北大路機関

京都防衛フォーラム:榛名研究室/鞍馬事務室(OCNブログ:2005.07.29~/gooブログ:2014.11.24~)

【G7X撮影速報】第3師団創設57周年&千僧駐屯地創立67周年記念行事2(2018-05-13)

2018-05-21 20:09:13 | 陸海空自衛隊関連行事詳報
■荒天跳ね返す京阪神師団の精鋭!
 大阪港かが一般公開、盛況でした。本日は其の一週間前の千僧駐屯地祭の模様、後篇を紹介しましょう。

 伊丹の千僧駐屯地、第3師団司令部が置かれています。指呼の距離に中部方面総監部の所在する伊丹駐屯地があり、某TV局が誤って“伊丹駐屯地で総合予行、明日本番”という誤報と共に誤って伊丹駐屯地に行ってしまった友人知人某新聞記者等多数、との話もある。

 千僧駐屯地は、五月の師団祭が活況で知られ、特に74式戦車が間近に空包射撃を行う訓練展示は、市街地の師団駐屯地とあり敷地面積に限界のある千僧駐屯地ならではの迫力として有名です。そして今年も盛大に土曜日の総合予行と共に師団記念行事が挙行されました。

 74式戦車が、あの位置で空包射撃するとは、と前日総合予行では目の前に進出し射撃準備を完了した刹那、鼓膜が凄い事になりそうだなあ、という直感から口を開けて気圧変化に備える、無反動砲射撃の基本のような態勢を執りつつ、冷える背筋を無視し撮影を続行に。

 EOS-7DmarkⅡが毎秒10枚のシャッターを切り続ける同時に、一閃、瞬間、衝撃、そして轟音、いや一閃は見えなかった、一閃の瞬間にシャッターは降りていた、発砲焔と空包と云えど戦車砲の衝撃に反射的に身が避けたと同時に、一瞬のその一閃の行方が気になる。

 一閃がカメラ越しに見えなければ、それは発砲焔の瞬間がAPS-CのCMOSセンサーに映り込んでいるはずだ、急ぎカメラで大量の画像データ処理中表示が終わるのも早いか確認しますと、おお、写っていました。74式の発砲焔は一瞬、迫力の様子、今度お伝えしたい。

 雨天になるとは土曜日の快晴下の総合予行では思わなかったのですが、ね。実は初めて、伊丹市内に宿泊しました、総合予行で素晴らしい74式戦車発砲焔が撮影でき、大学時代の友人と祝祭しつつそののちに大阪城と大阪市内に伊丹市内と痛飲し、駅前で一泊しました。

 伊丹、昨年の中部方面隊創設記念伊丹駐屯地祭の帰路、猪名野神社のお祭りを見物できまして、清酒白雪の街と知り夜の市内を満喫は予てよりの希望、駅前の寿司、美味しかったです。上寿司が1600円程でしたか、お通しから小技が利き、板長さんと会話を楽しみつつ。

 自衛隊横丁、といいますか美味くて安く明瞭会計の三拍子揃った街は貴重、駅前ホテルが外壁工事中とあり運よく空室、手ごろなお値段に広々とした客室とゴージャスというベット、伸び伸びとしたバスタブにBSデジタル受信可能、そして翌朝、まさかの雨天という。

 カメラバックを漁っても万一の用心で入れているカメラレインコートはあるも、肝心我が身レインコートは無し、いまから阪急で帰りに戻る事も出来ず油断しました。何しろ日帰り故大丈夫との登山遭難の決まり文句を地で行く形、一方、雨天故本番は空いていました。

 撮影位置は伝統の観閲行進正面、今年は何故か空いている、と転進して後に判明、定番の撮影位置は水深9cm、最深部は水深12cmという感じか、15cmは無い。一瞬考えましたがお徳用70ℓポリ袋を二つ左右靴の上に夫々履き、数年前の豊川駐屯地祭以来の水上撮影に。

 G7Xでの撮影はこんな感じです。大雨洪水警報ですが、まあ、濡れない体制さえ確保できれば、風は多少ありましたが、前の前の中央観閲式予行のように防滴機材を横殴りの雨によりレンズに雨滴が張り付く程ではなく、昨年の豊川駐屯地祭や今津駐屯地祭よりは良い。

 EOS-7Dでの写真は迫力の一言に尽きます、訓練展示格闘展示は投げ技に飛び散る泥飛沫、訓練展示模擬戦では演習場のような情景が醸し出され普通科の突撃は物凄い迫力、状況に入っている、とはこのこと。装備品展示等は撮影断念しましたが、充実した撮影でした。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【日曜特集】岐阜基地航空祭2014【2】岐阜第一回大編隊と空中給油展示(2014-11-23)

2018-05-20 20:01:10 | 航空自衛隊 装備名鑑
■岐阜基地,迫力飛行展示開幕!
 岐阜基地航空祭2014、航空祭飛行展示はいよいよ開幕です、逆光ですが北側メイン会場からその迫力の様相を写真にてお伝えします。

 岐阜基地にはF-2戦闘機、F-15戦闘機、F-4EJ改戦闘機、F-4EJ戦闘機、T-7練習機、T-4練習機、C-1輸送機、C-2輸送機、と様々な機種が揃っています。そして評価試験を担い搭載するミサイルも新型が多く、また電子妨害機材や情報収集機材も新型、が揃う。

 最新鋭機というほかにもいままでに配備されていない概念の装備品、レーザーでミサイルを妨害し機体を防護する装備や弾道ミサイルを長距離から赤外線で航空機から探知する機材、超音速で超低空を巡航飛行し航空母艦はじめ重要目標を撃破する装備など、並びます。

 自衛隊を知るにはこの岐阜基地をしっかりとみておくことで理解できる部分が多くなります。航空機にさりげなく搭載されていまして、整備員さんに質問してみますと、笑顔でお気づきですね、と楽しい会話を楽しめます。実戦部隊にない朗らかな航空祭ともいえる。

 飛行展示も洗練されていまして、輸送機を中心に大半の航空機が一つの編隊を組む異機種大編隊、という飛行展示が行われます。戦闘機と練習機の編隊というものはほかの基地でも組まれますが、自衛隊が運用する全種類の戦闘機が一つの編隊を組むのは岐阜基地のみ。

