flow Trip -archive-

「漂い紀行 振り返り版」…私の過去の踏査ノートから… 言い伝えに秘められた歴史を訪ねて

銭洗弁財天

2016-07-16 00:00:00 | かみのやしろ

(宇賀福神社 神奈川県鎌倉市佐助)
 文治元年(1185)源頼朝が見た夢のお告げにより、佐助ヶ谷最奥の清水の湧くこの場所に洞を掘り、社を建て宇賀神を祀ったのが始まりとされる。また、正嘉元年(1257)には北条時頼がこの清水で銭を洗い一族繁栄を祈ったという。神仏習合により宇賀神が弁財天と同一視されていたが、明治維新の神仏判然令により神社となり、市杵島姫命(いちきしまひめのみこと)を主祭神とした。隧道の参道は昭和になってから開削されたものである。
             

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旗頭山尾根古墳群

2016-07-15 00:00:00 | いにしえびとの睡

(愛知県新城市八名井・宝飯郡一宮町金沢 県指定史跡 1992年4月23日再踏査)
 元亀四年(1573)野田城の戦いの際、徳川家康勢三千が陣を敷いたという旗頭(はたがしら)山(98m)は、吉祥山(382m)の支丘であり、古墳時代終末期の積石塚である尾根古墳群が存在する山でもある。その旗頭山も、連なる山と共に古墳群の文化財指定範囲外は年々採石によって縮小していっている。かつては吉祥山側に連なる茶臼山支丘(154m)にかけて36基があったとされるが、採石等により滅失し、現存は24基となっている。更には茶臼山支丘の対岸、大入山支丘にも10基の積石塚が存在した(大入山古墳群)。旗頭山尾根古墳の内訳は、一宮町側の標高の低い地点から1号墳で始まり、16号墳までが土と石を混ぜて造られた半積石塚、17号墳以降は全て石だけで造られた積石塚であり、25号墳以降は採石によって滅失した。但し26号墳は滅失直前に発掘調査が行われ、調査後に市内桜淵公園に移設復元されている。積石塚の形式は高句麗地方特有の形式であり、日本では地域が限定されているため、渡来人の墓とされる考え方もある。
 4号墳
 5号墳
 本宮山と18号墳
 25号墳
 桜淵公園内に移築された26号墳(1982年7月撮影)

(関連記事:旗頭山平成十七年 段林5号墳 段林遺跡 旗頭城)

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原宿平成二十八年

2016-07-14 00:00:00 | 街道・宿場町

(東京都渋谷区神宮前)
 何回訪れても自らの世代を感じずにはいられない地である。鎌倉街道の宿駅があったため原宿と呼ばれたこの地だが、かつての地名、竹下、穏田と共に神宮前として統合され現在は地名として存在しない。
 原宿の地質

(関連記事:原宿駅舎 竹下通り 表参道)

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馬越紺屋谷平成四年

2016-07-13 00:00:00 | いにしえびとの睡

(愛知県豊橋市石巻本町紺屋谷 1992年4月9日)
 古代の営みの光景を感じるこの辺り。私は幼い頃からこの地を訪れ、旧石器時代から絶えることのない人々の営みを学習した地である。
 

(関連記事:馬越長火塚古墳 口明塚南古墳発掘調査 元屋敷古墳)

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横浜野毛

2016-07-12 00:00:00 | 街道・宿場町

(横浜市中区野毛)
 桜木町の南西側、野毛山の東に位置する一角である。野毛はこの地方で崖を意味し、かつての海岸線の地形を表しているが、今は崖が成形され、海は埋め立てられて歓楽街となり面影はない。
 空きスペースの目立つ桜木町駅前「ぴおシティ」(桜木町ゴールデンセンター)
      

コメント (2)
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白川出口橋から宝飯郡衙跡を望む

2016-07-11 00:00:00 | 城郭・城下町

(愛知県豊川市市田町 1992年4月8日)
 出口橋から伊知多神社方面を望む。伊知多神社は郡明神(こおりみょうじん)とされ、付近に郡衙(ぐんが:奈良・平安時代の郡役所)があったと推定する。昭和58年、私は豊川市市田町の伊知多神社南側の崖面下から布目瓦片と瓦質の線刻仏画片を採集した。この地に郡明神が存在していたことが分かっている点や三河国府に近いこと、奈良平安時代の遺物が散見できることなどから、宝飯郡衙が存在しただろうと想定していた。その後、昭和61年、同じ場所が崖面災害防止工事を行うことになり、その際瓦堆積層が見つかって発掘調査が行われた。そのとき採集した布目瓦片は厚みが薄いもので、寺院のような大規模な建物で使用されるものではないと推察する。また、線刻瓦片は、非常に薄手で、裏面に線刻を施し、串状のもので簡単になぞった単純な仏画であるが、天蓋や光背などが線刻されており、貴重な瓦片といえるであろう。或いは仏教末法思想が広まった平安後期頃に多量につくられた、瓦経の一種である可能性もある。然し、線刻仏画胴体付近が不鮮明、欠損をしているためはっきりしたことはわからない。

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横浜高島町界隈

2016-07-10 00:00:00 | RODEN-哀愁のRailway-

(横浜市西区高島)
 東横線横浜桜木町間廃止以降、どことなく寂し気なこの辺り。高島は元々海であったが、鉄道敷設のために埋め立てられ、その事業に関わった事業家、高島嘉右衛門に由来する。また、みなとみらい21計画によって単線一部地下化された、東海道線貨物支線の高島線が根岸線に並走している。
            

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望理城

2016-07-09 00:00:00 | 城郭・城下町

(愛知県豊川市森町 1992年4月6日)
 この城跡へは十四年振りに訪れる。望理神社付近に存在した望理(もり)城は、寛正元年(1461)常陸水戸から移った佐竹政義が城を築いたのが始まりとされる。その後佐竹氏一族がそのまま武門失脚まで住し続け、今も付近に末裔が暮らしている。

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宇奈根

2016-07-08 00:00:00 | 漂い紀行

(東京都世田谷区宇奈根)
 多摩川左岸、東名高速南側、砧(きぬた)地区の一角である。私が初めて訪れた平成2年は、まだ舗装されていない道が存在したが、現在も畑があり、未整備な場所も残されている。また、かつての多摩川の流路により、対岸の川崎市側にも宇奈根が存在し、下流の瀬田や野毛同様、多摩川に翻弄された地である。宇奈根の地名由来は、八王子千人同心組頭であった植田孟縉(もうしん)が文政六年(1823)に著した地誌『武蔵名勝図会』によると、「上古の世には海比(うない)と号せしにや。万葉の古詠などにもありけり。それより唱えを転じてウナニともいいけるや。上古には溝渠(用水)をウナニと唱へける由」とある。
        

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馬場信房首塚

2016-07-07 00:00:00 | いにしえびとの睡

(愛知県南設楽郡鳳来町長篠字西野々 1992年3月30日)
 寒挟川沿いの出沢(すざわ)で最期を迎えた信房(信春)は、長篠城に程近いこの地に首を埋けられた。永正十一年(1514)甲斐国巨摩郡教来石村で生まれた信房は美濃土岐氏一族の裔であり、教来石(きょうらいし)に移り住んだため、地名を苗字とし教来石氏と名乗った。その後、後に信房となる景政が馬場氏の名跡を継ぎ、馬場氏となった。信房は
天正三年(1575)長篠の戦いの際、織田軍佐久間信盛が陣を敷く設楽原丸山(陣砦)を武田軍である馬場信房が占領し、その後丸山前方で武田軍真田信綱、真田昌輝、土屋昌次、穴山信君、一条信龍らと、織田徳川軍佐久間信盛、蒲生氏郷、佐々成政、滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀、前田利家、水野信元、森長可らが激戦を繰り広げた。また、信房と縁戚である土岐氏裔とされる長篠氏がかつて住した大通寺山には、武田軍武田信豊、小山田昌行、そして馬場信房ら二千人の陣地が構えられた。山の斜面には「杯井」といわれる清水があり、決戦を避けて甲斐に帰陣するよう忠告するが、武田勝頼がこれを聞き入れなかったため、武田氏の家運もこれまでと思い、信房はこの水で内藤昌豊や山県昌景らと訣別の杯を酌み交わしたという。そして、信房は織田徳川軍に飛び込んで行き最期を迎えた。胴塚は甲斐塩山の臨済宗乾徳山恵林寺にある。

