鮎と戯れて・・・魚族に感謝

東北地方を中心とした短い夏のあまり多くない鮎釣りの記録。家族に感謝して。近くの広瀬川の環境等にも拘るも、オフは時事問題も

雪が深々と降っています、・・・

2012-03-02 21:12:47 | お知らせ

 きのうは最高気温が10.8度にも昇り、春を感じさせる陽気だったのですが、きょうは一転、午前中は曇り空、午後から予報どおり雪が降ってきました。

 雪は物音を吸収してくれます。風はありません。まっすぐ降りてきます。水分の多い雪です。 春の淡雪といえるようなものではないようです。 深夜まで降り続くようで、結構積もるのではないでしょうか。

 あしたは土曜日。学校は休み。 ということは、そうです、河原で親子での雪との戯れがたくさん見られるのではないかと思います。 この前の大雪で河原では雪だるまやかまくらが造られましたが、今回も造られるのではないかと楽しみです。 何しろ水分が多い雪なので、すぐに大きな塊を作ることができます。

 以下の3枚の写真はきのうの午後撮影した河原の雪の塊です。 雪だるまやかまくら、滑り台として固められたところ以外の雪はきれいに消え去っています。

 

         

 

 きょう午後からの雪はこれらの上にも降り積もっているわけですので、また雪の塊をつくってこれらのところに集められ、さらに大きな塊となっているのかもしれません。

 

 きょうコタツに入っていて、切り抜いていた新聞の整理をしてみました。その中にこんな新聞の切抜きが見つかりました。

 ピンボケとなっています(すみません)が、2007年(H19年)7月16日の朝日新聞です。

        

 『50年前、「原子の火」ともる』 『40センチの炉、産業の礎に』

 1957年8月27日に初めて原子の火がともされたという記事です。記事の前文に曰く、””日本初の「原子の火」から、今年でちょうど50年。その火をともしたのは、唯一の被爆国の研究者として原子力平和利用の未来を信じ、現在の技術や産業の礎を築いた男たちだった。””と。

 茨城県東海村にある日本原子力研究開発機構の東海研究開発センター原子力科学研究所の原子炉JRR1で行われました。

 記事によると、アイゼンハワー米大統領が1953年12月に行った演説により、ウランを貸し出すことにしたそうで、それを受けて「日本でもようやく研究ができる」と原子核物理学者の伏見康治(大阪大学)が日本学術会議で、研究推進の基礎調査を提案するも、若手研究者から「科学技術が戦争に利用されてはならない」ということで猛反発をくらったとのこと。

 しかし、ときの改進党の衆議院議員中曽根康弘らが、1954年原子炉製造のための修正予算案を提出して承認されたので、伏見康治は原子力の平和利用のための「原子力憲章」(民主・自主・公開の原則)を作成し、その原則は原子力基本法に生きている。

 JRR1の運転開始は、1957年。原子炉はわずか直径40センチの球形のもので、それに借用した濃縮ウラン溶液を注入して、湯沸し型の原子炉が作動したが、熱出力はわずか50キロワットだったそうです。

 1968年に運転終了となるまで、総運転時間8043時間。 619件の実験を行い、1944人の技術者を養成した。高速増殖炉や核融合など原子力研究で中核となる人材を育てた。

 「あそこで学んだ技術者らにより、技術基盤が日本に生まれた。60年代末から本格化する安全研究の下地になった」(後の原子力安全委員長佐藤一男)

 「原発は少数の者が動かしているが、実は社会の大きな仕組みの中にある。当時の技術者はそれを自覚し、原子力の持つ内在的な危険性に畏敬の念をもって接してきた」(伏見康治)

 「だが、原発が生活の一部になり、慣れっこになっていないか。怖いものだという感覚がなくなってしまう。それが一番怖い」(伏見康治)

 

 その一番怖いことが、一年前に現実のものとなってしまいました。

 

 雪は止みません。全てのものを包み込むかのようにおとなしく、つめたく、ふところ深く降っています。 このまま原子力の火を消してくれればいいのですが・・・・。

 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする