本部隷下に、普通科教導連隊、特科教導隊、戦車教導隊、偵察教導隊、教育支援施設隊を有し、この他に明野駐屯地の陸上自衛隊航空学校も教育支援飛行隊富士飛行班を滝ヶ原駐屯地へ展開させている。

Img_6708  演習や富士学校祭などの参加車輌から推して、普通科教導連隊は六個普通科中隊、重迫撃砲中隊、対戦車小隊を有している。特科教導隊は特科連隊のような大隊編成を用いず、恐らく特科中隊基幹の編成を採用しているようで、各種火砲により六個特科中隊、そして第303観測中隊より構成されている。戦車教導隊は五個中隊編成で、戦車連隊に匹敵する規模を有する。

Img_6731  富士教導団の編成で注目すべき点は、普通科や特科の中隊編成が全て教育目的に応じて編成が異なる点で、普通科、機甲科、特科部隊の主要装備全てをみることが出来る。写真の89式装甲戦闘車には“普教-5”とかかれているのがみえるが、これは普通科教導連隊第五中隊の所属であることを示している(ナンバー中隊は四個との指摘があったので、この一文だけ後日追記) 。

Img_6719  陸上自衛隊富士学校は1954年8月20日に創設され、旧軍の久留米駐屯地歩兵学校、習志野駐屯地砲兵学校、相馬ヶ原駐屯地戦車学校を統合した教育機関として編成された。当時は、普通科、特科、機甲科毎に別々の学校を創設する案もあったが、政治的配慮と錯誤により統合案が採用されたとのことだ。

Img_6722_1  創設当時は、教導隊という名称ではなく、特科部とか、普通科部、機甲科部、というような名称が用いられていた。この部、という組織の隷下には戦術教官室、砲術教官室、観測教官室、というような名称で、特性に応じた教官室が置かれ、実動演習では適宜、戦術班、砲術班、観測班というような呼称が用いられた。

Img_6809_1  富士学校祭、富士総合火力演習を観覧された方は、恐らく突然の天候悪化や濃霧というものを経験されたのではないだろうか。これは、富士学校や東富士演習場の標高に大きく関係している。富士学校は標高850㍍の場所にあり、御殿場市の標高450㍍と比べてもまだ高い。

Img_6839_1_1  今日では富士スピードウェイなど、多くの観光施設が並ぶが、もともと富士学校の置かれた須走とは、富士の山岳信仰の拠点のような場所であり、苦行を成し遂げる為の僻地という場所であった。実は、あまりもの気候の悪さから、旧軍も演習場は設置しても駐屯地は置かなかったほどなのである。

Img_6906  当初は、例えば練馬や三島市などに富士学校の設置案があったが、用地が得られず今日の位置に置かれている。今日では、一部の装備に熱線暗視装置が搭載され、濃霧などの置く天候も通して射撃を行うことは可能だろうが、創設当時の苦労は相当なものであったろう。

Img_6751_2  富士教導団は、実動部隊として普通科、特科、機甲科の教導隊を有していることは先に述べたが、約4100名の隊員から成り、機械化された普通科連隊(中隊ごとに装備は統一されている)、戦車連隊に匹敵する戦車教導隊と、方面特科火力にも用いられる重砲や多連装ロケットシステムなどを有することから、長官直轄の戦略予備部隊として首都防衛を支える重責を有している。

Img_6781  こうしたことを踏まえて俯瞰すれば、華々しい砲焔、一発必中の射撃、空中炸裂し描かれる軌跡などの富士総合火力演習は、射撃シュミレーターや射撃指揮、通信、そして各種装備の支援装置が練り上げた陸上自衛隊戦術研究や装備品研究の一端を垣間見る機会であるということだ。

Img_6776  さてさて、富士総合火力演習について、その歴史と富士学校の歴史を些か簡単ではあるが列記してみた。いよいよ本番は今週末、予行も行われており、富士山麓には“八月の砲声”が轟いていることだろう。北大路機関では、今後も、富士総合火力演習の観覧を、もう一歩深めることができるかもしれない内容を掲載してゆきたい。

HARUNA

(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)

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Randenに乗って避暑地嵐山へ 京福電鉄撮影紀行

2007-08-20 23:15:43 | コラム

■“らんでん”

 京福電鉄は、京都市の大宮、北野白梅から嵐山を結ぶ鉄道会社である。軌道線として主にY字形の路線網を有し、嵐山本線は7.2km、北野線3.8kmを基幹としている。

Img_8832  牧歌的なかたちをしている京福電鉄北野白梅町駅、ここから嵐山へ向かう。京福線は均一運賃制であり、200円で一乗車、北野線と嵐山本線の乗り換えを含め、どこまででも行くことができる。一日券も500円ということで、沿線の寺社仏閣や観光地までの移動には重宝する。

Img_8799  目的地である嵐山。写真にみえるのは有名な渡月橋。先日特集した五山送り火において、五山送り火観覧の名所として紹介した渡月橋であるが、写真にしてみるとどの程度見えるかということが端的にみることができる。ここからは京都タワーなども望見できた。

Img_8829  北野白梅町駅の外観。急行バスや快速バスも停車する北野白梅町から徒歩ですぐ。この写真を撮影した位置からは西大路通とともに左大文字山が見ることが出来た。運転本数は、基本的に十分に一本。あまり待つことなく乗車できることは利用者として嬉しい。

