なぜ「そらちフットパスウォーク」にこだわるのか? ただそのマチを歩くために…。自分の中でも説明がつかなかったその疑問に、今回北空知のマチを歩くうちにおぼろげながら答えの輪郭のようなものが浮かんできたのだった…。
私は歩く…。たった一枚のマップを片手に。
私は歩く…。初めてのマチを。
私は歩く…。このマチはどんなマチなんだろうか?と…。
沼田町を歩いたときだった。
マップに次のような説明があった。
「道路右手の1本だけある大きな木を過ぎ、少し歩くとT字路があるので右折します」
私はこの説明を頼りに、右折する箇所を探す。大きな木とは、どの木だろうか?
木はたくさん目に入るが、どうも説明の木とは違うようだ、と思いながら前に歩を進めると、遠くに1本だけで立っている木が目に入った。「おそらくこの木だろう」と判断した。するとその木のすぐそばがT字路になっていて右折する道路がある。「う~ん。この路かなあ?」と悩んでいたら、幸い人が通りかかったので聞いてみると、要領を得ないのだが、どうやらもう少し先にもT字路があるらしい。半信半疑で歩くこと150~60m、そのT字路はあった。「少し歩く」とは150~60mのことか…。
初めてのマチをマップ一枚で歩くとは、こうしたことの連続なのだ。
つまり、新しいマチに出会えるというワクワク感と、はたして進む道を間違えていないだろうかというドキドキ感をいつも感じながら、私はそらちフットパスウォークを楽しんでいる。
そして私は気付いたのだ。
「あゝ、自分は若き日の体験を追体験しようとしているのではないか」と…。
若き日の体験とは…。いつも私のブログに目を通している方には言わずもがなのことなのだが、今から45年前、私はヨーロッパ・中近東・アジアの国々をおよそ一年かけて彷徨して歩いたという経験がある。
リュックを背負い、最も安価な旅の手段を選択しながらの旅だった。それは毎日毎日がワクワク、ドキドキの連続だった。そうした旅は自分が思い描いたように進むはずはなく、遭遇した事態にどう対処するのが最善なのかという判断をいつも迫られる旅でもあった。
旅を無事終えて日本に帰り着いたとき、私は大きな充足感に満たされた。
そうした私の体験(充足感)が長い間私の中で眠っていて、自由な身となった今目覚めたのではないか。再びあの頃の快感を得たいと…。
若き日の体験と比べると、あまりにもちっぽけな追体験ではあるが…。
そう考えると、私の沖縄・八重山諸島の旅も、今春のニュージーランドへの旅も、さらには私が好む単独登山も、同一線上のものになってくる。
単なるウォーキングではなく、単なる旅ではなく、単なる登山ではなく…。
そこに若き日に体験したワクワク感とドキドキ感が介在していることを私は求めていたのではないか、と北空知のフットパスウォークをしながら気付いたのだった…。
私は歩く…。たった一枚のマップを片手に。
私は歩く…。初めてのマチを。
私は歩く…。このマチはどんなマチなんだろうか?と…。
沼田町を歩いたときだった。
マップに次のような説明があった。
「道路右手の1本だけある大きな木を過ぎ、少し歩くとT字路があるので右折します」
私はこの説明を頼りに、右折する箇所を探す。大きな木とは、どの木だろうか?
木はたくさん目に入るが、どうも説明の木とは違うようだ、と思いながら前に歩を進めると、遠くに1本だけで立っている木が目に入った。「おそらくこの木だろう」と判断した。するとその木のすぐそばがT字路になっていて右折する道路がある。「う~ん。この路かなあ?」と悩んでいたら、幸い人が通りかかったので聞いてみると、要領を得ないのだが、どうやらもう少し先にもT字路があるらしい。半信半疑で歩くこと150~60m、そのT字路はあった。「少し歩く」とは150~60mのことか…。
初めてのマチをマップ一枚で歩くとは、こうしたことの連続なのだ。
つまり、新しいマチに出会えるというワクワク感と、はたして進む道を間違えていないだろうかというドキドキ感をいつも感じながら、私はそらちフットパスウォークを楽しんでいる。
そして私は気付いたのだ。
「あゝ、自分は若き日の体験を追体験しようとしているのではないか」と…。
若き日の体験とは…。いつも私のブログに目を通している方には言わずもがなのことなのだが、今から45年前、私はヨーロッパ・中近東・アジアの国々をおよそ一年かけて彷徨して歩いたという経験がある。
リュックを背負い、最も安価な旅の手段を選択しながらの旅だった。それは毎日毎日がワクワク、ドキドキの連続だった。そうした旅は自分が思い描いたように進むはずはなく、遭遇した事態にどう対処するのが最善なのかという判断をいつも迫られる旅でもあった。
旅を無事終えて日本に帰り着いたとき、私は大きな充足感に満たされた。
そうした私の体験(充足感)が長い間私の中で眠っていて、自由な身となった今目覚めたのではないか。再びあの頃の快感を得たいと…。
若き日の体験と比べると、あまりにもちっぽけな追体験ではあるが…。
そう考えると、私の沖縄・八重山諸島の旅も、今春のニュージーランドへの旅も、さらには私が好む単独登山も、同一線上のものになってくる。
単なるウォーキングではなく、単なる旅ではなく、単なる登山ではなく…。
そこに若き日に体験したワクワク感とドキドキ感が介在していることを私は求めていたのではないか、と北空知のフットパスウォークをしながら気付いたのだった…。