講師曰く、屯田兵には単なる「屯田兵」と「屯田憲兵」なるものがあった。曰く、屯田兵村には「密居制兵村」と「散居制兵村」があった。等々、屯田兵についての新しい知見を得ることができた有意義なワークショップだった。
本日午後、白石区民センターにおいて「北海道開拓倶楽部」なる団体が主催する「北海道開拓の真実 私たちはどこから来たのか?」と題する公開ワークショップが開催され参加してきた。
私が参加した理由は、ワークショップの一つとして屯田兵研究家と称する有馬尚経氏が「屯田兵と北海道」と題してスピーチすることを知ったからである。私が所属するシニアの生涯学習グループ「めだかの学校」では、今年度上半期の学習として野外講座「さっぽろの古を訪ねて 第三弾 北の守りと開拓を担った屯田兵の史跡を辿る」の開催を計画している。その講座を企画運営する責任者として、屯田兵についてさまざまな文書にあたり一応の知識は得たと思いながらも、責任者としてさらなる知見を得ることはプラスになることこそあれ、マイナスになることはないと考え参加したのだ。
※ 講師の有馬尚経氏です。
参加して初めて知ったことだが、講師の有馬氏は昨年「屯田兵とは何か その遺勲と変遷」と題して、研究の成果をまとめられた著書を上梓された本格的な屯田兵研究者だと知った。(その著書はもちろんその場で買い求めた)
※ 有馬氏の著書です。
氏のお話してくれたことは、前述したことの他、屯田兵制度が成立する前後の私が知り得なかった事実が語られた。その他、すでに私が知識として知り得ていたことも数多く述べられ、私たちは自信をもって講座を運営していく自信を得た思いだった。
また、太平洋戦争において軍神とも呼ばれた加藤隼戦闘隊長(加藤建夫)は、東旭川兵村の屯田兵だった加藤鉄蔵の息子だったという興味深い事実も話された。
結論としては、屯田兵は「ロシアなどの北方の脅威から北海道を防衛する軍隊」だったことと、「原野であった北海道を開拓して社会基盤をつくった日本の誇りともいえる人々」とまとめられたことは、私たちが設定した主題とそう変わらないことに安堵をおぼえた。
実は、ワークショップはもう一人のスピーカーである北海道開拓倶楽部の海堂拓己氏が「明治の開拓者精神とは」と題して話されたのだが、私が開始時間を誤って記憶していたため、前半を聞き逃してしまう失態を演じてしまった。氏の結論部分のみを伺ったのだが、氏の話で非常に興味深かったことは、「屯田兵としてではなく、民間の立場で北海道開拓に挑んだ人たちはけっして本州で貧しかったわけでなく、創業者精神でもって北海道の開拓に挑み、成功した人たちが北海道に残ったのであり、みなさんはその子孫である」と話されたことだ。そのことを海堂氏がまとめたものを紹介します。
※ 同じく講師を務めた海堂拓己氏です。
【地域の歴史から教わった開拓の真実】
◇私たちの祖先は創業ベンチャーだ。
◇私たちが今ここにいる。それは、祖先が北海道への定住に成功し、子孫を残したということ。
◇私たちは成功した創業ベンチャーの子孫だ。
◇私たちはどんな困難にも打ち克てる遺伝子を受け継いでいる。
祖先が北海道に入植したその子孫として、勇気を得る言葉だった…。さあ、私たちの野外講座の方も頑張ろう!
※ 会場に展示されていた軍服ですが、黒田清隆など高級武官が着ていたもののようです。