Img_8830  駅の改札。自動改札機ではなく、昔ながらの有人式改札である。ここからは、金閣寺へバスを併用し15分、北野天満宮へ徒歩5分強、平野神社までは徒歩で10分弱といったところだろうか。主な観光地と嵐山を結ぶ路線ということでもポテンシャルを有している。

Img_8780  等持院、龍安寺、妙心寺、御室仁和寺という各駅下車したくなる駅を経て、帷子ノ辻駅から嵐山本線へ乗り換える。見ての通り1435㍉という標準軌路線の複線。恵まれた路線をゆくモボ621系電車。モボ611系電車とファミリーを構成し、621系は1990年から6輌が製造されている。

Img_8784  モボ101系電車。京都銘菓の特別塗装を施している。この特別塗装車は2000年に本線開業90周年記念事業として行われたもので、見た目のレトロさとは反面、冷房改造なども行われており、軌道線、つまりいわゆる路面電車というイメージを伝えるべく走り続けることを期待したい。

Img_8786  終点、嵐山駅へ到達。嵐山駅では、夏限定のホームの茶屋、足湯などの個性的なサービスが展開されており、JR西日本山陰線嵐山駅、桂駅から連絡する阪急嵐山駅へ存在感をアピールしている。もしかして、隠れた鉄道激戦区なのかな?と思ったりもした。

Img_8839  モボ101系。複線である嵐山本線と、単線である北野線。いわゆる路面電車としての区間がある嵐山本線に対して、北野線には200㍍もの桜並木の中を路線が走るという、春が楽しみな区間があったりもする。いわゆる、単なる移動手段としての鉄道から一歩進んだ楽しみを提供してくれる訳だ。

Img_8899  地上デジタル放送を受信中、おお、テレビカーである!。テレビカーといえば、京阪電鉄特急のテレビカーを彷彿させるが、有人曰く京阪電鉄と京福電鉄は資本提携しているため当然、なのだとか。ちなみに、京福電鉄におけるこの列車の愛称は“デジデン”。一輌のみの“デジデン”に乗車出来たわけだ。

Img_8902  京都唯一の路面電車の区間をお楽しみ下さいというアナウンスとともに路上を走るモボ2001系。2000年から導入された最新鋭車輌である。運転台越には山之内駅のホームが見える。電停は一段高くなっており、文字通り安全地帯である(これがない鉄道会社の安全地帯で老人運転の自動車に轢かれそうになった経験がある、この段差は重要だ)。

Img_8834_1  路面電車区間にとって、なによりもの問題は軌道線内に入り込んでくる自動車の存在だ。交差点などでは、仕方ないような場面もあるが、仕方なくない場面も目にすることがある。列車は停車し、警笛を鳴らすが、無理な割り込みをしている自動車などはなかなか出ることが出来ないこともある。

Img_8837_1  路面電車の情景を撮影するべく西大路三条で下車する。西院駅に向かって発車する列車。なお、西院は京福電鉄と阪急電鉄にあるが、京福では西院を“さい”と読み、阪急では“さいいん”と読む。以上、豆知識である。四条大宮と嵐山とを結ぶ本線には太秦や広隆寺などがあり、レトロな列車が観光の雰囲気を割増してくれる。

HARUNA

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猛暑酷暑の古都京都 涼を求め避暑へ様々な地へ

2007-08-19 21:41:57 | コラム

■鉄道に乗って

 京都は猛暑である。少しそのピークは過ぎてきてはいるようであるが、いわゆる避暑地という地域へは多くの府民や観光客が訪れている。

Img_8606  諸般の事情から本日の記事は短め。短報として称しており、詳報はいつ?という記事は少なく無いが、とりあえず行って来ました的な記事を掲載。とりあえず、涼しそうな場所をということで、五山送り火の当日に、遠方から来た友人を連れて某所へ。ヒントはこの車輌。

Img_8838  展開してみたが比較的涼しい、というよりは暑かったので、日を改めてもう一つの避暑地へ、ということになった。ヒントはこの車輌。さてさて、どこへ行ったかは後日の詳報に任せるとして、本日は短報としてお送りした。二つ目のところは比較的涼しかったということを追記しておきたい。

HARUNA

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京都 夜は冷涼古都の夜景 西本願寺・東寺撮影紀行

2007-08-18 12:03:28 | 写真

■夜景撮影

 八月上旬、ちょうど日本全国が熱波に覆われていた中、京都も例外ではなく日中の外出は極力避けたいという程の熱波にあった。しかし、酷暑は夜と共に去り、小生一行はこの好機を活かし撮影に展開した。

Img_7821  城郭のような印象をうける西本願寺の太鼓楼。この西本願寺は、1994年に古都京都の一部として世界遺産に登録されている。この時間帯は中に立ち入ることができない為、堀川通のあたりに三脚を立て、長時間露光による撮影を実施した。

Img_7811  日中の暑さを避けるには、やはり書庫に篭るのが一番である。資料も豊富でコピー機も置かれている。しかし、上の方の階には椅子がないのが参った、まあ、閲覧室ではないので仕方ないのだけれども。その上で、撮影器材を担ぎ、ロードレーサーによる無理な姿勢の移動は少ししんどかったりする。