 異機種大編隊では自衛隊の全ての種類の戦闘機が加わりましてそこに練習機と輸送機も加わるのですから機種は凄いことになる、その展示で岐阜航空祭は有名となりました。昨今では様々な基地でも異機種大編隊が有名となりましたが、元祖は岐阜というべきでしょう。

 那覇基地等は海上自衛隊のP-3C哨戒機や航空自衛隊のE-2C早期警戒機がF-15戦闘機と編隊を組む。また航空自衛隊のT-4練習機と陸上自衛隊のLR-2連絡偵察機が編隊を組み、話題となっています。追いつかれつつありますが、それ以上に昔の岐阜はもっと凄かった。

 一昔の岐阜基地はT33練習機やF104戦闘機がF15戦闘機やT2練習機と大編隊を組んでいまして、そのころと比べれば岐阜基地航空祭も大人しくなった、という印象です。昔はもっと凄かった、という定番の言い回しですが、そのころから有名であったわけですね。

 最新鋭と最古参がともに、最新航空機の技術と性能を最大限発揮するべく、最古参の航空機が第一線に伍することができるよう、将来の航空防衛へ評価試験を行う、それが飛行開発実験団であるわけです。だからこそ、自衛隊の最新鋭へと毎年当方も撮影へと向かう。

 岐阜基地航空祭、岐阜基地の一般公開ですがこの航空祭は広大な岐阜基地の多くの場所が一般公開されますので、撮影場所によって撮影できる写真が全く違います。そして逆光でしか撮影できない場所もあれば、着陸後の場所でしか撮影できない場所、もあります。

 もちろん順光で撮影できる場所もありますし、航空機を間近にみることができる場所、飛行展示を真下から見上げる場所もあれば、少し離れてまとまった編隊飛行を撮影する場所もあります。全てをいいとこ取りする事は出来ません、そんな好立地は報道用にもない。

 航空祭はテーマを決めてそこから撮影位置を決める。どんな写真を撮影したいかによって撮影する場所も当然変わってきます、初めて撮影した年は1990年代でブルーインパルスがT2練習機を運用していた時代、毎年撮影するようになったのは2005年から撮っています。

 岐阜基地航空祭を最高立地から撮影しようと延々と撮影していますので、どこから撮影するのかは文字通り時間をかけて開拓しました。しかし、どこで撮っても数年経てみてみますと、いい写真が撮影できます、それだけにどこから撮影しようか、迷ってしまいますね。

 滑走路管制塔側のメイン会場は、すべての地上展示航空機が並び、基地司令と来賓もこちら側から観閲しますので、飛行展示はこのメイン会場から一番美しく見える角度で実施されます、模擬対地攻撃もこのメイン会場へ急降下してきますので迫力はかなりすごい。

 北側会場と呼ばれるメイン会場は、此処を中心に飛行展示する訳ですので、滑走路上を間近に飛行する編隊飛行も真南をそのままゆくのです。岐阜基地航空祭には多彩な地上展示航空機と装備品が並びますので、最新装備が並ぶこの場所を撮影しない手はありません。

 航空機を間近に感じる、見るのではなく感じることができるのもメイン会場の利点です。地上展示航空機へすぐ近くまで寄って、操縦席を見学することもできますが、それよりも滑走路にちかく、またエプロン地区には飛行展示に参加する航空機もずらりと並びます。

 操縦士に整備員と誘導員の機体が航空機として離陸し、そして着陸するまでの一連の様子を間近に見ることができる、それがメイン会場です。列機へ整備員が整列し点検、列線整備の雰囲気を感じられまして、エンジンの鼓動が大地と大気を震わせる臨場感を味わう。

 エンジンを稼働させた戦闘機、轟音と漂う燃料と潤滑油の香りとともに、風向き次第ではその熱気を感じる事も出来ます、そして誘導員に誘導とともに離陸へと順次動き出す戦闘機たち。航空祭へやってきた、という実感を得られるのが、このメイン会場なのですね。

 メイン会場は、しかし逆光です。逆光の航空機写真というのは寂しいというか、晴天がもったいない、曇天でも残念である。飛行展示を撮影しますと基本的に滑走路上を編隊飛行は航過しますので、晴天の航空祭では確実に逆光となってしまう。これは少々残念である。

 逆光の写真はこうした写真、というお手本のように機体は黒く潰れ空は灰色に写り、あたかも白黒のモノクロ写真のようで、これはもったいない、飛行開発実験団は各種新装備の評価試験や開発実験を行う部隊ですので評価試験用の色彩鮮やかな実験塗装で飛行します。

 逆光で写真を撮影しますと、飛行開発実験団にしか配備されていない、その深紅と純白の評価試験用塗装も逆光では真っ黒な影しか写りません。これはPLフィルター等を装着し多少改善するようですが、多少であり、逆光の立地から順光の条件で航空機撮影はできない。

 逆光のメイン会場ですが、しかし離陸する航空機を撮影するには最適です。滑走路から浮き上がったその瞬間を撮る、岐阜基地の南方には小山が連峰し、逆光でも離陸する航空機は背景に山肌を写し込むことで試験塗装機がわかるような写真には仕上がるのですよね。

 ただ、その撮影には最前列を確保する必要があります。そしてこの岐阜基地は自衛隊航空祭屈指の来場者数を誇りますので最前列への競争はものすごい。競争といっても比喩ではなく、過去の情景で開門前に並んだ一万数千の来場者が一斉に最前列へ走り込むのですね。

 正門、北門、新北門から一斉スタート、別名岐阜基地マラソンといわれているほどのもの。勿論、大荷物と云いますか撮影器材を背負って走る事は非常に危険ですので走らないよう注意は様々な場所に示されています。近年は基地を一度に全域開放しないようしました。

 最前列からの写真は逆光といっても、列線整備の様子を撮影でき、搭乗員の乗り込む様子から離陸と着陸まで一通り最良の条件で撮影できます、この為に飛行展示が真っ黒になる事は残念ですが、この場所はなかなか人気のある撮影位置です。しかし撮影場所は多い。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【くらま】日本DDH物語 《第四二回》F-4高速対潜機構想,主眼は空対艦任務の高速哨戒機か

2018-05-19 20:05:50 | 先端軍事テクノロジー
■対艦ミサイル装備前の自衛隊
 F-4が厚木航空基地や八戸航空基地へ配備されていたらば、その情景は今日と大きく異なるものとなっていたでしょう。

