京の辻から   - 心ころころ好日

名残りを惜しみ、余韻をとどめつつ…

防犯か信仰か

2009年02月09日 | 日々の暮らしの中で
平安遷都の時、都の南の入り口である羅城門を守りかためるために道幅85mの朱雀大路をはさんで創建された東寺。約55mの五重塔は安らぎさえ感じる対象に近い。空海に与えられ、いつの世も保護を受け、信仰を集めてきている。毎月21日の「弘法さん」は賑わぐ縁日だ。不動明王立像が盗まれた。

「仁和寺にある法師…」(「徒然草」)でも親しんだ仁和寺では、御室八十八ヵ所霊場の本尊四十体余り、昨年には十一面観音菩薩像一体が盗まれていた。
昨年八件・今年もすでに三件起きている。

施錠や防犯カメラ・警備員配置などを呼びかける指導がなされている。すでに赤外線センサー、収蔵庫での保管という対策を取る寺もある。
防犯への対策を高めるようにと説かれるが……。

美術館のようにガラス越しで拝観するのも寂しい。そもそもは信仰の対象として存在するからだ。

“京都”という地に幾重にも積み重ねられた歴史の層に、時を越えてイメージをかき立てられ思いを馳せる。
山並み、月の満ち欠け、街に潜む季節の移り変わりに、千年前も今も、きっと変わらない人間の思いを想像したりする。歴史の興亡に消えて行った人々、王朝人の世は?と文学の世界にも傾倒してきた。

しなやかな美しい仏像に出会いたいと寺を訪れもするだろう。ああ、これがあの本で読んだ…と感慨にふけることも。イメージは膨らむ。ひなびた小さな寺で人心地つくこともある。人間らしい感情を揺すられる。

盗まれてしまっては何にもならない。
かといって“鍵”をかけてしまってよいものだろうか。“壁”を作ってしまうのか。
防犯強化はやむを得まいが、相対して拝みたいものだ。
心が育つ事こそ大切であろう。

『その往時のイメージを心に思い描きながら寺々を巡るのは、心躍る冒険の旅だと私は思う』(『百寺巡礼』五木寛之著)。私もそう思う。

防犯か信仰か……
コメント (5)
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