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猪方岩戸

2016-07-06 00:00:00 | 街道・宿場町

(東京都狛江市猪方・岩戸)
 和泉多摩川から南東に歩を進めると、多摩川の潟であった猪方(いのがた)と喜多見に接する岩戸である。共に大山街道登戸道(津久井街道)及び品川道沿いであり、古くから周辺との交流は盛んであった。永禄元年(1558)には北条氏康が催したという力比べが鎌倉鶴岡八幡宮で行われ、この地からは岩戸の鬼五郎と呼ばれた秋元仁左衛門が参加し相撲に勝った。勝者には鶴岡八幡宮の神体の一体が贈られ、それが岩戸八幡神社の始まりと伝わる。また、猪方村と岩戸村の間に駒井(こまい)村があり、8世紀頃に一時移り住んだ高句麗(こうくり・こま)からの渡来人による高麗居あるいは高麗江が変化した名残という説がある。これが後の狛江(こまえ)に繋がるとされる。
      

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下々古城

2016-07-05 00:00:00 | 城郭・城下町

(下々(しもそう)古屋敷 愛知県新城市八束穂字長筋 1992年3月30日)
 十五年振りに訪れるが、光景に特段の変化はみられなかった。以前訪れたとき、土地の人から昔この場所に学校があったと聞いたことがある。諏訪神社の西の緩斜面、五反田川(四反田川)と宮下川が合流する丘陵突端に築かれたこの城は、文安二年(1445)杉山中屋居館から移った塩瀬資時が住したのが始まりである。その後、元亀四年(1573)野田の戦いで、菅沼定盈(さだみつ)の先手を務めて討死した塩瀬宮内正衛門や左馬助直資、甚兵衛門が住した。天正十八年(1590)からは池田輝政臣井辺平右衛門が居住したという。また、川沿いの日当たりの良い地形から、弥生時代の人々の営み(古屋敷遺跡)も確認されている。

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和泉多摩川

2016-07-04 00:00:00 | 街道・宿場町

(東京都狛江市東和泉)
 多摩川左岸、津久井街道(大山街道登戸道)狛江側の岸の地であるが、かつての流路により川崎市側にも「和泉」が存在する。「和泉」は雲松山泉龍寺の湧き水(弁財天池:狛江市元和泉)が地名由来とされ、地区の生活用水として利用されたという。
           

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三河国府跡白鳥遺跡発掘調査

2016-07-03 00:00:00 | 城郭・城下町

(愛知県豊川市白鳥町 1992年3月19日)
 現場に訪れる前に教育委員会で情報を得た。今回の発掘調査による検出遺構は殆どなかったということであったが、国分寺と同じか若干古い奈良時代の軒丸瓦細片が出土し、付近に瓦葺きの建物が存在したことは間違いないだろうということであった。また、今まで白鳥遺跡三河国府推定地内で本格的な発掘調査がされていなかったが、これから三ヶ年にわたって発掘調査をし、先ず協力していただける私有地から進めていくということであった。三日後現場に訪れると、明日行われる現地説明会の準備で忙しそうであったが、トレンチから新たに布目瓦がまとまって見つかったということであった。
 シート内は室町時代鍛冶場鉄滓
 中央溝状遺構:室町時代 手前大穴:鎌倉時代


(関連記事:第10次三河国府跡確認調査 平成19年度三河国府跡発掘調査)

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登戸

2016-07-02 00:00:00 | 街道・宿場町

(のぼりと 川崎市多摩区登戸)
 三年振りにこの地を訪れる。多摩川右岸、多摩区の中心地である登戸は、多摩川に沿って府中街道が通り、対岸の和泉から三軒茶屋を起点とする津久井街道及び大山街道登戸道(世田谷通り・町田街道)が接続する。かつては多摩川登戸の渡しが両岸を結んでいたが、昭和28年(1953)多摩水道橋が開通した。(現在の橋は平成7年・13年完成) また、JR南武線と小田急小田原線が交差する等交通の要衝でもある。地名の由来は、アイヌ語のヌプル(濁る)ト(沼)説があるが、戸はこの地方で津を表し、津:川湊を差すと考えることができる。実際、「石屋河岸」として、伊豆の河津石や真鶴の小松石等、各地からの石材が登戸で荷揚げされていた。
     
  北向地蔵と馬頭観音
 石屋と石屋河岸の説明板
   河口から23km地点の多摩川小田急線橋梁
         多摩水道橋
 向ヶ丘遊園駅前
      二ヶ領用水の分水である五ヶ村堀に設けられた緑地

(関連記事:向ヶ丘遊園駅南口

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