(神戸市兵庫区切戸町 県指定重要文化財 2006年12月15日)
兵庫運河の近くに「十三重塔」がある。これは清盛塚と呼ばれるもので、弘安九年(1286)二月の銘があり、隣りの琵琶の名手といわれた平経正の琵琶塚と共に平家の墓とされているが、道路拡幅による発掘調査で、人骨、遺品等は検出されなかったため、供養塔であったことが分かった。
(愛知県犬山市明治村 旧所在地:東京都豊島区目白 国登録有形文化財)
明治42年(1909)学習院が旧所在地(東京市四谷区尾張町)から移転する際に築造された木造2階建、建築面積180m2の建物である。竣工時の学習院長は乃木希典。
(名古屋鉄道 岐阜県揖斐郡 1998年2月7日・3月8日)
新岐阜駅に降り立つのは約8年振りであり、軌道線のうち徹明町から揖斐に向かって乗車するのは初めてである。岐阜軌道線の新鋭780系電車に乗ってやがて揖斐線内へ、そして伊自良川を越えると西濃平野の北端に差し掛かる。終点、黒野に到着。ここは以前、野古墳群踏査の予定を立てたところである。が、今回はここで乗り換えて谷汲線へ。先程の車両と打って変わって昭和初期製造の750形電車がホームに入ってきた。軌道線用の小さな車体のワンマンカー。木造車に響く釣掛音は、他の乗客共々懐かしさを感じずにはいられない。スピード40~50キロにトロッコ貨車のような乗り心地も不快には思われなかった。大正15年(1926)に谷汲鉄道として開通した同線は、今でもモータリゼーション以前の軽便鉄道の様な趣があり、付近の景色と共に馴染んでいるが、この光景も過去のものとなろうとしている。長瀬駅を出ると結城駅であるが、平成2年に廃止され、一寸距離を感じて終着駅へ。駅舎は先年改築され、そこだけ雰囲気が違った感じがする。そして昆虫館が併設されている。
(奈良市朱雀)
昭和47年(1972)平城ニュータウン造成に伴い開発された地である。また、関西文化学術研究都市(けいはんな学研都市)の玄関口でもある。大阪市営地下鉄コスモスクエアから長田を経て、現在、学研奈良登美ヶ丘までの「けいはんな線」が、この高の原で近鉄京都線に接続する構想があるが、リニア中央新幹線の経路地や、びわこ京阪奈線との関係、県境であるこの地と京都府との間の交渉等により足踏みしている。
(埼玉県比企郡吉見町南吉見 町指定文化財 比企三十三所観音三番札所)
吉見百穴に向かう途中に、楼門のような建物かある。これは武蔵松山城の西側にある観音堂であり、懸造(かけづくり:崖造り:斜面に櫓を組んだ建造物)の堂宇である。伝承によると、弘法大師が岩窟を選んで高さ一尺一寸(33.3cm)の観音像を彫り、この場所にある岩窟に納め、岩室山と号したのが始まりという。また、代々の松山城主がこの観音堂を護持したが、天正十八年(1590)豊臣秀吉の小田原征伐によって松山城が落城した際、この観音堂は兵火により焼失したという。現在の堂宇は寛文年間(1661-1673)近隣の龍性院住職堯音(ぎょうおん)によって再建されたものであり、現在も同院が管理を行っている。
(伊那部城 長野県伊那市西町・伊那部)
伊那部のまちを見下ろす台地に位置し、天文三年(1534)春日(伊那部)重慶が築城したのが始まりという。間もなくして伊那地方は武田氏の侵略に晒され、天文十四年(1545)武田勢が近隣の福与城(箕輪町)を攻撃した際には、小笠原信定がこの春日城に入って福与城の救援を行ったという。然し福与城の救援は失敗、福与城は落城している。 弘治二年(1556)重慶孫、重親のとき、武田氏に対して反乱を起こし、重親は討死している。天正十年(1582)春日昌吉のとき織田信忠が攻め入り、近隣の高遠城と共に落城した。昭和26年(1951)NHK伊那ラジオ中継放送所建設の際、三の郭の土塁が削平され、堀が埋められたが、主郭、次郭の土塁、堀はよく残されている。
(聖ヨハネ教会堂 愛知県犬山市明治村 旧所在地:京都市下京区河原町 重要文化財)
明治40年(1907)建築家であり宣教師であったアメリカ人であるガーディナーが設計した、1階煉瓦造、2階木造、建築面積357m2,二つの尖塔を持つロマネスク様式ゴシック建築の教会堂である。昭和39年(1964)明治村に移築された。
(木曽川大井ダム 岐阜県恵那市・恵那郡蛭川村・中津川市 恵那峡県立自然公園 2001年11月20日)
晩秋の東濃木曽川畔を訪れた。恵那峡は、大正13年(1924)に竣工した発電ダム、貯水量29,400,000m3の大井ダムによって形成された峡谷である。また、「恵那峡」は、地理学者志賀重昂(しが しげたか)によって命名されたものである。
(総国分尼寺法華寺 奈良市法華寺町 国指定史跡・名勝 国宝 重要文化財)
天平十三年(741)聖武天皇が発した、国分寺・国分尼寺建立の詔(みことのり)によって創建(開基は光明皇后)された寺院である。往時は南北三町(約327m)、東西二町(約218m)の敷地を有したが、平安京遷都、更には平重衡の兵火によって次第に衰退した。鎌倉時代に入り、東大寺大仏像を再興した重源によって法華寺も再興された。然し、幾度となく兵火や天災に見舞われ、現存する伽藍は豊臣秀頼と淀によって建立されたものである。
重文 本堂 慶長六年 旧境内地阿弥陀浄土院跡
(奈良県大和高田市本郷町)
高田城の西側、八幡神社付近にかつて存在した寺院である。鎌倉時代初期創建とされ、興福寺末であった。室町時代に入り、当麻氏により境内に高田城の鎮守として八幡神社が祀られたが、明治維新の際の廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)によって廃寺となっている。