flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

夕暮れの ほの川

2006-02-15 00:00:44 | 水のほとり
 我が家の近くを流れる川、ほの川(とよがわ)
平成15年度、全国一級河川水質測定結果第1位に輝いた清流なのである。
子供の頃、私が何かに取りつかれるかのように遊んだ川だ。
写真の辺りの粘土層には、その地層から約3万年弱前の貝の化石をみることができる。
つまり、河口から20kmのこの辺りは海だったというわけだ。

年々少しずつかたちを変える中州を見ながら、心の中は少年に戻っていた。
  
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都心のかみやしろ

2006-02-14 00:00:01 | かみのやしろ

 名古屋の都心にも、狭いながらも神社が鎮座する。
室町時代の応永5年に、現在の東区東桜に勧請された富士浅間神社は、伊予大三島宮祭神、大山祇命の娘、木花咲耶姫(このはなさくやひめ)を祀る。
慶長15年名古屋城築城により、この地に普請小屋が建てられることになり、西区幅下に移動された。
その後、普請小屋が無くなり、遷されていた神社は、現在地に戻され、幅下の地は、浅間町の地名が残った。
また、現在の富士神社境内には、普請小屋名残の名古屋城石垣石材の一部が残っている。
   

 中村区名駅南には、銀杏の木に白龍が乗り移り、数々の霊験を現すようになったという「白龍さま」がある。
商売繁盛にご利益があると言われている。
 

私が夕暮れどきの、束の間訪れている際でも、何人もの真剣にお参りする人を見かけた。
都会でも田舎でも、信仰心のある者にとっては、何ら変わることはない。

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桃花園

2006-02-13 00:00:54 | 漂い紀行

 春日井市北西部、小牧市に隣接するこの辺りは、もとは下原村と呼ばれ、犬山成瀬家の知行地であった。そして桃花園とは、その下原の地に造成された新興住宅地のことである。その西端斜面には、下原古窯という窯跡がある。ここでは、市内味美にある二子山古墳の須恵器や埴輪も焼かれた。窯跡は10基からなり、半地下方式のあな窯で、ここでは、古墳時代中期の須恵器と、須恵質埴輪が焼かれた。平成元年と翌年に発掘調査が行われ、そのうちの5基が保存対象となり、ビニールハウスで保護されている。
 桃花園の南方には、その地形から溜池が造られ、今は平和公園共々、オアシスとして人々に親しまれている。

  

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新守山

2006-02-12 00:31:54 | 漂い紀行

 昭和38年に守山市が名古屋市に合併され、守山区となったところである。名前も森山が転化して名付けられたといわれ、自然豊かなところである。前項 東谷山 も同じ区内であり、神秘の山々が深かったことから古墳が集中して築かれた地域でもある。
 駅前は元市中心駅とは正直思えない程の感じであり、商店も少ない。駅西は、大型商業施設、会社事業所、住宅などがあり、都心や郊外の名古屋のイメージとも違う。古くからの神社、寺が比較的旧態を残し、歴史の宝庫守山といえるべき雰囲気をたくさん残している。
    

(関連記事:白山古墳 瓢箪山古墳 小幡城 小牧線旧線

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Nagoya city Public hall

2006-02-11 00:05:11 | STRUCTURE-構造物残影-
 昭和天皇即位を記念して、1927年4月2日に起工、1930年9月30日完成、同年10月10日に開館した、鉄骨・鉄筋コンクリート造、地上4階・地下1階、建築延面積11,939㎡の建物である。
戦時中は陸軍高射第二師団司令部となり、終戦から1956年まではGHQに接収され、連合軍兵士専用劇場として使用された。
その後返還され、本来の施設に戻り現在に至っている。
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ほの山遠望

2006-02-10 00:00:47 | ご近所漫ろ歩き
 合併後、新市の中心地から見る「ほの山」である。
アフターファイブ、日没を迎える時間であったが、この街にも良い意味での新たな夜明けはくるのであろうか…。

願うところである。
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陸軍歩兵第十八聯隊弾薬庫

2006-02-09 00:00:10 | STRUCTURE-構造物残影-
 前項、The 18th infantryman regiment で触れた豊橋公園内に残る哨舎営門跡の程近くに存在する、軍事構造物の一つである。
現在公園の南側入口となっている旧営門から入ると、すぐ右手の吉田城跡土塁に隣接して建つのが、弾薬庫だといわれている。

行き交う市民、来訪者に殆ど気づかれないまま、今日までひっそりと残されている。
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広見公園ふるさと村

2006-02-08 00:12:52 | 木のたてもの

 富士市の高台にある、野外展示保存建築である。

○三階建て、正八角形の建物は、明治25年に料理店の玄関として建てた「眺峰館」
三階からの富士の眺めが良かったので、この名前が付いたという。

 
○上の二軒は、奈良・平安時代頃の東平遺跡というところの、竪穴住居と高床倉庫の復元建物である。


○江戸末期の長屋門。
用水を管理していたため、樋代官と呼ばれた植松家の門。


○安政4年に造られた、豪農松永家の住居の一部。
鉄道や製紙工場の誘致に関わった家である。


○先ほどの樋代官の居宅。
江戸時代としては、珍しい造りの家である。

 

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田子の浦

2006-02-07 00:00:19 | 漂い紀行
(静岡県富士市)
 乗客は最盛期の六分の一、工業地帯ならではの貨物に至っては、十分の一にまで落ち込んでしまったという岳南鉄道線。…吉原本町駅から乗車し、吉原駅で硬券切符を記念にもらい、駅を降りる。制限高1.7m、私には首が折れるトンネルをくぐり、駅南に出る。次第に季節風が強くなってきたが、「富士と港の見える公園」に向かってみた。海岸線には松が植えられ、防風機能を果たしていることを十分感じた。丘に差し掛かると、田子の浦平和の塔というパゴダのような建造物の隣りに展望台があり、上ってみたが非常に風が強く、ゆっくり眺められなかった。

