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鮎と戯れて・・・魚族に感謝

東北地方を中心とした短い夏のあまり多くない鮎釣りの記録。家族に感謝して。近くの広瀬川の環境等にも拘るも、オフは時事問題も

驚きの、大晦日

2015-12-31 14:27:19 | お知らせ

 青空に白い雲、快晴となっている2015年平成27年の大晦日(「うゐらう売り」では「おおつごもり」と読ませています。)です。 やはりいつもの風景から。

               午前10時20分頃です。

       

                         

 ここの風景にも毎日お世話になっています。

    

 そしてここに住むカモたちにも、話題を提供してもらっています。 またしてもいないと思っていたら、急に出てきて、少し下流に飛んで行ってまた着水し、どうしようか集まって話しているかのようです。

     

 結局本流の方へ飛んでいきました。

               

   

 今晩放送のNHKEテレ8時からの「N響 第9演奏会」が楽しみです(パーボ・ヤルビという指揮者、何でもいま世界で最も注目を浴びているとか)が、その前に私がいろいろと影響を受けた、思いでの深い今年の物故者の霊に心から哀悼を捧げたいと思います。 敬称:略

 奥平康弘(1月26日)  桂米朝(3月19日)  松下圭一(5月6日)  鶴見俊輔(7月20日)

 橘家円蔵(10月7日)  熊倉一雄(10月12日)  篠原 一(10月31日)  水木しげる(11月30日)

 野坂昭如(12月9日)  天界から警鐘を鳴らし続けてください。

        

 またNHKのテレビで恐縮です。会長は大嫌いですが、やはりいい番組はいいのです。同じくEテレ午前9時からの小学生による「なわとび王選手権2015」、これがとってもよかった。 子どもたちの一途な姿に感動しました。思わずもらい泣きしてしまいました。 

 なんでも”かっとび”というのですか、集団での縄跳びで、3ないし7人が横一列で一つの集団を形成し、その集団が何組も後に続いて縄を続けて跳んでいく、それも縄を回す二人の間を八の字になって跳んでいくというものです。

 1分間で何回跳び続けられるかを競うものですが、練習風景から本番まで、子どもたちが先生から言われたことはもとより、自主的に大きな声を出し続け、みんなの呼吸を統一して失敗しないように跳び続ける。その姿に感動しました。 とんだ回数に人数を掛けて計算するという方式もおもしろい。

 

 【ここから本題】

 いやあ、驚きました。 きのうのことですが、届いたのです、シマノから、2016年の鮎釣りのカタログが。 『鮎 入れ掛かりカタログ』 です。

     こういうカタログです。  

    目次、主な項目です。

 目新しいと思ったものを少し紹介します。まず竿から。

   激流ならぬ 激龍 です。

 「10号玉、立ち込み、返し抜き、かってない破格のパワー シマノ史上最強ロッド」謳っています。

 荒瀬と超硬の2種類で、長さは8.5メートルです。ただ、重さは「未定」です。どういうことなのでしょう、まだできてはいないということでしょうか。注文生産?

          

 こういう足下をサポートする靴下はいいかもしれません。

 

 ハリは新しく「早虎」が発売です。 ストレートなハリで早掛けタイプでしょうか。

    

 複合メタルも新しい METAKING が発売されました。 直線強力、結束強力が強いそうです。

                 

 最後はタモですが、ついにここまで来たか!という感じです。 「タモを挿しているのを忘れるほどの絶大効果」が期待されるそうです。

  

                             

 シマノの製品については、なぜか仙台ではほとんど店頭に並びません。タビやオトリ缶は別ですが、細かいもの(ハリとかラインとか)はほとんど並びません。 ようやく並んだと思ったら、もうシーズンはお仕舞とか、一年遅れとか、釣具店とメーカーとの関係駆け引きがあるのでしょうが、困ったものです。何とかならないものでしょうか。 というか、もしかしてメーカーとしてカタログに載せたものの、製作は注文があってからというシステムみたいなものがあるのでしょうか。 常日頃感じている疑問でした。

 