Img_7816  本願寺の発祥は1272年に廟堂を建立したのが起源といわれ、内部抗争などで一時荒廃したが1591年に豊臣秀吉により再興され、今日に至る。境内には、安土桃山時代の建築物も多く、国宝や重文に指定されているものも数多い。

Img_7810  ちなみに、西本願寺は、東本願寺とともに平成の大修復が行われている。この大修復について、1800年、寛政年間の大修復以来の大修復で、ここまでの大規模な修復の様子は今後二百年はみれないのではないか。写真は修復に用いられている瓦の展示である。

Img_7836  堀川通の向こうに唐門がみえる。見た通り修復中である。今年初旬に東本願寺の大修復における写真を哨戒したが、本堂を覆った航空機用格納庫のような覆いは、西本願寺本堂の修復でも構築されていた。しかし、すでに本堂の修復は瓦などは除き終わっているのか、覆いは取り外されている。

Img_7842  門だけもで、この風格である。

 赤い光は信号機の光に反射している様子で、青信号のときに撮影すればまた違った印象になるのだろう。ちなみに同行の友人はこの様子よりも、隣にあった高級ローソン(?)の撮影に向かっていた。

Img_7846  修復中の様子が一目でわかる。ちなみに、この中の境内は広く、浄土真宗本願寺派の龍谷大学大宮キャンパスもこの中に置かれている。なお、江戸時代に分離した東本願寺により、それまで本願寺と称されていたが、今日の西本願寺という名称になったとのこと。

 西本願寺を撮影した後、やや不足気味であったため、JR線をくぐりそのまま東寺の撮影に展開した。

Img_7851  東寺五重塔。木造建築物としては空前の53㍍という高さを誇る。古都京都の高層建築物として紹介したが、ライトアップされた様子は日中に見ることの出来る様子とは大きく違った印象を受ける。ライトアップされた五重塔は、新幹線や近鉄線などの車窓からもみることができるだろう。

Img_7859_1  東寺は、正式には教王護国寺、金光明四天王教王護国寺秘密伝法院と称し、やはり世界遺産に登録されている。西本願寺からも歩けば20分ほどであろうか。京都駅からも十分ほどで行くことができる為、途中下車していくことの出来る世界遺産といえる。ただ、日中には熱中症の危険がある時期など、バスを利用した方がいいかもしれない。

Img_7872  ちなみに、東寺において月末に行われる縁日は、その規模が京都において最大といって過言でないほどの盛況で、小生も、あそこまで大きなものとは想像すらしていなかったほどだ。ちなみに小生の写真の御師匠様曰く、遠く東京からも京都の布や食品などの物産を買い付けに来るほどという。

Img_7883  今回の高い位置からの撮影は写真の右側に写っている歩道橋から実施した。大型車輌が通ると少し揺れてしまうので長時間露光は場合によっては失敗することもあるが、気軽に高い位置から世界遺産を見ることが出来る貴重なポイントである。

 以上が夜間撮影紀行の顛末である。

HARUNA

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京都五山送り火 漆黒の空に浮く精霊送りの伝統行事

2007-08-17 12:23:05 | 写真

■大文字五山送り火

 京都府警によれば、市内を流れる賀茂川、嵐山の渡月橋では、五山送り火を観覧するべく観光客10万人が訪れた、と発表しているが、100万都市京都にあって、屋上や屋外から送り火に手を合わせた人は更に多いであろう。

Img_8750  五山送り火は、京都四大祭とも称されるが、四条通河原町通御池通で行われる山鉾巡行を筆頭として御所から下賀茂神社、上賀茂神社に至る葵祭、平安神宮から烏丸通を経て河原町通をゆく時代祭と違い、広く京都市内からみることが出来る。

Img_8679  如意ヶ岳の大文字へ、2000時点火の瞬間の様子。75箇所の火床に護摩木が焚かれ、その瞬間を捉えようとカメラのフラッシュが白い閃光を放っているのが、写真からみることができる。ISO感度100、AF値5.6で30秒間の露光時間により撮影した。

Img_8680  大文字送り火、点火から三分後の様子。この始まりについては、平安時代初期、弘法大師空海により大の形に儀式を行ったという説、十五世紀に足利義政が近江にて戦死した実子を弔う目的で始めたという説、江戸初期に始まった、など諸説がある。

Img_8687  六分を経てなお煌々と光を放つ。この護摩木は、大文字保存会の手により樹齢30年以上の赤松を選定し、一束28本の束としたうえで一年以上乾燥させ、そして百束の麦藁を用意し、補修した山道を通り火床に添えられる。感動を生み出すには、こうした保存会の人たちの熱意がなによりも重要である。

Img_8758_1  大文字の点火から十分、2010時に松ヶ崎の妙法も煌々とその姿を夜闇に浮かべ始める。比叡を背景に、松ヶ崎西山、松ヶ崎東山の“妙”“法”の文字が浮かび上がる。400束の護摩木、松葉170束が、鉄製の火床の上で焚かれている。

Img_8691  電線やアンテナがフレームに写りこんでしまっているのが少し残念である写真。まあ、テレビアンテナや電線は現代的な情景ということでご容赦いただきたい。二つの文字は、斜面の角度が異なるが、100㍍四方に二つの文字が浮かんでいる。この“妙”の送り火は、鎌倉時代末期より始まったものとされている。

