flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

馬場信房首塚

2016-07-07 00:00:00 | いにしえびとの睡

(愛知県南設楽郡鳳来町長篠字西野々 1992年3月30日)
 寒挟川沿いの出沢(すざわ)で最期を迎えた信房(信春)は、長篠城に程近いこの地に首を埋けられた。永正十一年(1514)甲斐国巨摩郡教来石村で生まれた信房は美濃土岐氏一族の裔であり、教来石(きょうらいし)に移り住んだため、地名を苗字とし教来石氏と名乗った。その後、後に信房となる景政が馬場氏の名跡を継ぎ、馬場氏となった。信房は
天正三年(1575)長篠の戦いの際、織田軍佐久間信盛が陣を敷く設楽原丸山(陣砦)を武田軍である馬場信房が占領し、その後丸山前方で武田軍真田信綱、真田昌輝、土屋昌次、穴山信君、一条信龍らと、織田徳川軍佐久間信盛、蒲生氏郷、佐々成政、滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀、前田利家、水野信元、森長可らが激戦を繰り広げた。また、信房と縁戚である土岐氏裔とされる長篠氏がかつて住した大通寺山には、武田軍武田信豊、小山田昌行、そして馬場信房ら二千人の陣地が構えられた。山の斜面には「杯井」といわれる清水があり、決戦を避けて甲斐に帰陣するよう忠告するが、武田勝頼がこれを聞き入れなかったため、武田氏の家運もこれまでと思い、信房はこの水で内藤昌豊や山県昌景らと訣別の杯を酌み交わしたという。そして、信房は織田徳川軍に飛び込んで行き最期を迎えた。胴塚は甲斐塩山の臨済宗乾徳山恵林寺にある。

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