 海上自衛隊がF-4高速対潜機の導入を断念した後に航空自衛隊はF-XX計画を本格化させます。F-XX計画はF-4EJ戦闘機に続く戦闘機計画で、具体的にはF-4EJ戦闘機を航空自衛隊はF-104戦闘機に続く新戦闘機として導入したのですが、実質的にはF-104に続き導入するものの、置き換えるのは既に旧式化が著しかった朝鮮戦争時代のF-86戦闘機でした。

 F-X選定として航空自衛隊がF-4E戦闘機をF-4EJ戦闘機として選定したのは1966年、当時は第三次防衛力整備計画期間中に四個飛行隊所要と予備機を含めた104機のF-4EJを取得する計画でいましたが、ASQ-91爆撃計算機やARW-77空対地ミサイル誘導装置の撤去等の日本仕様改修により量産開始が遅れ、アメリカでは1972年にF-15が初飛行を迎える。

 F-XX計画は1973年度より耐用限界を超え除籍が始まると考えられたF-104戦闘機の後継機選定です。ただ、F-4EJ戦闘機の量産計画は続いていた為に1973年からF-XX選定機の調達を開始するのではなく、1976年度までにF-4EJ戦闘機の生産計画を継続するか、調達継続を拡大するのかを画定する事で、欧米機導入や国産戦闘機案も競合していた選定です。

 結果的にF-4EJ戦闘機の生産続行が決定されるのですが、海上自衛隊のF-4高速対潜機構想には、同盟国アメリカ海軍と同系列の、海軍が運用していたのはF-4EではなくF-4Jなのですが、このF-4系列の戦闘機が三菱重工にてライセンス生産されていた中にあって、間もなくF-XX選定の結果如何によっては生産終了となる焦りがあった可能性もあります。

 そして航空自衛隊が実施していた航空機による対艦攻撃任務、当時の海上自衛隊には127mm艦砲や76mm艦砲、護衛艦や潜水艦に搭載する長魚雷が主力であり、一方でソ連海軍では射程の大きな艦対艦ミサイル、小型のミサイル艇へも搭載可能P-15/SS-N-2スティックス配備が始まり、1967年にはエイラート事件、イスラエル駆逐艦が撃沈されました。

 自由主義陣営は対艦ミサイルの開発に後れを取っていました、もっとも初期に開発に着手していたのはスウェーデンやノルウェーといった北欧諸国でスウェーデン空軍は1955年という早い時期にサーブ32戦闘機へRb-04C空対艦ミサイルを配備しています。しかし、これは例外というもの、エイラート事件と共に自由主義諸国は対艦ミサイル開発を急ぐ事に。

 ターター艦対空ミサイル、アメリカ製草創期の艦隊防空ミサイルですが、その発展型であるスタンダードミサイルを中間司令誘導により超低空目標へ命中させる能力がある事から、アメリカ海軍は急きょスタンダードミサイルを艦対艦ミサイルへ転用しましたが、こうした泥縄的な施策と同時に対艦ミサイルの模索が始まり、アメリカは欧州製ミサイルを断念しハープーンの開発を決断したのは1971年でした。

 ハープーンミサイルは1977年に完成しますが、我が国も防衛庁技術研究本部、現在の防衛装備庁が1973年より空対艦ミサイルの開発を開始、1980年に80式空対艦誘導弾ASM-1として完成しています。他方、ASM-1は航空自衛隊の装備であり、海上自衛隊が対艦ミサイルを装備できたのは1981年竣工の護衛艦いしかり、まで待たなければなりませんでした。

 高速対潜機として海上自衛隊がF-4を必要とした背景には対艦ミサイル実用化までの期間に艦砲が対抗できない遠距離からのソ連艦隊対艦ミサイル脅威へ対抗する戦闘機を必要としていた為でしょうか。反面、仮にこの時点でF-4を導入していたらば、海上自衛隊は戦闘機運用基盤と戦闘機操縦要員教育体系を独自構築できたことに、なっていたでしょう。

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平成三〇年度五月期 陸海空自衛隊主要行事実施詳報(2018.05.19-20)

2018-05-18 20:17:47 | 北大路機関 広報
■自衛隊関連行事
 悪天候に奇襲されるとその次数週間は落ち込むもの、皆様いかがお過ごしでしょうか。

 静浜基地航空祭、T-7練習機を運用する第11飛行教育団が所在し静岡県焼津市に位置する航空自衛隊の基地です。本年の航空祭は基地創設60周年&大井町焼津市合併10周年航空祭ということで、ブルーインパルス、F-2,F-15,RF-4,KC-767等が飛行展示に参加し盛大に実施されます。ブルーは土曜日に予行実施、最寄駅は東海道本線藤枝駅、距離は5kmほど。

 海軍航空隊藤枝基地として静浜基地は1944年に創設され、航空自衛隊が受け継いだものです。藤枝基地は水上偵察機要員を中心に編成された芙蓉部隊根拠地、精密航法を得意とする水偵要員を中心に当時の最新鋭機彗星艦上攻撃機を駆使し、500kg爆弾を搭載し空戦能力さえ有する彗星にて特攻の最盛期に航空打撃戦を展開、夜間攻撃を得意とした部隊です。

 和歌山駐屯地,第7施設群隷下の第304水際障害中隊が置かれている陸上自衛隊駐屯地で、7.18紀州大水害を受け和歌山県が自衛隊誘致運動を積極的に実施、第323地区施設隊分屯地として創設の後1966年に駐屯地となりました。和歌山市ではなく御坊市、最寄駅は紀勢本線御坊駅、和歌山駅ではありません、南へ電車で一時間以上要するのでご注意ください。

 第304水際障害中隊には94式水際地雷敷設車が装備されています。本車は沿岸部に小型機雷を連続敷設し水際障害を構成する車両で、着上陸阻止に用いられるほか、東日本大震災では水陸両用車として沿岸部の災害派遣に重宝されました。駐屯地は駐屯地最小といわれる程手狭ですが、市街パレードや海岸での水陸両用体験乗車等、過去には行われています。