Img_8694  “法”の送り火は、“妙”とは時期が異なり、江戸時代から始まったものといわれている。ただし、双方とも確たる由来のようなものはなく、諸説あるという。そもそも、時期によっては五山ではなかったということで、最盛期には七から十の送り火が焚かれていたとの事。五山となったのは戦後からということである。

Img_8713  舟形万燈籠送り火。左大文字山とともに2015時より点火する。この舟形について、その起源は精霊流の舟に起源を求めるものや、10世紀の疫病により京だけでも数万の死者を出した際の供養、大文字と舟を併せ大乗仏教を意味するものなど、やはり諸説がある。

Img_8735  今回の写真撮影では、300㍉望遠レンズと広角レンズを併用した。特に、三脚による低ISO感度長時間露光と高ISO感度撮影を併用した。撮影場所にもよるが、公民館などの屋上が開放され、情報収集に左右される。一般に知られている“穴場”の他にも、多くの撮影ポイントはあるようだ。ただ、点灯時間は限られており、良い位置をさがし右往左往していると残念な結果になることもありうる。

Img_8722  左大文字山も、舟形とともに点火される。金閣寺付近から観ることが出来るが、今回は団体ということもあり、余り動かず定点撮影に徹した。さて、報道によれば本日も猛暑酷暑であるが、そのピークは昨日の日中とのことであった。これから少しずつ、涼しくなることを期待したい。

HARUNA

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京都五山送り火 古都の夜空を煌々と彩る五山の精霊送り

2007-08-16 22:37:31 | 写真

■大文字送り火

 本日、八月十六日は、京都五山送り火である。京都の五箇所に、大、妙法、舟型、鳥居、大が煌々と焚かれる。その様子は広く街並からも浮かび上がり望見できる。

Img_8686  不思議なもので、社会は電子化され、開発は深海から宇宙にまで伸ばし、技術立国を自称する日本においても、こうした行事は健在である。

 人々は頑なともいうべき熱意で伝統を昨日から今日へ、今日から明日へと伝え続けている。

Img_8678  本年の五山送り火は、NHKによって全国中継されていたとのことであるが、小生とYAMATO氏、けーと氏、S氏一行は、そうした情報には頼らず、ひたすらに点灯をレンズ越に待ち続けていた。点火の瞬間は、やはりある種の感動を誘うものである。

Img_8683  護摩木に点火され、勢いよく夜空に大文字が描かれる。

 感性というべきか、距離は遠く隔てているはずなのだが、焔をじかにみていると、あたかも身近に精霊送りを行っているような錯覚を感じるのはなんとも不思議である。

Img_8688  送り火が燃え続けているのは実質十五分ほどであろうか。この他、妙法、そして舟形、更にもう一つの大文字送り火も観覧することが出来た。京都五山送り火、祇園祭、葵祭、時代祭とともに京都四大祭と称されるこの行事を終えると、古都は秋へ向かい、動き始める。

HARUNA

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第二次世界大戦終戦 日本のいちばん長い日から62年

2007-08-15 14:02:16 | 防衛・安全保障

■あの決定的な敗戦から

 本日は終戦記念日である。昭和二十年八月十四日、大日本帝国は連合国に対してポツダム宣言受諾を宣言し、八月十五日正午、宣言受諾の玉音放送により、太平洋戦争、大東亜戦争と呼ばれる一連の長い戦争は終戦を迎えた。

Img_7956_1  今日では、国連憲章二条四項により武力行使そのものが国際法で禁止されており、一般に急迫不正の事態における即座に均衡の取れた自衛権行使を除けば、特に武力攻撃を行うことは禁止されている。しかし、二十世紀前半までは、不戦条約と、植民地という矛盾した国際関係が、度々不幸な結果をもたらすこととなった。

Img_7982  第一次世界大戦は、如何なる連帯も、実際の戦争が勃発すれば、祖国防衛論が高まることにより、挙国一致で戦争遂行に国家が動くことと成り、兵器体系が産業の技術革新により複雑化し、兵站を支える為に総力戦という形態と重なり、犠牲者は更に増加することとなった。

Img_8070_2  男子の四分の一、1000万が兵士として参加し、200万が死亡、一般国民100万が死に、1500万が財産を失った。大東亜戦争、太平洋戦争により生じた犠牲について、多くが報道され、特集する記事や番組が放送されているが、あまり深く考えず、武力紛争や平和構築において考えるいくつかのことを、当方の価値観に基づき思いつくままに記したい。

Img_8096  第二次世界大戦を改めて考えると、国際関係における信頼醸成の不充分な点が開戦に至ったものと考える。これは同時に情報通信技術の未発達により生じる意思決定の硬直化が増幅し、国際関係の緊張が武力紛争へ発展することを助長する結果に至ったのではないかと考える。

Img_8138  さて、第二次世界大戦後、いわゆるフォーラムの場としての国際連合が成立し、常設機関として諸問題に議論を行うことは、その過程を通じて表面上得られるものが皆無であったとしても、一種の信頼醸成を形成する重要な意味を有していたといえよう。

Img_8099_1  こうした国際機構の実現は、第二次世界大戦の膨大な破壊から生じた一つの進歩であり、同時に出現した核兵器を用いた武力紛争が現実のものとならなかった重要な要素であるといえ、第二次世界大戦が世界史の大きな分岐点となったことを端的に示す事例である。

