えっ?南区の面積は、東京24区の面積より広いって!?札幌の街が微妙に碁盤の目の形がズレているのは、黒田清隆と岩村通俊の仲が悪かったから?などなど、次から次へと札幌のトリビアが開陳され、楽しくお話を伺った。
昨日午後、道立道民活動センター(かでる2・7)において「ほっかいどう学かでる講座」が開講されたので受講した。
今回は、街歩き研究家として活躍されている和田哲氏が「ぶらり新発見~さっぽろの街並みから~」と題してお話された。
和田氏が開陳されたテーマは、◆南区の広大さ、◆札幌の条・丁目、◆北海道の三大名橋、◆札幌市電、◆定山渓鉄道、◆中島スポーツセンター、◆アンパン道路、◆悲しみの盤渓、と多岐にわたった。
和田氏はこれだけのテーマをテンポよく、次々とお話されるのでメモすることもできなかったのだが、記憶を頼りにその一片を書き起こしてみる。
※ 講演をされる街歩き研究家の和田哲氏です。
まず南区の広大さであるが、南区の面積は札幌10区全体の60数パーセントを占めているそうだ。そしてその広さは前述したように東京23区より広いそうだ。
次に、札幌の街は碁盤の目状に道路が走っているとよく言われているが、詳細に見てみると、山鼻地区から中心街へ向かう際、微妙に道路が屈曲している。これは札幌の中心街が当時の札幌の街を貫いていた「大友堀(現在の創成川)」を中心に区角割をしたのに対して、山鼻地区は屯田兵村として造られた街区で、こちらは独自に磁石の真北を基準に区角割をしたことでズレが生じたそうだ。このことを和田氏は、当時の開拓判官(2代目)だった岩村通俊が札幌の街の区角割を主導したのに対して、屯田兵制度を創設してその責任者でもあった黒田清隆は、岩村との仲が悪かったことから、岩村主導の街づくり準ずることなく独自山鼻地区の区角割をしたのではないか、と和田氏は述べられたが、まあこの説は巷に語られた俗説を紹介されたものと受け止めたい。
※ 旧札幌区と旧山鼻村の接点のところから微妙に道路が屈曲しているのがおわかりでしょうか?
なお、札幌の条・丁目に関して、その面積の最小、最大の条・丁目についても紹介された。それによると最小のところは「南10条西2丁目」で人口はゼロである。対する最大のところは「北16条西16丁目」で「札幌競馬場」がすっぽりと入るそうだ。
続いて札幌の交通の要衝の一つ国道36号線に架かる「豊平橋」は以前(大正から昭和年代にかけて)北海道の「三大名橋」と呼ばれていた時期があったそうだ。その「三大名橋」とは、旭川市の「旭橋」、釧路市の「幣舞橋」、そして札幌市の「豊平橋」だったそうだ。しかし、現在の「豊平橋」はいたって平凡な形状であり、名橋とは言い難い橋である。ところが大正13年に「土木工学の父」とも謳われた廣井勇氏の指導で完成された二連のアーチで繋ぐ橋は、まさに名橋に値する橋だったと云われているそうだ。
※ 何の変哲もない現代の豊平橋です。
※ 大正13年、廣井氏の指導で完成した豊平橋の渡り初めの様子です。
次は「札幌市電」についてである。札幌市電は、それまで市内は馬車鉄道が走っていたそうだが、1908(大正7)年、開道50周年を記念して博覧会が開催されたのを機に、札幌電気軌道として開業されたのが始まりだそうだ。その際に札幌としては軌道を走る電車を探していた時、名古屋電気鉄道から中古の電車24両を提供してくれる申し入れがあり、無事に札幌市内を電車が走ることになったそうだ。
名古屋との関りはそれで終わらず、今度は反対に名古屋電気鉄道の子会社(何という会社名だったかは不明)が中古の電車を探していた際、今度は札幌から名古屋へ中古の電車を譲ることになったという後日談も紹介された。
おーっと、こうして和田氏から伺った話を紹介していくと、まだまだ続くことになってしまう。今夜の私の体力はこの辺りが限界である。和田氏から伺ったトリビアはいつの日かまた紹介させていただくことにして、今夜はこの辺にしておきます。
私は和田氏のお話を聴いたのは確か4回目のはずであるが、いつ聴いても和田氏のお話は氏のお話上手もあり、毎回楽しませてもらっている。次もまたどこかで氏のお話を伺いたいと思っている。
※ 文中で使用している「トリビア」とは、昔の人気テレビ番組を想い出して使ってみたのだが、その意味は「どうでも良いこと」、「取るに足らないこと」だそうだ。しかし、私はそういう意味ではなく「へぇ~、そうだったんだ」、「そんな事実が隠されていたんだ」という意味合いで使用した。和田氏のお話をお聴きしていると、和田氏は実に詳細に調べ、時には電車の件ではわざわざ名古屋にまで出かけるなど、非常に説得力のあるお話をいつも聴かせていただいている。