 ヘリコプター搭載護衛艦かが、大阪港一般公開が行われます。海上自衛隊最大の護衛艦かが、は満載排水量27000t、ヘリコプター搭載護衛艦くらま後継の護衛艦であり、全通飛行甲板を有し旧帝国海軍空母加賀の名を受け継ぐ呉基地の護衛艦です。大阪港は天保山岸壁に入港、一般公開の時間は0900から1600時まで、ただし受付は1500時までとのこと。

 和歌山駐屯地祭へ行こうとして和歌山駅に一泊し翌日御坊駅まで54kmあると知り呆然とする、流石に当日気付く事は中々ない事なのでしょうが、一丁行ってみようか、と思い立ち、交通手段を探すうちに実は地名と駐屯地の位置が遠い、という事は少なからずある。和歌山と御坊を結ぶJR紀勢本線は、まだ、30分間隔で普通列車があり特急もありますが。

 確認というのは本当に重要で、この他にも高知駐屯地、第14旅団隷下の第50普通科連隊駐屯地ですが、高知市ではなく21kmほど離れた香我美市にありまして電車で40分程、しかし土讃線の運行頻度は列車運行本数が毎時一本程度、気を付けなければなりません。徳島駐屯地も徳島駅から特急で20分ほど南の羽ノ浦駅が最寄、徳島市ではなく阿南市にある。

 師団祭、旅団祭、混成団祭、方面隊行事、と色々探訪する機会を重ねますと、当方の行った事のある普通科連隊行事は第3師団の信太山や福知山に第10師団の金沢久居に昔の豊川と第1師団の大宮に板妻と昔の武山、この3個師管内のみ、全国の普通科連隊行事等をもっと広く散策してみたいのですが、意外に遠かった高知、等々、迷ってしまいますね。

■駐屯地祭・基地祭・航空祭

・5月20日:静浜基地航空祭…http://www.mod.go.jp/asdf/shizuhama/shizuhama.html
・5月20日:大阪港ヘリコプター搭載護衛艦かが一般公開…http://www.mod.go.jp/pco/osaka/
・5月20日:和歌山駐屯地祭…http://www.mod.go.jp/gsdf/mae/

■注意:本情報は私的に情報収集したものであり、北大路機関が実施を保証するものではなく、同時に全行事を網羅したものではない、更に実施や雨天中止情報などについては付記した各基地・駐屯地広報の方に自己責任において確認願いたい。情報には正確を期するが、以上に掲載された情報は天候、及び災害等各種情勢変化により変更される可能性がある。北大路機関
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【G7X撮影速報】第3師団創設57周年&千僧駐屯地創立67周年記念行事(2018-05-13)

2018-05-17 20:00:10 | 陸海空自衛隊関連行事詳報
■千僧の感謝!荒天下の雨具供与
 日曜日の千僧駐屯地祭、豪雨下でM様とH様に助けていただきました、この写真を掲載できるのはカメラとわが身が無事だった、この御二方のおかげです。

 第3師団創設記念千僧駐屯地祭、今年も行って参りました。第3師団祭は土曜日の総合予行と日曜日の本番を両方とも一般公開している日本でも唯一の師団祭です。前日総合予行は国会議員はじめ来賓と師団長は代役ですが、戦車空包射撃始め行事は全て本番と同じ。

 感謝、今回の千僧駐屯地祭はH様に頂きましたレインコートで助かりました。見ての通り、土砂降りの本番を迎えましたが、諸般の事情から土曜日の総合予行の延長で撮影準備していた為、最低限カメラ防滴機材しか手元になく、途方に暮れていたところ、お助け頂いた。

 雨天の備え、と偉そうに北海道や九州に富士へ展開する際には完全防水通気ゴアテックスだの先進複合バリスティックナイロンだの特殊保温素材ヒートテックだの缶肴コンビーフシーチキンだのを万全の準備していると豪語しつつ、肝心の第3師団祭で無防備万端です。

 ありがとうございました、本当に。実はあの直前駐屯地厚生会館に行きましたが自衛隊グッズ土産用に簡易レインコートは店頭になく、70ℓポリ袋10枚お徳用を一つ購入、大雨洪水警報、阪和線豪雨不通、阪急人身事故の日曜日に臨む絶望下、あの一着に救われました。

 第3師団創設記念行事、近畿二府四県の防衛警備を担う師団には、装備として74式戦車にFH-70榴弾砲と81式短距離地対空誘導弾にFH-70榴弾砲と87式対戦車誘導弾や軽装甲機動車と07式機動支援橋に軽装甲機動車と96式装備車輪装甲車とNBC偵察車などが揃う。

 74式戦車が10式戦車に将来切り替わり、87式対戦車誘導弾が中距離多目的誘導弾、81式短距離地対空誘導弾がせめてC型に置き換われば、師団の印象はかなり近代的な装備の師団となるだろう、と思うのですが、現時点では10式戦車については目処が全くありません。

 師団は旧式装備を最大限活用するべく、野外通信システム整備を筆頭に特科情報装置や高射情報装置等、各種装備のネットワーク化を進め、装備の外見ではわからない能力向上に努めています。ですから一見した旧式装備をそのまま師団の能力に直結する事は難しい。

 一方で、第3師団、かつて第45普通科連隊が大久保駐屯地に置かれていた時代には9000名の定員を誇っていましたが、仄聞するところでは非常に人員規模が小さくなってしまい、定員は6600名程度を記憶していたのですが、実員についてはもっと、という状況でした。

 水陸機動団新編や即応機動連隊への拡大改編、考えれば当然で陸上自衛隊全体では統合機動防衛力整備へ新部隊が続々と創設されている一方で、陸上自衛隊全体の定員は百数十名規模しか増員できていません、しかし、あの人員規模で中将にあたる陸将の師団長は、と。

 第一線で頑張る隊員、最強の中隊を錬成しようとする陸曹、戦術で部隊の能力を最大に引き出す幹部、頑張っていると思うのですが師団、Division、つまり一方面の戦域を独力して担う戦略単位の看板を掛けるならば、せめて中部方面混成団を隷下に置くべきではないか。

 統合機動防衛力、という観点から機動運用部隊と地域配備部隊を明確に分けるのですから、第3師団は即応機動師団ではなく地域配備部隊、それならば第49普通科連隊か第47普通科連隊という即応予備自衛官主体の連隊を置いても、有事の動員まで猶予はあるはずです。