Img_8112  さて、武力紛争は国家間における不充分な信頼醸成により、生じるという一つの視点に立てば、今日的にはその形成に必要なフォーラムとなる場所は既にあり、この他にも例えば国際金融、例えば地球環境問題というような普遍的命題に対する国際協調により信頼醸成は達成しうると考える。

Img_8149  他方で考えなければならないのは、先制的自衛権行使という、9.11以降生まれた新しい概念、そしてジュネーヴ法やハーグ条約という武力紛争法から飛び出てしまった人々の人権の確保という命題、更には国内紛争に対する国際介入の在り方などが挙げられる。

Img_8313_1  先制的自衛権の行使、これは言い換えればやられる前にやれ、というものであり、自衛権を如何に解釈しようと生じ得るものではないのだが、イラク戦争を契機として一部の国が行使に踏み切ったことで、この論理体系の普遍化を防ぐ必要はある。従って、自衛権の意味の再検討、若しくは新しい法体系の検討も含め考える時期となっているのではないか。

Img_8315_1  また、テロ容疑者という名のもとで、例えばグアンタナモ、例えばアブグレイブといった施設に収監された人々は、戦争捕虜としての権利を有していないばかりか、国際人権規約に基づく一般犯罪者としての権利も有さない状況下にあり、例外状態という極度の無法状態が出現している。これは放置し得る問題か否かも含め重大な命題である。

Img_8340_1  国内紛争の問題について、SIPRI年鑑に目を通すと、1990年から2004年までの十五年間に、1000名以上の犠牲者を出した武力紛争は57件とあるが、このうち国際紛争は湾岸戦争、印パ国境紛争、エリトリア紛争、イラク戦争の四事案のみで、他の53事案は内戦であった。しかも、今日の内戦では、文字通り例外状態が常態化し、交戦団体承認や非戦闘員保護が為されないまま残虐化する傾向がある。

Img_8347_1  内戦に対しては、国際平和維持活動か人道的介入により対処するか放置するかの選択肢しかないが、国際平和維持活動は予算措置や責任の所在に問題があり、人道的介入は安保理決議に基づくものであるか否かを度外視しても、法的根拠が不充分である。しかしながら、これら三つの問題はその解決の難しさの反面、極力早く検討しなければならない命題である。

Img_8350_1  この他にも、植民地独立後の国家形成が生んだ諸問題の影響、通常兵器軍縮により生じた余剰兵器の紛争地流入、自由貿易実現により生じた構造的な国家間格差、核軍拡、難民保護、テロリズムの国際的拡散、国際犯罪など問題は山積している。

Img_8349  日本が実際に参加した第二次世界大戦を如何に考えるか、この考えには、特に空襲や原爆という被害、侵略と併合という加害ばかりが強調され、国民の支持による軍国主義への反省という部分が語られているが、何故戦争が生じ、何故民主的コントロオルが機能しなかったかについての平和学的、政治学的な理解は浸透していない。

Img_8048_1  問題提起だけして、処方箋を添えないのは些か気が引けるが、幸い、今日の日本は武力紛争と遠く隔てられたという意味で平和である。62年間の平和と反映を享受する日本にあって、過去に関する反省や感傷も重要であるが、平和構築において出来ることは何か、ミクロマクロの視点から見つめてみることも、必要であろう。

HARUNA

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陸上自衛隊下志津駐屯地創設52周年 高射学校つつじ祭 観閲行進

2007-08-14 19:11:36 | 陸上自衛隊 駐屯地祭

■下志津駐屯地祭2007

 高射学校創設記念行事は、部隊整列、指揮官巡閲、指揮官訓示と来賓祝辞を終えて、いよいよ観閲行進へと進んだ。観閲行進準備の号令と共に、陸上自衛隊の装備する高射特科装備が続々と前進を開始した。

Img_9755 観閲行進の先頭は、高射学校本部の車輌に掲げられた高射学校旗の入場と共に開始された。高射特科職種の装備は重装備が多く、観閲行進は徒歩行進を含まない、完全な車両行進によって展開された。軽快なリズムを奏でる音楽隊の演奏と共に車輌は前進する。

Img_9760 高射学校本部管理中隊の車輌群。第一、第二教育部、総務部、研究部、作戦評価室が置かれているが、観閲行進は主に隷下に置かれた実動部隊である四個の中隊と高射中隊により進められる。学校とはあるものの、有事の際には、実戦部隊としても運用される精強部隊ということを実感できる。

Img_9767  本部管理中隊のレーダー車輌。このレーダーが収集した情報を、師団対空情報処理システム(Division Air Data processing System)、通称ダドスにより分析する。こうして、脅威度評価を行い、必要に応じて対空警戒警報情報を発令し、隷下の防空を展開する(参考:次世代の陸上自衛隊 かや書房)。

Img_9770  師団や旅団の高射特科大隊本部管理中隊に装備し、低空用レーダー装置JTPS-P18(通称P-18)。低高度を飛行する航空機に対して全周にわたる警戒を実施する。運用時には、車体を固定し、レーダーアンテナを高く延伸し運用する。電源なども車載されており、システム一式の自己完結型。Xバンドレーダー方式で重量は1.8㌧、三菱電機製の装備である。