 然しタンカーの停まる田子の浦港から見る富士は、雄大であった…。
    

(関連記事:富士 広見公園ふるさと村 吉原宿 岳南原田 比奈 岳南富士岡 富士鷹岡 東田子の浦
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吉原宿

2006-02-06 00:00:00 | 街道・宿場町
(静岡県富士市)
 富士の山裾から東海道十四番目の吉原宿へ下ってみる。
当初は海岸に宿があったが、江戸初期の洪水により、現在地に移転したのだという。
 人口の割にこのまちは個人商店が元気な感じがした。この辺りはやはり、富士信仰と日蓮宗系の寺院をよく目にする。また、懐かしい風情は多いのだが、案内看板等が殆どなく、他所から来た者にとって非常にわかり辛いところもある。
 岳南鉄道線に乗ろうと辺りを見渡すと、吉原中央駅というのがあった。近づいてみると、バスターミナルであって、鉄道駅ではなかった。ここから500mほど東に行ったところに、吉原本町駅があった…。駅では駅員はいたが、非常に寂しい感じ。切符は硬券でホームはニ両分、電車は一両運転ワンマンであり、京王電車からやってきた「あかがえる」と呼ばれた車輌を改造したもので、非常に低速で走る。
 岳南鉄道線は短絡線の性格はなく、各町内を結ぶ市電のような存在であった。よって短い路線ながら曲がりくねっている。当初は沼津まで延伸する予定だったようだが、資金難によって断念され現在の江尾駅が終点となったということであった。
    
この後は、吉原駅へと向かった。

(関連記事:原宿 蒲原宿 富士 広見公園ふるさと村 田子の浦 岳南原田 比奈 岳南富士岡 富士鷹岡
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輪廻と魂

2006-02-05 21:22:33 | 天祐語録
 私は全ての人間が必ず生まれ替わるとは思っていない。
体は無くなっても死の世界に魂が向かっていない者、甦りを拒む者もいるだろう。
輪廻転生があるのなら、魂の数は限られている筈である。
だが人口は増加した。

最近の人類の中には、社会生活に支障をきたす者を多く見かける。
つまり魂の経験の浅い者、再生されてない新規の魂が存在すると言ってもいいだろうと考える。
それらの魂には、しっかりとした人間的教育を施さないと、何回生まれ替わっても、徳の積まれない、また、いつまでも子供のような精神を持った、自己を客観視できない大人ばかりになってしまうことだろう。
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富士

2006-02-05 00:01:33 | 漂い紀行
(静岡県富士市)
 駿河の富士山麓の街に初めて降り立つ。
富士川を渡るまで、空は雲で覆われていたが、ベールをめくるように富士の山が現れた。駅前の通りから見える山に引き寄せられるように歩く。気がつくと、駅を四駅分ほど歩いていた。
 潤井川を越え、台地に差し掛かると、円墳に対し前方後円形の周濠を持つ、伊勢塚古墳があり踏査してみることとした。寺の境内にある古墳は、頂には「三光天子」を祀る堂宇があり、墳丘周囲は墓地となっているが、極最近墳丘上の木々が伐採されたようだ。地面からは、タガ(突帯)の低い刷毛目調整の円筒埴輪片が散見していた。
 更に北進し、広見公園ふるさと村へと向かった。
そこには博物館があり、産業の製紙の機械をもとにした歴史を知ることができ、豊かな水による富士の文化が理解できた。村内には歴史的建造物が数棟移築保存され、バラ園からは、雄大な富士を間近に見ることができる。

続いて、東海道吉原の町へと向かう。
        

(関連記事:田子の浦 岳南原田 比奈 岳南富士岡 富士鷹岡
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皇位継承

2006-02-04 20:33:46 | kourei-ki-日記-
 基本的に男系嫡男でなくてはならないとされる。
遺伝子を継承するための自然的行動といえる。

我が家でも同様の言い伝えにより、いわゆる養子を迎えることはしない。
例え腹違いであっても、嫡男の血を継いだ子を迎入れることになっている。
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桃太郎の犬

2006-02-04 00:30:20 | 干支
 桃太郎のモデルとされる吉備津彦命の臣に、犬飼部という人物がいた。
この子孫が犬飼(犬養)氏だといわれ、岡山県の犬養氏はこの子孫とされている。
昭和7年5月15日の「五・一五事件」で、銃口を向ける海軍若手将校に向かって「話せば分かる、話しを聞こう」と語ったが、血気盛んな将校のために「問答無用」と言いながら暗殺された犬養毅首相は、桃太郎の「犬」の子孫だということである。
 
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節分

2006-02-03 00:00:35 | kourei-ki-日記-
 節分は立春、立夏、立秋、立冬の前日のことをさすが、特に立春は一年の初めと考えられることから春の節分が最も重視されていて、最近は単に「節分」といえば春の節分を指すものとなっている。
 立春を新年と考えれば大晦日に相当する訳であり、そのため前年の邪気を全て払ってしまうための追儺(ついな…弓矢などで悪鬼、厄神などを追い払う行事)が行われる。その代表的なものが「豆まき」だといわれている。
「鬼は外」は、中国から渡来し宮中で年行われていた追儺の行事と寺社が邪気を払うために行った「豆打ち」の儀式が融合したものだといわれている。
 穀物や、果実には「邪気を払う霊力」があると考えられており、豆を蒔くことで豆の霊力により邪気を払い、福を呼び込むと考えたのではなかろうか。

 桃太郎公園の鬼たち

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