田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

富良野塾OBユニット演劇公演「エレベーターガール」

2023-02-20 14:13:07 | ステージ & エンターテイメント

 富良野塾OBユニットの4年ぶりの新作だという。さすがに鍛え抜かれたプロの演技に惹き込まれた。しかし、脚本が思わぬ展開を見せ始めたあたりから、旧弊にどっぷりと浸かっているお爺にはついていくのが大変な舞台でもあった…。

         

 2月18日(土)午後、かでるホールにおいて富良野塾OBユニットによる演劇「エレベーターガール ~ご希望の階には止まれません~」の公演があり、前回の4年前に札幌公演があった2019年1月の公演に続いて観賞することにした。

 富良野塾OBユニットとは、脚本家として著名な倉本聰氏が主宰する「富良野塾」を卒塾した有志と彼らに賛同する一部有志でもって構成し、富良野市を中心に活動しているグループである。

 今回の舞台「エレベーターガール」のストーリーは、40歳になろうしているバツイチの佐藤和代(栗栖綾濃)は、大宮に完成した高さ60階にもなる「大宮スカイタワー」のエレベーターガールとして勤務している。単調な仕事の中、和代は早くいい人を見つけて再婚したいと思いつつも、そうした機会に恵まれぬ日々を過ごしていた。そんなある日、勤務中に和代の乗ったエレベーターが急停止してしまい、和代の意識は遠のいてしまう。

   

 ここから舞台は急展開してゆく。なんと和代の高校生時代にタイムスリップしてしまう のだ。ところが和代の若い頃の恋愛遍歴はけっして甘酸っぱいものではなく、むしろ悲惨な出会いの連続だった…。あたりから私はどうもついていけなくなった。あれやこれやと様々なエピソードが飛び出すのだが…。

 「エレベーターガール」の原作は福島カツシゲさんというコメディアンということで、それらエピソードのあちこちに笑いを散りばめ、観客を笑いに誘ってはくれたのだが、私は今一つストーリーについていけなかったのが残念だった。

 脚本を書いた太田竜介さんは吐露する。「福島さんの原作を富良野塾OBユニットの舞台として脚色するのに苦労した」と…。

 結局、このストーリーの主題は、退屈なエレベーターガールとしての日々、そして過去の和代もけっして楽しく輝いていた青春ではなかったけれど(それがサブテーマの「ご希望の階には止まれません」が意味するところか?)、前向きに生きていくことでこれから未来に良いことがあると思って生きていくこと肝心ではないか、という人生応援歌とも取れる内容だったと私は理解した。

   

 ※ 演劇「谷は眠っていた」の時、倉本聰が問いかけた有名な詩を私は今も大切にしています。

 4年前にも触れたが、私は倉本聰の脚本による「谷は眠っていた」というあまりにも利便化しすぎたことで現代が失ったものに警鐘を鳴らした舞台に非常に感動した体験があった。そして今回の富良野塾OBユニットの舞台にも、どこかでそれに類することを期待していた私がいた。しかし、それは叶わなかった。というより、それを望む方に無理があったのかもしれない。ただ、倉本氏があれから時代を経た今においてもその警鐘を鳴らし続けていることをOBの方々もどこかで意識され、そのことを継承していってほしいとも思いたい。何時の日かの富良野塾OBユニットの舞台でそのことが実現することを期待したいのだが…。



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2 コメント

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私の倉本聰氏に敬愛している理由は・・。 (夢逢人)
2023-02-20 21:24:02
今回、貴兄は富良野塾OBユニットによる
演劇「エレベーターガール ~ご希望の階には止まれません~」の公演をされ、
私は残念ながら、倉本聰氏の演劇は鑑賞したことがありません。

貴兄の後半に於いて、『谷は眠っていた』に記載されていましたので、
私も過ぎしに倉本聰氏の随筆の『谷は眠っていた~富良野塾の記録~』を読み、
感動と思想を深く学びんだ一人です。

過ぎし、2010年3月中旬に於いて、投稿した一部です。

《・・ 投稿文を書き途中も幾度なく、未知の倉本聰氏に思いを重ね、
数多くのテレビのシナリオ、放送されたテレビの作品、映画の脚本、
作品に思いを重ねたりしたのである。

或いは随筆の数々を私が熱愛しながら読んだ時を思い浮かべたりした。

どなたでも作家の作品、シンガー・ソングライターの歌などで、偶然に接して、
突然に心がざわめき魅了され、無我夢中になることがある。
私も創作家の倉本聰氏を書物で偶然に知り、
その後にある時から魅了されて、夢中に過去の作品を読んだり、観たりしたひとりである。

