リアリズムの巨匠として名高い野田弘志展(「野田弘志-真理のリアリズム」)が芸術の森美術館で早くから開催されていたが、ギャラリーツアーがある本日まで待って待望の観覧をした。素人でもその素晴らしさが理解できる超写実的な絵画は息を呑むほどであった。
本日(7日)午後2時から、学芸員による「野田弘志展」のギャラリーツアーがあると知って「札幌芸術の森美術館」に駆け付けた。会期末(1月15日)が近づいているからだろうか?次から次へと観覧客が押し寄せてくる状況だった。
※ 札幌芸術の森美術館のエントランスです。入口横には野田作品の「カワセミ」が展示されています。
私は午後1時過ぎに美術館についたので、ギャラリーツアーの前に展示をざっと一回りして見た。その際に、野田作品を解説する動画も映写されていたのでそれを視聴してギャラリーツアーに備えた。
午後2時、芸術の森美術館の学芸員・橋本柚香氏によるギャラ―リーツアーが始まった。橋本氏は野田氏がおおよそ10年毎にその作風に変化してきた順に6章に分けて展示されているのに従って解説を進めてくれた。
※ ギャラリーツアーのスタートの様子です。参加者は意外に少なかったですね。
第1章は、「黎明」と題され、野田氏の高校~大学~イラストレーターとして活動していた時代の作品である。しかし、この時代は「白い風景」に代表されるように抽象画の作品も目立っていたが、さまざまな画法を試した時代でもあったようだ。したがって、彼の絵が信号のように変わることから “シグナルアート” とも呼ばれていたという。大学を卒業しイラストレーターとして依頼される仕事をこなす中で、写実的な画法も試みていて「パーゴルフ」という雑誌の表紙の絵などは当時のプロゴルファーがかなり写実的な描かれている。
第2章は、「写実の起点と静物画」と題され、学芸員の橋本氏によると「黒の時代」とも称されたという。この時期にはすでに野田氏の代表的な作品が数多く顔を出している。「ヤマセミ」、「石榴」、「黒い風景 其の参」など背景を黒く塗りつぶしているのが特徴である。
※ 黒い背景の「黒い背景 其の参」です。
第3章は、「挿絵芸術」と題して、朝日新聞に連載された小説「湿原」の挿絵が実に154点も展示されていた。それらは縦横10cm内外の小さな鉛筆画の作品だったが、実に繊細に描かれていた。ちなみに小説「湿原」は加賀乙彦によって1983~1985年まで1年半にわたって朝日新聞に連載された小説であるということだ。
※ 挿絵の一つ、眼を描いた鉛筆画です。
第4章は、「風景を描く」と題して、「摩周湖・霧」とか野付半島の「トドワラ」など北海道に題材をとった風景画を描きながら、そこに彼の後年のテーマとなる「生と死」を絵の中に表現している。
※ 風景画「トドワラ」です。緑が生、枯れた松が死を意味しているとのこと。
第5章は、「生と死を描く」と題して、とくに「TOKIJIKU(非時)」と題する動物などの骨を題材として描く作品が多くなっている。動物の骨を題材としたのは、生き物が生きた証として骨に着目したそうだ。
※ この章ではこうした動物の骨がたくさん展示されていました。
最後の第6章は、「存在の崇高を描く」と題して、「裸婦」や「抽象画」を数多く手がけている。「まるで写真のような絵」と称される野田弘志の絵であるが、彼は対象をただ写実的に描くだけではなく、「内面をも描きたい」との思いをもっていつも制作してきたという。
※ イスラエルのヴァイオリニストの肖像画を描いた「崇高なるもの」op.7です。
ギャラリートークの前に観た動画でも、「野田の絵は写真のように素晴らしい」という評に対して内心忸怩たる思いがあったようである。ヨーロッパにおいてはミケランジェロをはじめとして写実主義は美術の王道と評されるのに対して、日本では必ずしもそう評価されず抽象的な絵画が尊ばれる風潮に対して野田氏なりの思いがあるように私は受け取った。
ギャラリートークは野田弘志が時代と共に変容する姿を作品と共に辿るものだった。
最後に学芸員氏は野田の言葉として「生あるものは死すべき運命にある」という言葉を紹介して終わった。
※ 美術館のエントランスを入ったところに写真のようなポスターが掲示されていました。
冒頭にも触れたが、野田弘志の作品が非常に繊細な写実的な絵であることが、多くのファンを呼び込む要素となっていることは間違いではないと思われる。しかし、今回ギャラリートークで学芸員氏の話を伺い、動画で彼の思いを拝聴し、野田氏の作品の背景には深い思索とそこから発する精神性が潜んでいることを少なからず理解できたような気がした「野田弘志-真理のリアリズム」展だった。
※ 掲載した野田氏の作品は全てウェブ上から拝借したものであることをお断りしておきます。