 いよいよ明日からこの2冊の マイブック・自分の本 の出番です。

 

 まあ何に使おうが自由勝手です。私は10余年、15年くらいになるか、使っています。生きた証し?として、生きるためには食べなければなりませんので、何を食べたか朝昼夕と三食を中心に書き留めています。

 それとなんというか生活短歌とでも言えるでしょうか、生活に即した短歌を一日二首書きなぐっています。上手い下手は全く関係なし、推敲もなし、読み直すこともなしという状況です。

                        

 お知らせです。昨日現在までのアクセス数です。 

 トータル閲覧数 PV ; 1,994,275

 トータル訪問者数 IP :  498,140   となっています。 

 今年一年いろいろありましたが、ありがとうございました。 みなさまにとって新年がいい年でありますように祈っております。

 来年もよろしくお願いいたします。

 それではよいお年をお迎えください。

  

 


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あと1日と9時間、だから水族館

2015-12-30 15:06:58 | お知らせ

 いよいよ今年もお仕舞ですね。 午前中松飾をいつものところに取り付けました。 新鮮な青々とした松で、手に取ると気持ちがいいものです。

 広瀬川の方は年末や年始には関係なく、いつも通り悠々(というには小さい川ですが)と何ごともなかったかの如くに、9月の大増水なんかまったく知りませんでしたかのように流れています。だからいいのですね、川の流れは。 川の流れのように晩年を過ごせれば最高でしょうね。

         午前10時50分頃の撮影です。 一見すると雲がとっても多いように見えますが、この雲の上は青空でした。

 

                           

 毎度毎度の広瀬川分流の光景ですが、この二つの写真のあいだにはこういう物語がありました。

 

 分流の右岸の隅の方から子どものカモが2羽、出てこないで隠れていればいいのに、出てきました。例によって、何とか驚かせて飛び立つことのないように十分注意しながら分流の脇を歩くのですが、うまくいかないのですね、これが。

        

 飛び立たれてしまったのですが、20メートルくらい下流に着水しました。なんとか平穏に済まそうと努力したのですが、やはり無理でした。 別にカモの飛び立つ瞬間の写真を撮りたくていたわけではないのです。  まあおかげで自分としてはいい写真が撮れたと思っていますが・・・。

            

 きょうは川のそばまで来ている人はいませんでした。 きのうはおやこで”水切り”をしていたのですが。

 

 kokokarahondai;

 さてこれは何でしょうか? 

 ではこれはどうでしょうか?   

 みなさまお馴染みの″チンアナゴ”ですね。 本当に愛くるしい姿形で、所作もかわいいいとしかいいようがありません。

  ちょっとピンボケですが。

 問題は?これです。 何とも奇妙です。 逆さまになって泳いでいます。

      

 はじめて見たし、聞いた感じですが、説明版では ”へコアユ” というそうです。 まあたまたまアユという名前がついたのでしょうが、でもアユという名前がつけば嬉しいし、愛着もわくというものではないでしょうか。

 へコアユとチンアナゴは共生しています。

           

 では、これは何でしょうか? なかなか写真に撮るのが難しかったです。 だからピンボケも入っています。

 

                

 2枚ともピンボケですね。 手足の長いキリンの子ども? 小鹿?そんなはずはありませんよね、水族館といっているのに。 でも鳥類や爬虫類もいるから・・・・。

 そうです、シードラゴン、正しくはウイーデイドラゴン(タツノオトシゴ)ですね。自然界は何とも不思議なものです。

 

 きょうもNHKBS1スペシャルを見てしまいました。 『戦争を知らない子どもたちへ』 ということで沖縄戦での子どもたちの特設部隊のドキュメンタリーでした。 

 沖縄の中学校や女学校の生徒たちによる部隊、ひめゆり部隊や鉄血勤皇隊の話しは当然聞いていましたし、それなりに知っていたつもりですが、そのほかに 『護郷隊』(ごきょうたい) という17歳未満の子どもたちによる遊撃隊、ゲリラ隊があったのです。