Img_9771  対空レーダー装置JTPS-P14(通称P-14)。周波数範囲はSバンド、アクティヴフューズドアレイレーダー方式であり、運用時は地上設置される。1988年より配備され、三菱電機製。なお、これらは主に師団や旅団に配備されるが、方面隊高射特科群は、独自に対空戦闘指揮装置を保有している。しかし、方面隊には目標情報収集手段が主に航空自衛隊バッジシステムと連動させている点に、脆弱性を指摘する声もある。

Img_9777  第一中隊が運用する81式短距離地対空誘導弾の車列が進入してきた。通称:短SAM、方面隊装備のホークミサイルと、高射機関砲の間隙を縫う装備として導入された装備で、基本的に師団高射特科大隊に4セットが装備されているとのこと。

Img_9779  射撃統制装置。80年代には最新装備といえたフューズドアレイ方式のレーダーを運用している。東芝製で、一セットは、射撃統制装置、そして二基の発射機により構成される。同時二目標に対処でき、粗追跡では16目標を識別することが可能だ。

Img_9784  発射機。後ろの部分に左右各二発、計四発を搭載する。なお、電子戦状況によっては電波管制下でも運用できるよう、オプティカルサイトによる誘導が可能である。これは誤解を恐れず簡単に説明すれば、ビデオカメラのようなもので目標を捉える事で誘導を行うもの。

Img_9787_1  93式近距離地対空誘導弾、通称近SAM。低空目標に対する対処を主たる目的とした装備品。複合光学誘導方式で、画像誘導方式、赤外線誘導方式を併用しており、射撃統制を車体より離れた安全区域から展開することが可能である。高射特科大隊には12~16輌が配備されているものと推測する(観閲行進の規模より推測)。

Img_9770_1_1  この種の装備の射程は、一般に脅威対象のヘリコプターなどが搭載する対戦車ミサイルとの射程が拮抗しているが、レーダーなどに支援され、地形や障害物などにより偽装された装備品は、空中からの発見が困難であり、他方で、ヘリコプターの発見はローター音などにより容易に発見される。航空機と高射特科の駆け引きは、このようにカタログデータからは読み取れないことがわかる。

Img_9792  高射特科部隊の最新鋭装備、第四中隊の03式中距離地対空誘導弾。後方には行進に備えて待機する第三中隊の高射機関砲が見える。中隊旗を掲げた73式小型トラックと後方の車輌を見比べると、車輌の大きさが良くわかる。

Img_9796  03式中距離地対空誘導弾は、ホークミサイルの後継として開発されたもので、射撃統制装置、射撃レーダー装置、発射機、無線中継通信装置などからシステムが構成される。欧州ではホークの後継としてMEADS(Medium Extended Air Defense System)として新ミサイル計画がたてられたが、共同開発は共同製造を意味することから武器輸出三原則に抵触する可能性があり、国産で進められた。

Img_9775_1  射撃統制装置(と思われる車輌)。国産開発は、開発費の全負担、量産効果の低下などで不利な点が指摘されるが、MEADSの開発期間の延長、F-35戦闘機の共同開発における技術移転摩擦などの問題があり、タイフーン戦闘機のような成功例も多いが、一国で国産した場合にも、開発は順調に行われるという利点はあるようだ。

Img_9798_1  ミサイル発射機。余り詳しくないので恐縮であり、参考とした資料も推量に基づくものが多いと考えられることを予めお断りしておく。ミサイルは、発射後の暫く、プログラミングにより目標に向けて飛行し、目標に接近するとミサイル本体のホーミング機能により命中に至る。

Img_9802_1  従来のホークミサイルが73式大型トラックにより牽引していたのに対して、中SAMは、自走式の車体に六連装のミサイルを搭載している。航空自衛隊のペトリオットの牽引には特大型トラック(陸上自衛隊の中砲牽引車と同じ、基本的には74式特大トラック)が用いられているが、本装備の車輌は、より大型である。

Img_9800  レーダー装置。全くの推測だが、搭載する発電機の大きさから、相応の出力を有すると考えられる。師団や旅団の有するダドス、そして航空自衛隊の警戒管制網を管理するバッジシステムとデータリンクを行うことで、より精密で高い目標捕捉能力を発揮できると考える。

Img_9781_1  ミサイル弾薬車と思われる車輌。余り自信は無いが、折りたたんでいるものはクレーンであると推測する。アームの支柱から推測できる強度では、六発一度に再装填は不可能であろうが、一発づつ再装填するのならば、四連装のペトリオットミサイルよりも時間が掛かりそうである。再装填のアーム操作はコンピュータによりある程度自動化されているのだろうか。

Img_9804_1  弾薬車。ミサイルコンテナを搭載していない状態。この車輌は、96式装輪装甲車などの支援を行う重装輪回収車とも共通化されている。この車輌の後部に、52口径155㍉榴弾砲と半自動装填装置を搭載したら、と考える人は多いであろう。

Img_9804  高射教導隊第310高射中隊のホークミサイル部隊。改良ホークとも呼ばれ、方面隊の高射特科群において使用されている。低空から高空の目標まで幅広く対応できる。セミアクティヴレーダー誘導方式のミサイルで、350㍉もの弾体の直径は改修への余裕を有し、1954年の開発以来、改良を重ね、今日でも高い信頼性を維持する装備である。1991年より、最終発展型の改善3型が配備されている。