 第3師団、わが郷土の師団、という師団ですが、Weblog北大路機関創設時代は第3特科隊がまだ第3特科連隊、戦車大隊も3個戦車中隊基幹という重厚な装備を有していました。部隊規模は人員規模と能力に直結、中央はもう少し、“師団”という意味を考えてほしいですね。

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【京都幕間旅情】虚空蔵尊法輪寺,京都十三仏霊場十三番は多宝塔の俯瞰風景に渡月橋の絶景

2018-05-16 20:06:45 | 写真
■嵐山法輪寺は渡月橋を望む
 嵐山の渡月橋は京都の一つの日常風景です。本日はその渡月橋からの情景をひとつ紹介しましょう。

 虚空蔵尊法輪寺、西京区嵐山虚空蔵山にある真言宗の寺院です。嵐山の渡月橋を望む際、その借景に聳える峰々の一つに朱色の多宝塔が都情緒を醸し出している事に気付かされますが、ここが法輪寺、即ち嵐山の象徴的な情景に必ず描かれている周知の寺院といえます。

 日本三大虚空蔵とされる本尊に虚空蔵菩薩を奉じ京都十三仏霊場十三番、本殿には重要文化財として木造持国天多聞天立像を安置しています。そして、今昔物語集、枕草子、平家物語、我が国名だたる古典文学にもその名は記され、古くから親しまれた寺院の一つです。

 法輪寺、とこの名を冠する寺院は全国に多々ありますが、長い長い石段の参道を歩むとともに、さて嵐山の渡月橋と共に見上げる多宝塔を、その袂から俯瞰する嵐山の情景はどのようなものか、と少し心躍る。成る程、渡月橋は渡るもの、中々俯瞰風景には収まらない。

 行基が元明天皇の勅願を受け建立した、と寺伝には伝わります。創建は平安遷都よりもさらに奈良時代、和銅年間の713年まで遡り、創建当時は葛井寺と称し、国家体制が漸く全土へ至った草創期の我が国、国家安穏五穀豊穣産業興隆祈願の祈祷所となっていました。

 嵐山は阪急電鉄嵐山線敷設前には、文字通り京都の奥座敷として知る人ぞ知る、という立地でありましたが、一時喧噪に呑み込まれ、今日では喧騒が国際色豊かに騒擾とまでは行かぬものの、十年前ならば多少感じられた静寂が失われているよう思えるのは気のせいか。

 愛宕山を望む嵐山ですが、愛宕山の峰に在る愛宕神社などは戦前一時鋼索鉄道まで敷設され観光地化したものの、戦時中の鋼材供出を契機に戦後敢えて再建せず、修験に至る静寂を取り戻したという事例を思い出し、無心に頂に上る石段が敢えて有り難く感じたもの。

 空海の弟子にあたる道昌が、ここ法輪寺に次の一幕を綴ります。東大寺にて得度と受戒した後、神護寺にて空海に真言密教を学び灌頂を受けた同年、葛井寺へ虚空蔵菩薩像を安置します。葛井寺は当時荒廃しており、その再興にご本尊の交代は当時に多々あったもよう。

 貞観年間の868年、葛井寺は寺号を法輪寺と称した、と寺伝は続きます。貞観年間は、歴史上最大の津波が三陸地方を襲う千年前の東北地方太平洋地震、歴史上最大の噴火が生じ富士湖が富士五湖に分かれた古富士噴火、日本中災厄が続いた過去千年で最悪の数年間だ。

 京都の寺社仏閣を拝観し、その歴史に触れますと、やはり貞観年間を機に建立された祈祷所や造営の伽藍等が多いことに気付かされます。当時奈良時代、律令国家としての国家運営が本格化し、徴税はじめ租庸調の原初国家体系完成後初めての大災害だったのでしょう。

 富士貞観噴火等は奈良時代に富士湖が溶岩流により呑み込まれ五つに割れた故、この地域での居住は当面不可能である旨の朝廷への報告が記録されています。千年前の東北地方太平洋地震はやはり貞観地震として朝廷に記録があり、多賀城鎮守府の被害を伝えています。

 しかし、法輪寺へと改めた寺域も、祈願所としての機能も、そののち平安朝の時代にはその名の通り平安を迎え、鎌倉時代にも安穏と信仰に修験の時代が続きます。この安寧が破られたのが、やはり、室町時代の争乱、応仁の乱です。都大路から遠いこの地へも戦災が。

 江戸時代にはいり後陽成天皇の請願を受け再建されました法輪寺は京都十三仏霊場十三番と日本三大虚空蔵として参詣者を集めましたが、幕末元治元年、即ち1864年禁門の変に局地戦の被害に遭う。明治時代再建され、電気電波鎮守社の電電宮も建立、今日に至ります。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【G7X撮影速報】海兵隊キャンプ富士日米親善フライトラインフェスティバル(2018-05-05)

2018-05-15 20:05:48 | 陸海空自衛隊関連行事詳報
■キャンプ富士日米親善2018
 キャンプ富士特集後篇です。フライトラインフェスティバルから十日程経ってしまいましたが、活況の様子をお伝えしたい。

 キャンプ富士日米親善フライトラインフェスティバル、最大の注目はこの87式偵察警戒車です。90両が生産された本車は232両が生産された82式指揮通信車の派生型車両ですが、注目すべきは“偵教”の所属表示、そうです、この偵察警戒車は偵察教導隊の所属だ。

 偵察教導隊は富士学校隷下の富士教導団に所属する機甲科教育部隊ですが、実は三月の年度末改編により偵察教導隊と戦車教導隊に第1機甲教育隊を統合し、機甲教導連隊を新編するとの話がありましたが、まだ実施されていない、ということが改めて分かったしだい。

 機甲教導連隊は聞けば駒門駐屯地の国際教育隊本部に入るとのお話で、しかし陸上総隊新編と共に再編移転との話でしたが、四月の駒門駐屯地祭では第1機甲教育隊が健在だったとのお話、聞けばもう少し機甲教育隊は頑張る、とのこと。ただ、先は限られているとも。

 UH-60JA多用途ヘリコプター、少し撮影したのに日が傾いているように映っているのは気のせいではありません、実はお昼頂くだけで屋台に並ぶのが凄かった。ペパロニピザは米軍ピザの代名詞ですが、行列は座間のUH-60の前まで並んでいる程で流石に断念しました。