 軍はまともに戦ってはとてもアメリカに勝てないからということで、子どもたちを利用したのです。 子どもたちなら沖縄の服装をしていればアメリカ軍に攻撃されないということで、一方では銃を持たせて戦闘行為をさせるとともに、一方では民間の子どもに成りすましてスパイ活動、情報活動にも従事させられていました。

 法令上は、「14歳以上でかつ自ら志願」ということだったようですが、実際は法令に違反して、辞退できなかったように仕向けられていたそうです。特攻隊と同じようなものでしょう。

 最初はその作戦はそれなりにうまく行っていたようですが、逆にそれがアメリカ軍内部に知れ渡ったことによって、誰が軍人で誰が民間人か分からなくなったわけですから、アメリカ軍は結果的に無差別攻撃をすることになって悲劇が繰り返されたようです。

 10キロの黄色火薬を持たされて戦車に突っ込む作戦をやらされていた人が言っていました。「心もマヒしてしまう。心配したり、考える余地も亡くなる。優しさも怖さも何もなくなる。 ”妄動” 状態。」と。次の言葉が強烈でした。「ただ、生まれなかったらなと思えばいい」

 野戦病院で足を負傷し動けなくなった友達は、土手に座らされて毛布を掛けられ軍医によって射殺されました。そのことを友達の家族に言っていいものかどうか、70年も悩み続け、この番組のインタビューの結果なのでしょうか、ようやく友達の10歳下の弟に、「第二護郷隊」の石碑の前で目撃した本当のことを話しました。 弟の方は負傷して戦死したと思っていました。

 『一体何のために戦ったのか』 『こんな子どもに人殺しをさせるなんて』 という重い言葉を噛みしめ続けたいです。

  だからということではないのですが、   買ってきました、この本。 買ったのはきのうです。 ここまではっきりと沖縄の心を言い続けている知事は珍しいのではないでしょうか。


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寒いけど、穏やかな年末で、

2015-12-29 16:17:05 | 広瀬川

 朝方の冷え込みが一段と厳しくなるにつれ、こちらの動きは鈍く、緩慢になります。 それではよくないとは知りつつも、外に出るのが億劫になってしまいます。 

            丁度12時頃の写真です。

  

                      

      

 というのもますます寒さに敏感となり、もう冷気を感じると体が震えてきます。 自分でもちょっと異常ではないか?とさえ思ってしまいます。 もしもですよ、変な想像ですけれど戦前にタイムスリップして、旧満州でソ連に降伏しシベリアへ連れて行かれたとしたら、まず真っ先に凍死してしまうことでしょう。いやその前に輸送列車の中で衰弱死かな・・・・。

 

 (広瀬川本流の右岸の岸壁はこのように凍結しています。)

          

   

 (下の写真の左側あたりでは大昔橇で遊んだ記憶があります。当時は子どもは風の子でした。)

             

 ということでこの頃は体は細身なのですが、着ぶくれになりつつあります。 まあこれも冬が過ぎ去るまで、寒ければ寒かったほど春の喜びが増すというものです。 昔の人々はよくぞ冬の寒さに耐えたものです。偉いです。(こんなことをいうとは本当に馬鹿ですねえ)

 

 そんな寒い中でもカモたちは元気でした。 見ていると元気なカモというか、若いカモなのか、流れに乗って下ったりして遊んでいるのですね。

 

                           

  

 

 今朝、NHKBS1「ヒロシマ 世界を変えたあの日」 と 「武士の娘」 を見てしまいました。ともに再放送かな。 「ヒロシマ・・・」の方はいろいろと初めて知ることが一杯ありました。 

 アメリカではいまでも主流となっている考え方でしょうが、原爆投下が戦争を早く終結させた、100万人のアメリカ兵の命が救われたという考えですが、それは原爆担当責任者だったグローブ少将が、自分の責任を問われかねない窮地に追い込まれつつあった時に考え出した二者択一の論理で原爆投下を正当化したものだと言います。つまり、100万人のアメリカ兵の犠牲か、もしくは原爆かという二者択一です。(何か小泉とか安倍の論理を思い出します)

