風はまだ冷たい。日が陰ると寒々しくもあるが、どことなく霞んだ春の空の下、今日の日差しはお弁当持ってお散歩にうってつけのお日和。
ここのところの雨で水かさが増した賀茂川。
「川を渡ろう」と、一目散にお目当ての現場に駆け寄っていった3歳児だったが……。
向こう岸まで続く飛び石はそれなりの水力で洗われていて、無理なのが見てとれる。
「あしたまた行こかー」「そうだねー、明日また来ようか―」「あしたにしよーっ」
「♪あしたという字は明るい日と書く」のに、
いつも「あしたね」とかわされる彼女にとって、「あした」は来ない。
蝉の抜け殻を見つけた。ひと冬しがみつき通した殻を手に取って差し出すと、すさまじい悲鳴が二つ!葉っぱに乗せても持つ事が出来ないのは意外だったが、それが風で飛ばされるや、またも母娘の悲鳴の二重唱。あきれる~!
この抜け殻の背後に隠された“蝉さん”の人生ならぬ一生の崇高さ。
言葉にしなくてもすべてわかりあえるなんて嘘だ。ましてや伝わり切らないことも知るべきだ。ひと夏で燃え尽きる激しく強い輝きを目の当たりにすればこそ、蝉さんの命に何かしら共感できるのだろう。
古来、日本人は美しい自然の推移の中で死と再生を見て過ごしてきた。そして「無常観」といった観念とともに「死」を受け入れてきた……。
昨今、ともすると「生きる力」とか「共生」などをスローガンに掲げられて、死を受け入れる力などそう簡単に備わるものでもあるまい?
果たしてどこまで相手の時間や人生を全面的に受け入れた優しさ、柔らかな心でもって他者に寄り添えるだろうか。
こうした、生きることや死ぬこと・他者に寄り添うことへの共感、不安・問いかけは思想や信仰の枠を超えて誰にとっても平等にあるものだと理解すればよいのだろうか。
『おくりびと』絶賛の声がそれか。それとも、春だからそうした心が一斉に芽吹いたのだろうか。
映画を見ていない私には、『おくりびと』について語る資格はない。
この映画が評価されたという事実とみながみな語る「素晴らしい」という言葉を理解するのとは別問題として存在している。
ここのところの雨で水かさが増した賀茂川。
「川を渡ろう」と、一目散にお目当ての現場に駆け寄っていった3歳児だったが……。
向こう岸まで続く飛び石はそれなりの水力で洗われていて、無理なのが見てとれる。
「あしたまた行こかー」「そうだねー、明日また来ようか―」「あしたにしよーっ」
「♪あしたという字は明るい日と書く」のに、
いつも「あしたね」とかわされる彼女にとって、「あした」は来ない。
蝉の抜け殻を見つけた。ひと冬しがみつき通した殻を手に取って差し出すと、すさまじい悲鳴が二つ!葉っぱに乗せても持つ事が出来ないのは意外だったが、それが風で飛ばされるや、またも母娘の悲鳴の二重唱。あきれる~!
この抜け殻の背後に隠された“蝉さん”の人生ならぬ一生の崇高さ。
言葉にしなくてもすべてわかりあえるなんて嘘だ。ましてや伝わり切らないことも知るべきだ。ひと夏で燃え尽きる激しく強い輝きを目の当たりにすればこそ、蝉さんの命に何かしら共感できるのだろう。
古来、日本人は美しい自然の推移の中で死と再生を見て過ごしてきた。そして「無常観」といった観念とともに「死」を受け入れてきた……。
昨今、ともすると「生きる力」とか「共生」などをスローガンに掲げられて、死を受け入れる力などそう簡単に備わるものでもあるまい?
果たしてどこまで相手の時間や人生を全面的に受け入れた優しさ、柔らかな心でもって他者に寄り添えるだろうか。
こうした、生きることや死ぬこと・他者に寄り添うことへの共感、不安・問いかけは思想や信仰の枠を超えて誰にとっても平等にあるものだと理解すればよいのだろうか。
『おくりびと』絶賛の声がそれか。それとも、春だからそうした心が一斉に芽吹いたのだろうか。
映画を見ていない私には、『おくりびと』について語る資格はない。
この映画が評価されたという事実とみながみな語る「素晴らしい」という言葉を理解するのとは別問題として存在している。