 AH-1S対戦車ヘリコプター、流石にAH-64D戦闘ヘリコプターはいません。さて、逆光状態は午後故ですが、行列が長かった、ハンバーガーならば早く頂けるだろうと行列に並びましたが、1236時に並び始め、ハンバーガーを頂いたのが1410時、時間がかかりすぎた。

 米軍ハンバーガーですが、調理に生肉ハンバーグを用いて、少量を少し少し焼き続けている状況ですから、全く行列が進まず、焼けた個数の人数だけが僅かに前へ、という状況で、米軍なのにステーキを焼いていない、第3海兵遠征軍は火力不足というのは本当だった。

 M-1114装甲ハンヴィー、昔撮影した写真と比較すると防弾ガラス等が厚くなっているようです。ただ、その分重量が増大していますのでエンジン出力や変速機と懸架装置が強化されていなければ不整地突破能力等機動力に影響しそうで、運用の際の実情が気になります。

 UH-60L,通称座間ホーク、キャンプ座間には在日アメリカ陸軍司令部、第1軍団前方司令部、第441軍事情報大隊、第78通信大隊等が所在し、在日米陸軍航空大隊が支援に当たっています。旧第78航空大隊が軍団司令部前方展開で改編、大隊ですが指揮官は中尉です。

 AAV-7、自衛隊では水陸両用車と呼称されていますが、AAVはAssault Amphibious Vehicle即ち両用強襲車です。重量は25.6tと89式装甲戦闘車より軽量ですが全長8.16m、全高3.3mに全幅3.2mと巨大で、正面装甲は防弾アルミ合金45mmと73式装甲車より10mm厚い。

 AAV-7は増加装甲キットEAAK追加により防御力を強化しています。本車は原型LVTP-7制式化が1970年と古い車両ですが1985年にAAV-7として改修により一段階進んでいまして、同盟国や友好国へ輸出、陸上自衛隊も水陸機動団新編に併せ52両を取得しています。

 LVTP-7まで遡れば基本設計の古さは否めず、自衛隊の本車採用に疑問符を感じなくもなく、例えば三分の一の費用で調達出来、浮航能力と25mm機関砲を有するLAV-25を156両調達し、水陸機動団以外に全国の即応機動連隊へ配備した方が良かったのではないか、とも。

 しかし、米海兵隊の車両をそのまま採用し、戦術や訓練支援を受けねば、自衛隊が独自の水陸機動能力を一から構築する時間的余裕が南西方面の緊張増大に間に合わなかった為かな、とも考えます。写真は横田基地のUH-1N,遠からずCV-22へ代替される貴重な一枚だ、このあとF/A-18の航過飛行を撮影しまして、夜は花火との事でしたが流石に疲れたので撤収しました。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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6.12米朝初首脳会談:北朝鮮核廃絶論点の成否を握る我が国邦人拉致問題"解決定義と検証"

2018-05-14 20:07:23 | 国際・政治
■検証措置で"拉致と核"に相関性
 シンガポールにて来月12日に開催の米朝初首脳会談,最大の議題は核廃絶ですが、一方で日本が求める拉致問題解決が、実は核問題に大きく影響するかもしれない。

 米朝首脳会談を前に北朝鮮核廃絶の実現可否が注目される中での我が国の一貫した拉致邦人帰国要請、実は日本政府の強硬姿勢は高く評価されるべきと考えています。自国民が拉致されたならば普通の国であれば特殊部隊が救出に向かう、しかし平和憲法の日本はそうした事も出来ない、普通の国ではない、という主張は問題表面化と共に常にありました。

 アメリカ観光客平壌不当拘束事案、アメリカ国民が微罪根拠に長期拘束されたこの数年間の事案と共に、実は沖縄の米軍第1特殊作戦群が北朝鮮をMH-53で強襲、とまでいかずともせめて空母部隊を日本海に遊弋させ圧力を加えるものと考えていたのですが、実際のところこうした動きは無く、逆に邦人拉致理由に一国との国交断絶維持の我が国姿勢は凄い。

 北朝鮮邦人拉致問題、この未解決の問題は米朝首脳会談を間近に北朝鮮が解決済みとして問題に上げない姿勢を幾度も強調し、我が国に対して示威的な姿勢さえ示す命題です。少なくない識者が、拉致問題にこだわる日本政府の姿勢について北朝鮮核廃絶問題を第一とする米朝首脳会談や朝鮮戦争終戦に向かう融和を阻害しているとの認識を示しています。

 果たしてそうでしょうか、実は核問題と邦人拉致問題は、アメリカが北朝鮮空爆に踏み切らない分水嶺を示す大きな試金石となっているのではないか、米朝首脳会談を前にこのように考える次第です。根拠は北朝鮮核廃絶へのアメリカ側の要求、“核開発姿勢の不可逆的な放棄”と“徹底した検証措置”及び“完全な核廃絶検証後の経済制裁終了”というもの。

 核廃絶問題と邦人拉致問題について、連関する要素は邦人拉致問題は未だ北朝鮮国内には拉致邦人が生存しているとの証言情報が生還した拉致邦人や脱北亡命者を中心に寄せられ、邦人拉致問題については“徹底した検証措置”が為されていません、当然ですが日本側の査察さえ実現していない。この程度の検証を実現できない国が核廃絶を宣言している。

 北朝鮮は公的報道機関を通じた声明により繰り返し、拉致問題は解決済みとして“一方的終了を宣言”しています。アメリカ側の懸念としては“北朝鮮が核廃絶を一方的に宣言”し、アメリカ側の査察を“北朝鮮が解決済みであり必要な査察は完了したと一方的に宣言”、核関連疑惑に対し“アメリカ側の侵略意思の表れ”として査察拒否を正当化するなど。

 アメリカ政府は邦人拉致問題に対しての北朝鮮の対応を注視した上で、核廃絶について、邦人拉致問題のように“自称解決”を以て経済制裁の解除を要求する可能性を強く懸念、警戒しているのではないか。アメリカ政府の意思はトランプ大統領が初の安倍首相と開催された日米首脳会談にて邦人拉致問題をトランプ大統領から切り出した事に現れています。

 勿論、拉致問題は平壌米国国民不当拘束事案として、双方可罰性の無い微罪を云いがかりに長期拘束し、一部には劣悪な環境により致死状態間近の意識不明状態で送還し帰国直後に死亡する等の事案、拉致被害者家族同士の共同声明等の受け止めから、アメリカ国内では我が国の邦人拉致問題に重ねて受け止め、日本だけの問題ではないとの論調があります。