 とくに絶句してしまったのが原爆孤児たちに関する証言です。 いつの戦争でも犠牲となるのは子どもです。疎開している間に原爆で両親を亡くしてしまった孤児は3000人くらいいたとか。 それでも最初のころは周辺の農家等の炊き出しで飢えを凌げたものの、冬になるともう駄目、飢え死にです。一番悲惨な状況です。

 それでも女の子はよかったとのこと、といっても飢え死にしなかった、しにくかったというだけですが、暴力団に一応は庇護されて、その後大きくなってから花街に売られていったといいます。どっちにしても悲惨この上ないです。

 炊き出しがあっても小さいこの順番になるともう食べるものが見当たらなくなり、そういう時どうしていたか、炊き出しの空っぽとなった鍋の底に自分のハンカチを浸したり、ハンカチで鍋の底を拭ってそれを吸っていたと言っていました。

 さらにもっとびっくりしたのは落ちている石を舐めるのだそうです。ひもじいから、なにか口の中に入っていないと不安で不安でしょうがない、だから石ころでも口の中に入っていれば安心できるのだということです。(江戸時代の大飢饉のときは農民は土を食べたということを思い出しました。土の方が石ころよりもましかも・・・)

 これがほんの70年前の出来事です。 亡くなってしまった野坂昭如の一番恐れていたこと、心配していたこと 『飢えた子どもの顔は見たくない』 というゆるぎのない信念で、戦後70年を生きてきてたくさんの傑作、貴重な小説や童話を書き残してくれました。でもまたしても歴史は繰り返そうとしているのかもと思われて仕方がありません。

 

 そうそうきのうの夜の立川談志のドラマ、正確には立川談春なのかな、またしても 嵐 の二宮和也が出ていました。 「母と暮らせば」という映画を見たばかりなので、ついつい興味をもってパソコンをいじりながらですが、見てしまいました。 結論から言うと見て良かったですね。

 まあよくもあの落語の口上を憶えたものです。 古典落語を一気呵成にまくしたてる、カムこともなく(撮影過程でカムことはあったでしょうし、何回もテストや本番を繰り返した結果でしょうが)聞く人を、見る人を引き付けるような演技を見せてくれました。 何かますます二宮が好きになってしまったようです。 これからは歌よりも演技の方に注目してみましょう。

 演劇というか役者はいいなあと思いますね。 実は、もう一年以上も前になりますが、私も劇団に入ってみようかなと思ったのです。 というのも、第九合唱の方を丸5年で一応卒業して、次は何をしたいかと考えた結果、こんどは演劇に挑戦してみようかなと思った次第です。

 それで在仙の劇団に照会したところ、まず直接練習の現場を見てくださいと言われていました。そのつもりでいたのですが、練習日のことやいろんな団体に所属してボランティアをやる羽目になってしまったために、会議や打ち合わせがいつ入るか分からないし、劇団員の人に迷惑をかけることになるなあと結局は見学もしませんでした。 

 劇団ならなにも役者ばかりでなく、裏方さんもたくさん必要ですし、事務方も必要かもしれません。いろんな人たちが集まっての劇団であり、公演なのですが、なんにしても合唱よりもひとり一人の責任が重くなりそうに感じ、ついつい躊躇してしまいました。

 でも、ネットで見つけた早口言葉の練習は、大したことはないのですがやっています。みなさnご存知ですか、『外郎(うゐらう)売り』 です。まあ読んでみると、読んでみるだけでもとっても面白いです。読んだ結果滑舌がよくなればこんなにいいことはありません。

 二代目 市川団十郎みたいになりたいですね、できれば。 以下に掲載しますので、興味のある方は是非とも挑戦してみてください。 ちょっと長いです。

 

うゐらう売り

拙者親方と申すは、お立ち合いの中に、ご存知のお方もござりましょうが、お江戸を発って二十里上方、相州小田原、一色町をお過ぎなされて、青物町を登りへお出でなさるれば、欄干橋虎屋藤右衛門、只今は剃髪いたして、円斎と名のりまする。

