それにしても、現在の日本の豚インフルエンザの騒ぎようというか怖がりようは尋常ではありません。いい加減にしろと言いたい。最初のマスゾエ厚生労働大臣のハシャギようがまともではなかった。
マスクが売り切れ続出で手に入らないというではありませんか。不幸にして感染してしまった高校生に対しては嫌がらせや攻撃がブログ等で行われているとか。どんな責任があるというのですか。世も末というべきか。
この国では、毎年10年以上にもわたって自殺者が3万人を超えていてもさっぱり大きな社会問題とはならない異常さ。いまや、国際的には「豚インフルエンザ」は「日本インフルエンザ」(Japan Ful)に呼称変更とか。こうなればこれからも日本人は世界に恥を晒して、二次的なパニックを引き起こしてニュースを提供し、日本人の特殊性をアピールしようではありませんか。こんな国民性だから、いつまで経っても小泉をもてはやし、自公政権をいつまでも存続させているのでしょう。懲りない面々です。
ところで、昨日からですか、裁判員制度が施行されました。マスコミでは裁判員制度についていろいろ論評していますが、ある雑誌(「冤罪File」 No,06)では5人の模擬裁判体験者が赤裸々に、正直に発言している座談会の模様が掲載されていました。22ページにもわたるもので、いろいろ参考になります。なるほど、なるほどと感心しながら読んでいったのですが、改めて裁判員制度はどんなものか一人一人が真剣に考えてみる必要があるのではないでしょうか。
22ページにもわたるものを簡潔にまとめてお知らせすることは出来ませんので、鋭い指摘かなと思われるところをご紹介したいと思います。
「検察官の立証が十分か否かを検証するのであって、検察官と弁護人の言うことを天秤にかけてどっちが信用性が高いかを判断するものではない。」「検察官の主張に対してそれが合理的かどうかを判断する」
手渡された文書には、「”疑わしきは被告人の利益に”とか、”疑わしきは罰せず”いうことは書かれてはいない。」
「最初から最後まで急かされている感じはつきまといました。」
「調書など文書になった証拠は、私たちの手元には一切来ませんでした。」「自分でメモをとれと言われましたが、それどころではなく、結局評議の時に役に立つようなメモはとれませんでした。」
「公判速記禄がすぐに読めて、自分が聞き逃がしたり記憶がはっきりしなかった点を確認できればいいと思うのですが、それができないので、・・・・、曖昧な部分が残ったまま評議が進行していくことになり、不安が残るし、後悔にもつながります。」
「評議の場で・・・意見が分かれると、いつも裁判官が最後に自分のメモを見て『そのときは、高校でしたよね』と一言いったら、もう誰も反論しない。」「裁判官の記憶が一番正しいとは限りません。・・・。きちんと記録を当たって確認できなければおかしい」
「裁判所は、裁判員は何も知らない素人でいいですよ、と言います。しかし、それは絶対違います。最低限、裁判の流れ・・・が分かっていないと、今法廷で何をやっているのかさっぱり分からない。」
「裁判長が、・・・、嘘だと言うのなら、嘘だと言える根拠が必要だと主張したのです。嘘をつく動機がなくても、人間って勘違いも見間違いもあるでしょう。」(”分からなければ被告人に有利に”と裁判員が考えたことに対して)
「裁判員に負担をかけないため、という名目で裁判官が持っている調書なども見せないし、評議の時間も十分でないというのは本末転倒だ」
「本当の裁判では評議は非公開だし、守秘義務もあるので、どんなことが行われても一切わからない。すごく恐ろしいことです。市民参加がアリバイに使われるのだけは嫌です。」
「(守秘義務があるが)どういう過程で結論に至ったかは話すべきだと思います。」
「少なくとも、世間の耳目を集めた事件の裁判員は記者会見くらいすべき」
「裁判官と市民の間にある圧倒的な情報量の差を感じた・・・・。予備知識一切なしで、不慣れな法廷の場に連れて行かれ、一字一句聞き漏らすまいとしても、無理です。」
「裁判人の負担は想像以上に大きいと実感しました。」
~みなさんはどう思いますか??
5月10日の朝日新聞で、弁護士の伊藤真は、「守秘義務」について、以下のように言っています。
「自分が評議で何を主張したか」を言ってはならないというのは、誰のためなのでしょうか。「裁判官が検証され、批判されるのを恐れている」と勘ぐられても仕方ありません。
裁判員制度の意義の一つは「権力の監視」にあるはずです。裁判員を裁判官に「お墨付き」を与える存在にしないためには、評議の内容は原則オープンにして、他の裁判員の氏名を明かすことなどを例外的に禁止すればいい。
~もっともな意見と思いますが、どうですか??