このような思いは、あるサイトで2005(平成17)年5月3日に於いて、
【倉本 聰さま、人の心を洗うもの・・♪】と題して投稿していたので、
この当時の私の心情を思い返して、再読したりしたのである。

【・・   第一章

読売新聞の朝刊の特集のひとつとして、【時代の証言者】というコーナーがある。

本日まで、脚本家・倉本聰氏の連載が続いていた・・。

すべて読んだかといえば、欠落した日もあったかも知れないが、
以前、『愚者の旅~わがドラマ放浪~』(理論社)が2002(平成14)年1月に発売されたのを読了していたので、
この内容を新聞読者に解り易く脚色している、と読み続けていた。

今回の最終回に於いて、私が気付かなかった点も含め、このブログの読んで下さる方に知って欲しく綴る。

《・・昔は原作者の小説家に比べて、脚本家の地位は低く、
新聞のテレビ欄にも名前が載らなかった。
向田邦子、山田太一さんはそんな現実に憤り、ともに戦った《戦友》です。

僕らが愛し、懸命に作ってきたドラマの水準は落ちている。
今の制作現場は、多くの先輩が培ってきた長所や技術を継承せず、
自分たちの流儀でよしとしているからね。
最も問題なのは、作り手のサラリーマン化です。

視聴者の好みに合わせて視聴率を取り、局内で出世したいんでしょうか。
放送後は視聴率の話ばかりで、むなしくなります。

テレビは卑しい方へ、卑しい方へと向かっているように思える。
朝から人のうわさ話に席巻されている。
北海道・富良野の子供からも、テレビが流す品のない言葉を聞くと、たまらないですよ。

連続ドラマ『北の国から』が放送された時、
富良野塾の塾生たちはまだ生まれていません。
彼らがいま見られるのはビデオのお陰だけれど、罪もある。

テレビが一家に1台の時代は、多くの人が同時に共感できました。
1人1台に変わったうえ、VTRの浸透によって、一諸に感動が味わえなくなった。

僕が塾生と芝居作りに力を入れてきたのは、客席と感動を共有できるからです。

    略

ドラマは人の心を洗うものだと思う。
自分では「洗濯屋のオヤジ」と称しています。
表面だけでなく、心の奥まできれいにしたかどうか常に自問しながら、これからも作り続けますよ。・・》