 元朝より大晦日(おおつごまり)まで、お手に入れまする此の薬は、昔、陳の国の唐人、外郎という人、わが朝へ来たり、帝へ参内の折から、此の薬を深く籠め置き、用ゆる時は一粒(いちりゅう)ずつ、冠(かんむり)のすき間より取り出す。

 依って其の名を帝より「頂透香」と賜る。即ち文字には、「いただき・すく・香(におい)」と書いて、「とうちんこう」と申す。

 只今は此の薬、殊の外世上に弘まり、ほうぼうに似看板を出だし、イヤ小田原の、灰俵の、さん俵の、炭俵のと、色々に申せども、平仮名を以て「うゐらう」と記せしは、親方円斎ばかり。

 もしやお立ち合いの中に、熱海か塔の沢へ湯治においでなさるるか、又は伊勢御参宮の折からは、必ず門ちがいなされまするな、お登りならば右の方、お下りなれば左側、八方が八つ棟、おもてが三つ棟玉堂造り、破風には菊に桐のとうの御紋を御赦免有って、系図正しき薬でござる。

 イヤ最前より家名の自慢ばかり申しても、御存知ない方には、正身(しょうしん)の胡椒の丸呑み、白河夜船、さらば一粒食べかけて、其の気味合いをお目にかけましょう。先ずこの薬を、かように一粒舌の上にのせまして腹内へ納めますると、イヤどうも言えぬわ、胃・心・肺・肝がすこやかに成りて、薫風喉(のんど)より来たり、口中微涼を生ずるが如し、魚・鳥・きのこ・麺類の喰い合わせ、其の外、万病速効あること神の如し。

 さて、この薬、第一の奇妙には、舌のまわることが銭ごまがはだしで逃げる。ひょっと舌が廻り出すと、矢も楯もたまらぬじゃ。そりゃそりゃ、そらそりゃ、まわって来たわ、まわって来るわ、アワヤ喉、サタラナ舌に、カ牙、サ歯音、ハマの二つは唇の軽重、開口さわやかに、アカサタナハマヤラワ、オコソトノホモヨロヲ。

 一つへぎ、へぎに、へぎ干し、はじかみ。盆豆・盆米・盆ごぼう。摘み蓼・つみ豆・つみ山椒、書写山の社僧正。小米の生噛み、こん小米のこなまがみ。繻子・ひじゅす・繻子・繻珍。親も嘉兵衛、子も嘉兵衛、親かへい子かへい、子かへい親かへい。古栗の木の古切口。

 雨がっぱか、番合羽か。貴様のきゃはんも皮脚絆。我等がきゃはんも皮脚絆。しっかわ袴のしっぽころびを、三針はりながにちょっと縫うて、縫うて、ちょっとぶんだぜ。かわら撫子・野石竹。のら如来、三のら如来に六のら如来。一寸さきのお小仏に、おけつまずきゃるな。細溝(ほそどぶ)にどじょにょろり。

 京の生鱈、奈良、生まな学(まな)鰹、ちょっと四五貫目。お茶立ちょ、茶立ちょ、ちゃっと立ちょ、茶立ちょ、青竹茶筅でお茶ちゃっと立ちゃ。

 来るわ来るわ、何が来る、高野の山のおこけら小僧。狸百匹、箸百ぜん、天目百ぱい、棒八百本。

 武具・馬具・ぶぐ・ばぐ・三ぶくばぐ、合わせて武具・馬具・六ぶぐばぐ。菊・栗・きく・くり・三きくくり、合わせて菊・栗・六きくくり。麦・ごみ・むぎ・ごみ・三むぎごみ、合わせて麦・ごみ・六むぎごみ。

 あのなげしの長なぎなたは、誰が長薙刀ぞ。向こうのごまがらは、荏(え)の胡麻殻か、真ごまがらか、あれこそ、ほんの真胡麻殻。

 がらぴい、がらぴい、風車。おきゃがれこぼし、おきゃがれ、ゆんべもこぼして、又こぼした。たあぷぽぽ、たあぷぽぽ、ちりから、ちりから、つったっぽ。たっぽたっぽ一丁だこ、落ちたら煮て喰お。煮ても焼いても喰われぬ物は、五徳・鉄きゅう、金熊どうじに、石熊・石持・虎熊・虎きす。中にも、東寺の羅生門には、茨木童子が、うで栗五合(ごんごう)つかんでおむしゃる。かの頼光のひざ元去らず。

