一昨日、東日本大震災から10回目の3.11を迎えた。その日、NHKが伝えた2本の特集番組を視聴した。BS1スペシャル「映像記録 東日本大震災 1年の苦闘」とNKKスペシャル「定点映像 10 年の記録~100ヵ所のカメラが映した復興」の2本である。映像を見ながら改めて3.11を考えてみた。
※ 掲載写真は全てテレビ画面を撮影したものです。
毎日しょうもないことを(これ方言?)書き綴っている拙ブログであるが、時には骨っぽいことも書かねばならないなぁ、と思っている。そう考えると、今が旬の話題はやはりコロナか大震災10年だろう。ということで、昨日録画しておいた10年目を迎えた3.11を特集した二つの番組を視聴した。
私が特に心が動いたのは BS1スペシャル「映像記録 東日本大震災 1年の苦闘」の方だった。番組が意図して編集したとは思わないが、被災した住民には二つの顔があったように思った。一つは岩手県の沿岸難民の方たち。そしてもう一つの顔は福島県の原発避難区域の住民たちの顔だった。
映像で見るかぎり、直接津波に襲われた沿岸の悲惨さは目を覆うばかりで諸兄の多くも記憶されていることと思う。一方、原発避難区域の方は一見何の被害も見当たらないような光景に映った。それなのに1年間の人々を追う中で、住民の表情には明らかな違いがあるように映った。
陸前高田市は津波で壊滅的な被害に襲われたにも関わらず、地域の伝統である「動く七夕まつり」の山車を2011年のその年に被害に遭わなかった山車1基で復活させ、10年後には10基までに復活させたという。
また、南三陸町でワカメ養殖を生業としていた漁業者たちは、行政に頼らず自分たちの手で海底を清掃し、いち早く養殖を再開させ、10年後の今は以前と変わらぬ生産量をあげるまでになったと伝えていた。両市町の住民の方々の表情には明るい前向きの表情が見られた。
※ 南三陸町の漁民の方々は従来の生業のワカメ養殖に精を出しています。
※ 陸前高田市で復活した「動く七夕つまり」の山車の様子です。
一方、原発避難地域(おそらく浪江町の方々だと思われるのだが)の若手経営者たちが集まって今後のことを話し合う場面があった。その場面では、誰もが見通しの立たない将来への不安を抱え、どうしたら良いのか不安やいらだちの表情を見せていたのが印象的だった。
※ 浪江町の住民だった若手経営者たちが今後のことについて話し合っているところです。
この二つの表情の違いが、今回の大震災の復興の難しさを象徴しているように私には思われた。片や津波で甚大な被害を被ったものの、これ以上の被害を被ることは当面は心配がなく、復興に向けて一路邁進することで道が開かれるという望みがもてる状況にある。それが彼らの表情を明るくしていると私には映った。
一方、原発避難地域の方は、汚染地域がいつ解除されるのか、解除されたとしても人々は戻ってくるのか、まったく見通しが立たない中におかれている。これでは不安やいらだちの思いにかられるのは無理のない話である。
ここからは私見であり反論も予想されるが、敢えて今回は述べさせてもらうことにする。
一言で言えば、津波の被害は天災であり、原発の被害は人災だったのではないか、ということである。そして私はこの二つを次のように規定したい。天災はある種防ぎようのないもの(いやいや備えさえ十分にしていればという意見もあるだろう)、一方人災は人が誤って起こしてしまったもの、と私は考えたい。
原発についてはさまざまな意見があることは承知している。そしてこれまで私たちは原発が産み出す電力によって豊かな生活を享受してきたという思いもある。しかし、私たちは福島原発の事故によって、原発がとても危険で、人間が制御できないものであることを私たちは知ってしまった。また、使用済み核燃料(核のゴミ)の最終処分地を巡る問題も一向に解決の糸口を見いだせずにいる現状である。
私は拙ブログにおいて、政治的意見と宗教的意見はご法度としてきた。しかし、原発問題はけっして政治的な問題ではなく地球を持続可能な星として在り続けるために、原発に頼ることは即刻止めるべきだと考えたい。
過日の新聞で脚本家の倉本聰氏は「僕らは好むと好まざるとにかかわらず、原発の恩恵に浴してきました。だから僕はこう考える。地下最終処分場の上に病院や介護施設を備えた『理想の楽園』を造ってもらい、僕らのような年寄りが 移り住むのです。ただし、原発の再稼働は嫌だ。今まで使った電力分の責任は持つけど、それ以上の責任は持てない」と…。私も倉本氏の意見に全く賛成である。