このように綴られている。
注)記事の原文を勝手ながら、改行を多くした。


私は以前、ライブドアとフジテレビが騒がれていた頃に、
テレビ局がある程度淘汰されても良い、と綴っている。

程度の低いドラマ、笑い番組が余りに多かったからであり、電波の無駄遣い、とかねがね思っていた。

日本の大衆文化は、程度の低い方に確実に流れていると思ったからである。

従って私は、殆んど民間放送のテレビは、ここ10年前後は視ることが少なくなった。

次章は数多くの創作者の中で、なぜ私が倉本聰氏に敬愛したかを綴る。


     第二章

私が倉本聰氏の作品に初めて触れたのは、1975(昭和50)年1月過ぎであった。

映画の脚本家・橋本忍(はしもと・しのぶ)氏の『砂の器』のシナリオが読みたくて、
本屋で雑誌の『シナリオ』(シナリオ作家協会)の1月号を買い求めた。

その中に、東芝日曜劇場の『りんりんと』のシナリオがあった。
なんてシリアスなドラマを書く人、と倉本聰氏の作品に初めて知り、印象が残った。

この雑誌には、『テレビ事件簿』の特集があり、
倉本聰氏が『テレビドラマに思うこと』を寄稿していた。

《・・テレビは一回しか放映されない。

3年間暖め、大事に大事に育てて来たものでも、
たった1回、1時間に燃え、もうそれきりで消えてしまう。

そのはかなさが、僕は好きである。

しかしそのはかなさを空しく感じてか、
優れたテレビの作家たちが、次々と別世界へ去っていってしまう。

田村孟氏然り、井上ひさし氏然り、藤本義一氏然り。

せめてシナリオ誌上だけでも、
テレビシナリオをもっと優遇してやっていただきたい。

それだけに賭けている者達の為に。・・》

と綴られていたのが、いまだに私の脳裏に残っている。

この1975(昭和50)年のシナリオを読んだ後、倉本聰氏の作品に関しては、
私にとって1989(平成元)年の頃まで空白の時となった。


     第三章

1989(平成元)年の初め、昭和天皇が崩御された頃は、
私はコンピューターの専任者だったので、仕事で忙しかった。

昭和から平成と年号の変換、4月より消費税の対応で睡眠時間を削って働いた。

1月の日曜日の夕方、疲れきった私はパジャマ姿で家内が買物に行くのを見送った。

お茶を淹れた後、ラジカセにカセット・テープをセットした。
そして人の尊厳を問うかのように、流れ聴こえてきた・・。


♪エレーン 生きていてもいいですかと誰も問いたい

【『エレーン』 作詞・作曲・唄 中島みゆき】


私は目頭が熱くなり、涙があふれ出た・・。


このカセットは、私の勤務する会社から発売されていたので、
以前に試聴用として頂いたのを、たまたま初めて聴いた訳であった。

倉本聰・監督・脚本の『時計』オリジナル・サウンドトラックである。

この映画に使用された音楽は、

金子由香利の『時は過ぎてゆく』、

五輪真弓の『恋人よ』、

中島みゆきの『エレーン』、

浜田麻里の『ハート・ライン』、

高橋真梨子の『モノローグの九月』、

北原ミレイの『石狩挽歌』、

森昌子の『越冬つばめ』

等であった。

このように各レコード会社の有数な歌手を使用したのて、発売先の会社が問題があったが、
テーマ曲が金子由香利であったので、私の勤務先の会社で決まった、と上司から聞いている。

中島みゆきを知ったのは、この曲からである。

勤務先の関係より、中島みゆきの名と曲ぐらいは、当然知っていたが、
心の中に溶け込んできたのは、この『エレーン』をきっかけとなった。


私は今でも、人生のめぐり合わせ、改めて不思議な作用だ、と思ったりしていた。

私は偶然に、この『時計』が金子由香利の曲をテーマに選定した倉本聰氏のお陰で、
私は中島みゆきを識り得たからである。

この後、倉本聰氏のシナリオ、随筆・映画と、中島みゆきの音楽と、
私のお2人に対する熱中時代が、少なくとも1993(平成5)年まで続くのである・・。


     第四章

店頭に行き、倉本聰氏の本を探し始めたのは、1989(平成元)年の春だった。

随筆の『北の人名禄』、『冬眠の森~北の人名禄 Ⅱ~』を購入した後、
『谷は眠っていた~富良野塾の記録~』、『ニングル』を入手にした。
そして古本屋で、『さらばテレビジョン』、『新テレビ事情』、『新・新テレビ事情』等であった。

シナリオとして、『北の国から』。

そして映画としては、
『冬の華』、『駅~STATION~』のビデオを観たした。

1990(平成2)年以降は、すべてリアルタイムであり、新刊本が揃っていった。
そして、私の本棚には、34冊の本がある。

この中で映画に関しては、私の拙い鑑賞暦に於いて、少なくとも洋画は5000作品、
邦画は3000作品あるが、邦画のベストワンは『駅~STATION~』を選定している。



このような結果、私は倉本聰氏からは、
生活信条、創作の考え方、環境問題等で、多大なご教示を頂いている。

何はともあれ数多い創作家の中で、私が敬愛する10人の中のひとりある。
・・》

このように私が定年退職した2004(平成16)年の秋、偶然にブログの世界を知り、
翌年の2005(平成17)年5月に、不慣れで幼い綴りで投稿していたのである。

長々と倉本聰氏に関して、あれから書物が発刊されるたびに、
私の購読しているひとりです。
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夢逢人さんへ (田舎おじさん)
2023-02-21 20:04:40
 非常に長文のコメントをいただき恐縮しています。
 若い頃シナリオ作家を目指された夢逢人さんにとって倉本聰氏はある種の憧れであり、尊敬する存在だったことが2005年当時に投稿された文章を読ませていただき、痛いほど感ずることができました。
 倉本氏はテレビ業界おけるシナリオ作家でありながら、けっして世相の流れや業界に迎合することなく、己の考えを曲げることなく骨太に生きてきた人でした。そのことが、東京を離れて富良野に永住することの遠因とも言われています。
 私は夢逢人さんほど倉本氏の著書に触れてはいませんが、倉本氏が北海道に住まわれていることも手伝い、これまで確か3度ほど氏のお話を直接うかがう機会がありました。その際にも、氏は日本の、あるいは日本人の軽薄さを嘆き、骨太の論を展開されるのがとても印象的であり、私自身も感ずるところがありました。
 倉本氏は老いてもますます盛んでTVドラマ「やすらぎの郷」では一味も二味も違ったドラマを提供され、ドラマ嫌いの私が一度も逃さずに視聴したものです。また最近では文藝春秋誌に「老人よ、電気を消して『貧幸』に戻ろう!」を著して大反響を呼んだりとまだまだ意気軒高です。
 できればお元気なうちに富良野塾OBユニットの面々にも“喝" を入れていただき、骨っぽい舞台を見せていただきたいものと願い、あのような投稿となりました。
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