そのことは、ここではこれ以上触れないが、グループ送迎なるものがあることを初めて知った。
昔あった、親と他人の子のつながりとして考えたとき、良い点もあろうかと思われる。
然し、私がその立場だった場合、毎日のことで何かあった場合の責任問題を考えたとき、一体どうするの?と思わざるを得ない。
やはり、交通事故等の危険性も含め、個人で各々送迎か、それができない場合は、送迎バスを走らせるのが賢明であろう。
(曳馬城 引馬城 静岡県浜松市 市指定史跡)
久し振りに、昭和33年(1958)に再現された三層天守に登ってみる。
以前訪れたのは、昭和57年2月であったが、その頃は中の展示物もあまりなく、寂しい城という印象であった。今回訪れると、先回よりも物も人も賑やかになっており、変化を遂げていたが、展望台は鳥除けの金網が張り巡らされており、それが残念に感じた。
元々、永正年間(1504~20)今川氏臣飯尾乗連が築いた曳馬城の敷地に、その後徳川家康が侵攻、そして天正五年(1577)から五年の歳月をかけ浜松城を築き、天正十四年(1586)に駿河府中に城を築くまで、この地が家康の本拠地であったのである。
残る石垣も、戦国時代が故の野面積みで、不揃いな石積みが主体となっている。
家康以後は、豊臣秀吉臣堀尾氏が入り、「関ケ原」以後は出雲松江に移封、代わって美濃金山から桜井松平忠頼が五万石で入ったが、慶長十四年(1609)江戸において久米左平次によって殺められ、忠頼子忠重が幼少であったため改易となり、代わって武蔵岩槻より高力忠房が入った。
寛永十六年(1639)忠房が肥前島原移封後は、大給松平乗寿(のりなが)が美濃岩村から転封、乗寿は老中となり、正保元年(1644)上野館林に移封した。乗寿に代わって三河西尾より太田資宗が入り、延宝六年(1678)子資次のとき大坂城代となった。そして大坂城代を務めていた青山宗俊が代わって入る。
元禄十五年(1702)青山氏三代忠重のとき、丹波亀山へ移封、代わって本庄松平資俊が常陸笠間より入る。宝暦八年(1758)子資昌のとき、丹後宮津に移封、大坂城代であった井上正経が入った。
文化十四年(1817)井上氏三代正甫(まさもと)のとき、陸奥棚倉へ移封、肥前唐津より水野忠邦が入った。弘化二年(1845)子忠精(ただきよ)が出羽山形へ移封、代わって井上氏が返り咲く。そして正直のとき廃藩となった。
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