 北朝鮮の言い分では修了しているものの、日本側としては生存拉致邦人全員帰還を求める姿勢との平衡状態が継続しています。この状況が核問題に重なった場合、どうなるか。経済制裁継続では終わらぬ可能性もある。拉致問題蒸し返しで日本孤立、という論点は逆で、拉致問題解決姿勢が核問題解決への試金石に、なり得るといっても過言ではないのです。

北大路機関:はるな くらま ひゅうが いせ
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【日曜特集】富士学校創設63周年富士駐屯地祭【06】戦車教導隊の観閲行進(2017-07-09)

2018-05-13 20:08:01 | 陸上自衛隊 駐屯地祭
■特科教導隊と戦車教導隊
 富士学校創設63周年富士駐屯地祭、その前の年度、訓練展示模擬戦が無かった年度行事用説明文を転用しましたので、写真と解説が外れている点、どうかご容赦を。

 203mm自走榴弾砲は自衛隊最大の火砲で、大口径の軍団支援火砲でありながら、極めて軽量に収めた点が特色だ。28tなので自衛隊のC-2輸送機でも空輸可能という。軽量だが37口径の長砲身を活かしてRAP弾では射程30kmを誇る、が、軽量化を重視しすぎました。

 軽量化を重視し過ぎた為に操砲には11名が必要なのですが、車体には5名しか乗車できないので残る6名は随伴車輛で移動し射撃時に合流する必要があるのです。また屋根が無いのは軽量化のため、砲弾も車体が小さいので肝心の砲弾が僅か2発しか積めないという。

 威力は凄い、一発90kgもある砲弾を最大毎分2発発射できる。もっとも方針が痛むので緊急時に限られ、持続射撃では2分に1発が投射される。その威力、対コンクリート信管を用いた場合2m近い厚さを貫徹するし、地中に4.5mまで潜りこんで地下壕などを破壊する。

 空中炸裂信管を用いた場合は長径90mという凄まじい広さに砲弾片を散布でき、これぞ軍団砲兵という印象で、師団などが攻撃目標に向かう際、要塞施設や地下施設等の軍団全体で対処する目標に対し投入され、重要橋梁や飛行場施設等の破壊にも用いられる火砲です。

 203mm自走榴弾砲には87式砲側弾薬車が基本的に随伴する。1tクレーンにより砲弾を供給でき、車内には50発の203mm砲弾を搭載している。装甲車両でもあり、火山災害などに際しては不整地突破能力の高さと汎用性を活かして災害派遣に充てられたこともある。

 87式という呼称の通り、自衛隊が203mm自走榴弾砲を装備開始したのは1983年と比較的最近です。ただ、高精度の砲身は製造方法をアメリカが開示できないとして車体自体をライセンス生産しています。エンジンは旧式なのでライセンス生産ではなく直輸入でした。

 C-2輸送機で空輸できる貴重な火砲なのだから、全廃せず多少は残してはどうかとも思う。99式自走榴弾砲は重量が40tもあるのでC-2輸送機には搭載出来ない、軍団火力なのだから威力が大きいのは確かで、島嶼部防衛に必要な装備と思う。それ程砲身も傷んでいない。

 なにより、203mm榴弾砲が掩砲所で待ち構える離島へ上陸してくる可能性は限りなく低くなる、威力そのものよりも象徴的な意味合いで、意味があります。例えば台湾などは240mm榴弾砲を離島に配備していますし、フィンランドの様に沿岸砲を維持している国も、ある。

 特科教導隊第5中隊のMLRS,自走榴弾砲に代わる陸上自衛隊の全般支援火力車両です。1両17億円と非常に高価な装備であったけれども、鋼鉄の豪雨と湾岸戦争でイラク軍機甲部隊に畏れられたこの火力を陸上自衛隊は大いに信頼し、実に99両も揃えているのです。

 水際撃破として自衛隊が内陸誘致戦略から運用を転換した時期に導入されており、導入当時はM-26ロケット弾を投射、一発で100×200mの範囲をクラスター弾が破砕し、一両で12発を連続射撃でき、一個大隊18両が同時射撃したならば広範囲が灰燼に帰すでしょう。

 オスロプロセスクラスター弾全廃条約によりM-26は日本では使えなくなってしまいました。そこで自衛隊はM-31ロケット弾を導入します。血税大金で買ったM-26の廃止は心が痛みますが、M-31ロケット弾は一発で50m四方を吹き飛ばす単弾頭型のロケット弾です。

 100×200mのM-26と比較したならば50m四方の制圧力というものはそれ程大きくは無い、が、射程はM-26の30kmからM-31では70kmまで伸びた、それだけではない、M-31はGPS誘導ロケット弾で命中精度が極めて高く、これは戦術ミサイルといえるでしょう。

 MLRSはM-31ロケット弾の導入で、面制圧火力から精密誘導火力へ転換したことになる。日本は専守防衛なので、住民が残る可能性と住宅街が広がる国土で面制圧火力を投射したならば付随被害が大きすぎる、ならばGPS誘導で精密誘導し命中精度を確保した方が良い。

 もちろん、GPS誘導方式ではない従来型の無誘導射撃も可能です、GPSの軍用回線は妨害を受けにくいが、座標入力の時間が無い場合に標定さえ出来れば即座に射撃できる利点は忘れてはならない利点でしょう。こうした意味でミサイルではなくロケット砲なのですね。

 専守防衛というものは実に面倒なのです。実際にオスロプロセスクラスター弾全廃条約でも、日本側が提唱する自国領土内での防衛を例外とする保持論は各国を悩ませたという、日本の専守防衛政策は世界の外交関係者の間で名高いし説得力もある、どうするべきか。

 しかし、アメリカやロシアも自国防衛用に残す、と日本の主張を支持した場合は本当にアメリカ本土決戦にのみ使用し中東や東欧では使用しないのか疑問となる。しかし、専守防衛用に例外措置を執ればアメリカとロシアがクラスター弾全廃部分同意の可能性があった。

