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忙しく働くのは良いが、それこそ忙しいという言葉どおり心を亡くす時というのがあるようだ。そして、時にはどうしようもない壁にぶつかったりする。多くの人が経験することかもしれないが、私も中年のころに、そんなことがあった。
そんな時。本が好きな私は、社会人になってからは、殆ど哲学書や宗教関係の書物は読まず実用的な本ばかり読んでいたが、そのときばかりは実用的な本は軽すぎて、哲学や宗教関係の本をやたらに読んだ。
この種の本は基本的に「何のために生きているのだろうか?」の深い問いかけに、いろいろ応えてくれる。もちろんこの回答は死ぬまで得られないだろうが、何年か経つ中で、壁にぶつかっていた当時とは格段に元気になっていく。
この一連の経験を、あとになって生き甲斐の心理学で学問的に振り返ってみると、自分のアイデンティティが危機に瀕し、そして、自己実現のキーワード「何のために生きているのだろうか?」により、再生への路を見つはじめたようなのだ。
蝶が青虫から蛹になったり蝶になったりするように、そのときどきに身を削ぎつつ新しく変わっていく。それは、変化に対し力強く生き抜くための問いかけかもしれない。
さて、昨日は友人と国分寺の真姿(ますがた)の池に夕方行った。都内で御嶽とこの国分寺だけが名水100選に選定されているようで、美しい水がこんこんと湧きおこり、心が洗われたようだった。
国分寺崖線(ハケ)の美しさを象徴する場所であるが、この池には平安時代の伝説が残されている。「ふるさと国分寺のあゆみ」(国分寺市教育委員会)96ページより、引用させていただく。
848(嘉祥元)年、絶世の美人と評判だった玉造小町は、不治の病にかかってしまいました。彼女の顔は次第に醜く変わり、人々がさけていくほどになりました。小町はある日、武蔵国分寺の薬師如来が、霊験あらたんかであることを聞き、詣でて心から病気全快を祈りました。そして、21日目、突然童子が現れて、小町を池に導き、「この池の水で身体を洗いなさい」と言うなり姿を消しました。小町はお告げを信じ、身体を洗って祈りました。やがて、ふと池に目をやると、美しい元の自分の姿が戻っているではありませんか。小町は病が治ったことを喜び、薬師如来と弁財天に心から感謝しました。
この美しい伝説も、何か「何のために生きているのだろうか?」という問いかけと深い結びつきがあるように思えるのだがいかがだろうか?
時の旅③ 10/10