Img_9786_1_1  高出力イルミネーターレーダー、略称はHPI。HPIからレーダー波を目標へ照射し、発射されたホークミサイルを誘導する装置。誤解を恐れずにいえば、ミサイル護衛艦のミサイル誘導用イルミネータと同様のものと理解してもいいだろう。

Img_9784_1  パルス捕捉レーダー。この他、改善Ⅲ型は中隊指揮装置を、Ⅱ型は中隊指揮装置ではなく測距レーダー、情報伝達中枢、中隊統制装置中枢を分けて装備している。03式中SAM,改良ホークは射程が長い為、基本的にアメリカ国内の演習場で射撃訓練を行う(開発時は技術研究本部の新島射撃場などで射撃していると推測する)。

Img_9816  第三中隊の87式自走高射機関砲が会場へ入場してくる。先頭を行くのは96式装輪装甲車。続くように三輌が一列に走っている。戦車部隊を直接掩護する装備として第七師団隷下の第七高射特科連隊、そして第二師団の第二高射特科大隊などに装備されている。

Img_9824_2  87式自走高射機関砲は、エリコン35㍉機関砲L-90について、必要な三基の発電機から生じる騒音、射撃準備に時間を要する牽引式機関砲では急襲肉薄した脅威に対処できないとの意見から開発された。第三次中東戦争、第四次中東戦争、ヴェトナム戦争などの戦訓から従来型の機関砲によっても高い効果を発揮できるとの判断も背景にある。

Img_9791_1  Xバンドの捜索レーダーは0.45~20kmの捜索範囲を有し、追随レーダーはパルスドップラーレーダーにより目標を確認、35㍉機関砲は-4.5°~84°の範囲で俯角仰角をとることができ、急降下目標にも対処可能だ。レーダーが使用出来ない状況下でも低光TV、レーザー照射により対空戦闘を展開可能である。

Img_9838  発射弾数は5発から20発に設定されており、3500㍍以遠の目標に対しても射撃が可能で、自爆処理時の最大射程は5000~6000㍍。初速は1180㍍/秒。方位角、高低角、射距離を正確に測ることで走行間射撃も可能である。特に、攻撃ヘリに対しては毎秒17発の35㍉焼夷徹甲弾が炸裂すれば照準は困難になると思われる、今日でも有用な装備である(参考:丸659号)。

Img_9853  高射教導隊第334高射中隊の03式中SAM。八輪式の車輌には、運転台をみると三名分のシートが並べられている。運転席と双列座席の間に置かれているのは、無線機だろうか。個人的には、習志野から展開した航空自衛隊のペトリオットミサイルにも観閲行進に参加してもらいたかった。

Img_9834  この他、高射教導隊直接支援部隊の車輌も観閲行進に参加した。多くの車輌が走った後のグラウンドには大きな轍が出来ており、会場に重装備の部隊による観閲行進という余韻を残した。

 こうして観閲行進が終了し、87式自走高射機関砲や03式中SAMという装備が盛り上げた興奮も冷めぬ内に、会場は訓練展示準備へと移った。

HARUNA

(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)

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陸上自衛隊下志津駐屯地創設52周年 高射学校つつじ祭 部隊整列編

2007-08-13 23:47:19 | 陸上自衛隊 駐屯地祭

■下志津駐屯地祭2007

 陸上自衛隊高射特科職種、部隊運用研究や教育体系の頂点にある下志津駐屯地の高射学校、本日は、駐屯地創設記念行事に関係する部隊の入場と式典、指揮官巡閲の様子を掲載したい。

Img_9726  高射学校とは、簡単に記せば今月末に控える富士総合火力演習は、普通科、特科、機甲科職種の学校である富士学校により行われるが、その高射特科版が高射学校である。また、富士総合火力演習に、87式自走高射機関砲などの装備が参加しないのは、富士学校とは別に高射学校が置かれている為である。

Img_9700  観閲行進に向けて待機する各種装備を見学しているうちに、いよいよ部隊入場が開始された。中方管区行事では、荷物などを用いた席取は歓迎されない為、小生も撮影位置を確保せず、装備品の周りを回っていた為、立体席は既に満員であった。この為、会場の観閲行進進行方向下りのあたりに撮影位置を確保した。

Img_9766_1  整列した高射学校の隊員。文字通り、高射に関する先端教育を受ける隊員たちである。隊員の装備する小銃は、みたところ全て64式小銃であったのが印象的で、戦闘職種である高射特科も、小銃までは新型がいきわたっていないような印象を受けた。

Img_9713_2  指揮官の入場に際し、中隊旗を掲げて応える隊員たち。師団や旅団の高射特科大隊に配属され戦場防空を担当する隊員、そして方面隊の高射特科群や高射特科団に配属され、要域防空を担当する隊員は、編成上つながりはないものの、こうした教育体系の中で、絆と連携を培ってゆく。

Img_9723  指揮官による部隊巡閲の様子。車上より部隊を巡閲するのは、3月30日に新学校長として着任したばかりの高射学校長平野陸将補。陸将補とは、旧軍や各国では少将にあたる。指揮官に対して、中隊旗を掲げ、敬礼する隊員に、指揮官も敬礼で応える。

