「共苦(ミットライデン)」という言葉を知った。主人公の鶴岡は戦争犯罪人を収容する巣鴨プリズンの刑務官として実直にその職務をまっとうした。しかし、彼の低意は常に「共苦」に苛まれたという。戦犯とは?東京裁判とは?架空の主人公・鶴岡の視点から吉村昭はこの問題に切り込んだ。
吉村昭は言う。「江戸時代末期を背景とした歴史小説の執筆が続いたので、別種の空気に触れる必要があると考えた」と…。そうしたときに吉村の中で水泡のように浮かび上がってきたのが、巣鴨プリズンに勤務していた日本人刑務官が、警備の米軍将校と収容されている戦犯との板ばさみで奇妙な時期を過ごしたという話が思い起こされたという。そこで吉村は小説の主人公に彼が創造した “鶴岡” という刑務官を登場させた。そして吉村は言う。「鶴岡以外は全てが事実であり、フィクションとしてはいささか変則かもしれない」と…。
鶴岡は兵役を務め、終戦と共に縁あって熊本刑務所に職を得た。ところがそれから5年後の昭和25年夏、戦犯を収容している巣鴨プリズンを警備していたGHQのアメリカ兵が朝鮮戦争のために大量に派兵され欠員ができたために転勤を命ぜられ巣鴨プリズン勤務となった。
巣鴨プリズンにはA、B、C級の戦犯が最も多い時期で2,100余名が収容されていた。A級とは平和に対する罪として、戦争の計画・準備、あるいはその共同謀議に関わった者たちを指した。B級はいわゆる戦争犯罪、C級は人道に対する罪に該当する者と分けられていた。
鶴岡らにはカービン銃が渡され、それを肩にかけての警備が始まった。その姿に戦犯たちは「同じ日本人のくせに、銃を手におれたちを監視するのか。その銃でおれたちを打つのか」と憎々しげに言う戦犯たちの声に彼ら日本人刑務官はGHQの管理下におかれている自分たちの立ち位置に苦しんだ。
吉村は戦争犯罪を裁くということの矛盾を次のように表現した。「戦勝国では敵国の将兵を多く殺害したことで英雄視され、敗戦国では逆に罪に問われている。戦争そのものが大きく常軌をはずれたもので、常識を基本に進行される裁判の枠の中にはめこもうとしても、その余地はない。戦争裁判は、裁判という形式をとりながらもあくまでも戦勝国の一方的な報復の性格をもつ」と…。
そうした中、巣鴨プリズンではA級戦犯だけでなく、B・C級戦犯も次々と処刑されていった。鶴岡が赴任した時にはA級戦犯7名は処刑されていたが、その後私が調べたところB・C級戦犯53名が処刑台に送られている。
鶴岡たちの職務はGHQに絶対忠誠が求められる任務の中、同胞たちを監視するという監視するという板挟みの中で悩みながら勤務が続いた。刑務官ではなかったが、絞首刑に使う絞首台を作成したということで精神の平静を保てなくなってしまった者もいた。
※ 著書の中にあった「巣鴨プリズン」の略図です。図の左上に「刑場」という文字が見えます。
自分の立場に悩みながらも鶴岡は与えられた任務を誠実にこなし、昭和27年「巣鴨プリズン」はその役割を終え、「巣鴨刑務所」に改編されてからも勤め上げ、さらには「小菅刑務所」に転任、ささやかな出世も果たし、60歳の定年を迎え無事に退職したのだった。
その後、鶴岡は元「巣鴨プリズン」に勤めた同僚との旧交を温める会に一度も出席しなかったばかりか、元「巣鴨プリズン」、その後の「東京拘置所」にも一度も足を運ばなかったという。
ここに吉村は静かに、そして婉曲的に、戦争というものの愚かさ、むなしさを表現しようとしたのではないだろうか? まさに鶴岡は「共苦(ミットライデン)」の中、彼の職業生活、いや一生を終えたと言えるのではないだろうか。
なお、著書名「プリズンの満月」は、彼が警邏中に見た満月を、戦犯たち収容者は獄の中からどのような気持ちでその満月を仰いだのだろうか、という思いを表したものだという。
この著が発刊されたのは平成10(1998)年である。