昨日、午後からアジア大会の男子マラソンをTVで観戦しました。
途中からだったのですが、4人が先頭集団を作っていました。
その4人は、日本選手2人とカタール、バーレーンの選手の4人でした。
「中東の選手も長距離が強くなったんだなぁ」と思いながら見ていました。
ところが実況を聞いているうちに、中東の2選手とは、いずれもアフリカ生まれ、アフリカ育ちの選手だということが判りました。
なんだか鼻白む思いがすると同時に、空しさのようなものが私を覆いました。
アジア大会は、アジアに生まれ、アジアに生きている人たちの大会だと思っていたのですが、もはやそうではなくなってきたということなのでしょうか。
ワールドカップの時に、早晩ワールドカップも 「国 対 国」の戦いという図式が薄れてくると私は指摘しましたが、もはやあらゆる分野で(スポーツに限らず)ボーダーレス化が進んでいるということなのかもしれません。
論は少し飛躍しますが、こうしたことは国という概念が溶解しつつあるということなのでしょうか。
そうなのだとしたら歓迎すべき流れだと私は思うのですが・・・。
(このことについて、改めて論考してみたいと思います)
途中からだったのですが、4人が先頭集団を作っていました。
その4人は、日本選手2人とカタール、バーレーンの選手の4人でした。
「中東の選手も長距離が強くなったんだなぁ」と思いながら見ていました。
ところが実況を聞いているうちに、中東の2選手とは、いずれもアフリカ生まれ、アフリカ育ちの選手だということが判りました。
なんだか鼻白む思いがすると同時に、空しさのようなものが私を覆いました。
アジア大会は、アジアに生まれ、アジアに生きている人たちの大会だと思っていたのですが、もはやそうではなくなってきたということなのでしょうか。
ワールドカップの時に、早晩ワールドカップも 「国 対 国」の戦いという図式が薄れてくると私は指摘しましたが、もはやあらゆる分野で(スポーツに限らず)ボーダーレス化が進んでいるということなのかもしれません。
論は少し飛躍しますが、こうしたことは国という概念が溶解しつつあるということなのでしょうか。
そうなのだとしたら歓迎すべき流れだと私は思うのですが・・・。
(このことについて、改めて論考してみたいと思います)