Img_9732  訓示の様子。高射学校旗と共に直立不動の隊員が訓示を聞く。昨今の高速化し、捕捉が困難と成る航空脅威に対して、一刻も早く新装備である中SAMを用いた運用戦術を開発し、使いこなすことが高射学校に課せられた使命である、平野学校長は力強く隊員へ訓示した。後方には、習志野より展開した航空自衛隊のペトリオットミサイルがみえる。

Img_9735  訓示、祝辞が終わり、観閲行進準備へ、の号令が響く。整列を解き、小銃を手にした隊員が整然と駆け足で待機車輌へ向かってゆく。それに呼応するかのように音楽隊の演奏が始まり、駐屯地の各所で、車輌のエンジンが回転を始めてゆく。

Img_9748  観閲行進へ向けて式典会場へ到着した87式自走高射機関砲。勢いよく回転するレーダーは、傍目からも頼もしい。こうして式典は、観閲行進へと進む。次回は、各種車輌が続々と登場する観閲行進の様子を掲載したい。お楽しみに。

HARUNA

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陸上自衛隊下志津駐屯地創設52周年 高射学校つつじ祭 入場編

2007-08-12 17:04:44 | 陸上自衛隊 駐屯地祭

■下志津駐屯地祭2007

 四月二十九日、千葉県千葉市に所在する下志津駐屯地において駐屯地創設52周年記念行事が行われた。駐屯地祭は、“つつじ祭”とも呼ばれており、同駐屯地には陸上自衛隊高射学校が置かれている。

Img_9843_1  高射学校は、陸上自衛隊高射特科職種に関する戦術研究や新装備の評価試験を実施し、幹部自衛官への教育や、陸曹の専門教育などを行う教育訓練部隊であり、実動部隊として、また教育訓練の為の各種装備を保有している。経空脅威は、弾道弾の拡散など年々高まっており、高射学校へ寄せられた期待と責任は大きい。

Img_9671_1  つつじ祭ということで、駐屯地のいたるところにツツジが咲き誇っていた。これだけをみると、あたかも公園のような印象を受けるが、その向こうに置かれた最新鋭の03式中距離地対空誘導弾システム用レーダーが置かれているのをみると、ここが職種教育の中枢であることを強く感じることが出来よう。

Img_9760_1  93式近距離地対空誘導弾。従来使用されていた35㍉連装機関砲L-90の後継装備として1993年より配備が開始された装備。即応対処能力が高く、低空から急接近するヘリコプターなどに対して大きな威力を発揮する。

Img_9663  91式携帯地対空誘導弾を四連装コンテナ二基に収容し、複合光学照準装置により運用する為、航空攻撃に対する人員の脆弱性を補強し、脅威状況下での能力は高い。また、師団防空システムとのデータリンクにより全天候運用も可能であり、81式短距離地対空誘導弾とともに師団防空の中枢を担う装備である。

Img_9762_1  81式地対空短距離誘導弾。現在、最新型のC型が生産されている。赤外線追尾方式の射程は8km、レーダー誘導方式の射程は16km。発射機、レーダー車とともに自走化され、高い路上機動性能を有する。陸上自衛隊の野戦防空にミサイルの風を吹き込んだ装備の一つで、海上自衛隊、航空自衛隊の基地防空にも用いられている。

Img_9747_1  対空レーダー装置JTPS-P14。71式対空レーダー装置JTPS-P15の後継として開発され、1988年より配備開始、低空レーダー装置P-18とともに師団の対空情報を収集する。なお、本装置の運用には、73式大型トラックにより運用する発電装置が必要である。

Img_9696_1  改良ホークの車列。米海兵隊の教範には限定的弾道弾対処能力を有するとある。現在陸上自衛隊には改善2型と、改善3型が装備されており、改善2型を装備している部隊は、03式中距離地対空誘導弾へ更新される計画。測距レーダー、情報収集中枢、中隊統制中枢を統合したものが3型で、かなり高い信頼性を有するとのこと。

Img_9711_1  方面隊高射特科部隊の最新装備として配備が進められる03式中距離地対空誘導弾。射程は未公表であるが、文献によれば60kmとするものが多い。射撃時には、ミサイル発射筒を垂直に立ち上げる為、航空自衛隊の運用するペトリオットミサイルと異なり、全周への即応発射が可能である。

Img_9740_1  レーダー車輌。アクティヴフューズドアレイレーダーを搭載し、回転する。目標追尾能力と射撃管制能力を有し、対電子妨害能力、同時目標対処能力を有する。索敵能力や距離などでは従来の陸上自衛隊のレーダーと比して高い性能を有していることは、その車上に配置された発電機の大きさから容易に推察することができよう。

Img_9725_1  略称は、03式中SAMである。驚かされるのは、搭載車輌の巨大さで、一定以上の不整地走破能力を有し、その分操縦には一定の技量を要するという。車体は重装輪回収車などとも共通化されているが、将来的には特科火砲の輸送用、輸送車輌などにも用いられるのではないかと推測する。

Img_9700_1  0825時に駐屯地へ到着し、式典開始までの間、駐屯地内の開放地域を散策し、観閲行進にむけ待機する車輌群を撮影した。下志津駐屯地祭詳報は、この後、部隊入場、訓示、観閲行進、訓練展示、装備品展示と進んでゆくが、これらの様子は、後日幾度かに分けて掲載したい。お楽しみに。

HARUNA

(本ブログに掲載された本文及び写真は北大路機関の著作物であり、無断転載は厳に禁じる)

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