 結局、日本は折れる形で専守防衛用も含めクラスター弾全廃に同意した、しかし、アメリカやロシアと中国やイスラエルはクラスター弾全廃条約に批准しなかった、結局クラスター弾を運用する主要国が参加しないまま全廃条約だけが独り歩きしまして成立したのです。

 世界規模で削減されたクラスター弾は少ない、NATOではイギリスやフランスとドイツが削減しているが元々冷戦後の軍縮の一環として元々縮小予定であった、これを成果とするのか、考えさせられるものが多い中、自衛隊は1999年までMLRSを調達し続けています。

 特科教導隊第6中隊は12式地対艦誘導ミサイルシステムを運用している中隊です。冷戦時代末期に開発された88式地対艦誘導弾の後継装備で、射程180kmの地対艦ミサイル、資料によっては250kmの射程を持つとも言われる、自衛隊の着上陸阻止への切り札のもの。

 250kmの射程を持つとも言われる背景ですが、このミサイルは地形追随飛行を行うため、直線であれば250km飛翔できるという意味だろうか、と考えた事もありました。この場合、沿岸から射撃は有り得ず、250kmの射程を持つとも言われても余り意味は無いでしょう。

 ミサイルは捜索標定レーダ装置を眼として運用します。捜索標定レーダ装置、一個連隊に12両が装備される虎の子で50kmの索敵能力がある。射程よりも捜索能力が短いのが気になるが、これは元々ミサイルを内陸部に展開させレーダーだけを沿岸部に展開させるため。

 ただ、多少使いにくいのでレーダーに加えて12式地対艦誘導ミサイルシステムからはP-3C哨戒機やP-1哨戒機、護衛艦などの目標情報と連携を重視しているほか、電子隊による電子標定により海上の水平線の向こう側にある目標情報を共有する運用も重視しています。

 12式地対艦誘導ミサイルシステムは配備開始間もない装備であるので詳細は未知数です。先代の88式地対艦誘導弾は6連装発射機16両で連隊を編成、段列地区に更に2斉射分を弾薬輸送車に積載し待機していた。一回の斉射で96発、292発のミサイルを携行していた。

 この装備の完成でロシア軍の北海道侵攻は極めて難易度が増している、といえるでしょう。北海道だけで3個連隊が配備され、有事の際に仮に大雪山付近に展開したならば北海道周辺全域にミサイルを投射可能となります。実際開発の射程要求はこうして出されました。

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【くらま】日本DDH物語 《第四一回》未成のF-4高速対潜機構想,石油危機と四次防未達成

2018-05-12 20:17:14 | 先端軍事テクノロジー
■第一次石油危機と高度成長終焉
 海上自衛隊航空集団へファントム配備が実現したならば、その後の防衛政策は大きく転換したでしょう、いい意味でも、勿論その逆も。

 海上自衛隊のF-4高速対潜機の導入は結果、時期尚早とされ、実現しませんでした。特に航空自衛隊がRF-4偵察機を導入する計画が具体化しており、F-4戦闘機を最終的に140機配備する航空自衛隊が包括管理する事で制空戦闘の他に海上自衛隊が必要性を提示していた洋上偵察任務についても、必要な作戦能力を確保できる、という見通しがありました。

 第五次防衛力整備計画において航空自衛隊が空中給油機の導入を展望していたことも大きく影響します、航空自衛隊はKC-135空中給油機を第四次防衛力整備計画当時に続く第五次防衛力整備計画へ盛り込む研究を実施しています。当時、F-4EJ戦闘機を導入する際に周辺国へ脅威を及ぼさないとの国会討議結論から社会党要求で性能の一部が省かれている。

 空中給油受油能力についても原型のF-4E戦闘機には含まれていませんでしたが、受油口はライセンス生産時に三菱重工により省かれていましたが、燃料系統は維持されていた為、改修として受油口を加工しただけで、KC-135空中給油機からの空中給油は可能となったとされ、第五次防衛力整備計画における空中給油機導入も現実味があったといえるでしょう。

 海上自衛隊には当然ながら空中給油機の導入計画はありません、勿論その余裕もありませんでした、第二次大戦中に建造された艦艇が若干残っており、国産護衛艦も海上自衛隊草創期の旧式艦が残る中、その更新を最優先しなければなりません。すると海上自衛隊がF-4高速対潜機を導入したと仮定した場合も、空中給油による戦闘行動半径増大はできません。

 RF-4を航空自衛隊が専用として運用するのであれば、第五次防衛力整備計画により導入される可能性が高かったKC-135空中給油機により洋上飛行時間を大幅に延伸する事が出来たでしょう。しかし海上自衛隊が導入した場合では航空母艦もない海上自衛隊としては基地からの行動半径に縛られる事となり、運用の柔軟性が確保できなかったというかたちだ。

 最大の計算外は、石油危機の発生により我が国財政が急激に悪化し、急速な防衛力成長を支えた高度経済成長も終焉を迎えた事で、航空自衛隊の空中給油機導入計画がとん挫し、我が国が空中給油機を導入するのは2000年代に実現したKC-767空中給油輸送機の配備を待つ事となった点でしょう、2001年の導入決定後、KC-767は4機が納入されています。

 第四次防衛力整備計画に期待され、しかし実現しなかった高速対潜機F-4,第四次防衛力整備計画当時は1973年の第一次石油危機、第四次中東戦争勃発に伴うアラブ連合の親イスラエル諸国への石油輸出機構を通じた対抗措置により世界経済は大打撃を受け、特に国内に油田がほぼ皆無である我が国への経済的打撃は狂乱物価、想像を絶する規模のものでした。

 防衛計画にも影響は多大であり、74式戦車、73式装甲車、ちくご型護衛艦、F-4EJ戦闘機、いずれも調達に影響が及んでいます。このため、第四次防衛力整備計画を完成させるに至らず、というのも同型護衛艦の建造費が原材料費拡大とインフレで倍増する程ですので、第五次防衛力整備計画の前にポスト四次防として中期計画を焼き直す必要も生じたほど。

 第一次石油危機の結果、海上自衛隊がF-4高速対潜機を希望しようとも財政状況は高度経済成長期の終焉と共に如何ともしがたい状況となった為、続く第五次防衛力整備計画に盛り込むことは勿論、第四次防衛力整備計画の完成以前に生じた財政難が第五次防衛力整備計画をポスト四次防へ焼き直しを強いる事になり、F-4導入の可能性を霧散させました。

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