霊魂とか魂のことは誰にも判らないはずであるが、それについて、一度も考えない人は稀であろう。死んだらどうなるのか?魂はあるか?
たまたま、手塚治虫のファウスト3部作(ドイツ人のゲーテが記したファウストを題材にした漫画)を現在手にしている。不思議なことに手塚治虫は作家活動のはじめの20歳台に「ファウスト」、40歳台に「百物語」、そして60歳の未完の遺作「ネオ・ファウスト」。ファウストの最後は有名な魂の救済の話で終わる。
さて、手塚治虫がどのような霊魂や魂を信じていたのかは興味があるものの、具体的な定義は書かれていない。魂の定義では、U先生から教えていただいた一つの定義があるが、それを何年も噛みしめていると、だんだんその定義が好きになってくる(身についてくる?)。その定義は以下である。
「魂は愛そのものであり、老いることもなく、病むこともなく、人間の死とともに身体から離れる知的生命体」。人間は生きているときは、こころの奥底の魂は抑圧され、自分でも他人にもよく判らなくても、身体の死を迎えるときに真の愛の姿となる・・・
この定義を考えていると、世の中の様々な嫌なこと不快なこと、自分の囚われがふっと透明化されるように感じられる。少なくとも、ストレス曲線は軽減すると思う。
閑話休題。プロセス・スケールの4番目は「体験の解釈」である。例えば、先日行った相模原公園の花壇で見かけた鶏頭。
この写真を見て、どのような気分になりますか?季節を感じて嬉しくなる人。鶏頭はどうも好きになれないと思う人。この写真は鶏頭なのだが、ひょうきんな感じだと思う人。様々だと思う。
私は、生育史の関係からくるのか鶏頭が嫌いで、いつも抵抗がある。ただ、何かこの花壇の写真、ヒョウキンで憎めない感情が湧く。
「公共の花壇に鶏頭はやめてほしい」という考え(構成概念)が、微妙に変化し揺れる。
鶏頭によってある構成概念が生じるが、それが動かしがたいもののように思えたり(底)、反対にその概念が一時的に柔軟に変更可能であったり(高)。個人のイキイキ度はその時々に変化する。今は私は、たまたま底ではない。
ある出来事により、構成概念が心底動かしがたい壁のようなものとなり、苦悩にあえぐ!そんな、底の状態も、私も経験した。
今日のように、底でない時は良いとして、自分が底となる時も将来確実にある。
その時は、 「魂は愛そのものであり、老いることもなく、病むこともなく、人間の死とともに身体から離れる知的生命体」など、壁に隙間を与えるような言葉を思い出せればと思う。
(イキイキ度 6/8)
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