 鮒・きんかん・椎茸・定めてごたんな、そば切り・そうめん・うどんか愚鈍な小新発知(こしんぼち)、小棚のこ下の小桶に、こ味噌がこ有るぞ、こ杓子こもって、こすくってこよこせ。おっと合点だ、心得たんぼの、川崎・神奈川・程ヶ谷・戸塚は走って行けば、やいとを擦りむく、三里ばかりか、藤沢、平塚、おおいそがしや、小磯の宿(しゅく)を七つ起きして、早天そうそう相州小田原とうちん香。

 隠れござらぬ貴賤群衆(ぐんじゅ)の、花のお江戸の花うゐらう。あれ、あの花を見てお心をおやわらぎゃっという。産子・這う子に至るまで、このうゐらうの御評判、御存知ないとは申されまいまいつぶり、角だせ、棒だせ、ぼうぼうまゆに、うす・杵・すりばち・ばちばちぐゎらぐゎらぐゎらと、羽目を外して今日おいでの何れも様に、上げねばならぬ、売らねばならぬと、息せい引っぱり、東方世界の薬の元締、薬師如来も上覧(しょうらん)あれと、ホホ、敬って、うゐらうはいらっしゃりませぬか。


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冷えたからでしょうか?

2015-12-28 16:36:54 | 思いつくまま

 空気が冷たい。肌を刺す。顔面の冷たいこと。 

 

                      (氷の芸術)

                    

 最低気温がマイナス1度ですか、午前11時でも最高気温は4度台のようでした。

  

      上は午前10時11分、下は11時15分頃の撮影です。

  

 きょう28日は御用納めの日。 正規非正規を問わず今年一年働いてきたみなさま、お疲れさまでした。 中には年末も年始も仕事という方もいらっしゃることでしょう。 ご苦労様です。ありがとうございます。

                 

    

        

 ということもあってきょう午前中かかりつけの医院へ行ってきました。 かなり混むだろうなと予想して行ったのですが、肩透かしを食らいました。 もう大抵の患者連中は先週のうちに薬等をもらっているようです。 いつもよりも空いていました。自分では加齢に伴う症状と思っていますが、実は血圧が少々高くなっていまして、なかなか落ち着いてくれません。まあ一病息災と言いますので、その線で付き合って行こうかと思っています。

  

 (分流に居たカモですが、きょうは逃げられてしまいました。飛んで行ってしまいました。)

 

 昨夜テレビで見てしまいました、2回目(1回目は途中からでしたが)になりますか、映画 『幕が上がる』 です。高校生の演劇部の生徒たちの葛藤や友情等を描いていましたが、この映画にも、『母と暮らせば』で主人公の婚約者役を演じた 黒木 華 が出ていました。 

 黒木 華、ハナ とばかり思っていたら ハル と呼ぶのが正しいようですね。さすが高校時代から演劇にのめり込み、大学でも演劇を勉強した人ですから演技には何とも言えない安心感と深みが漂ってきます。

 『幕が上がる』では美術の先生役だったものの、かって演劇で女王と言われたということが知れ渡って、演劇部にも関わるようになるのですが、生徒たちに愛情をもって接しつつも、厳しさも併せ持って指導は厳しい。自分自身の悩みと演劇の指導とをどう調整していくか、そこのところの表情等がうまく画面に出ていたように感じました。

 『母と暮らせば』でも抑えに抑えた演技が逆にとっても胸打つものがありました。 この女優さんは伸びますね、まだ25歳くらいと若く、将来が楽しみです。

               

 

 きのうかと思ったら一昨日でした。朝日新聞の娯楽・批評欄に 柴田翔 『されど われらが日々ー』 が”時代のしるし 戦後70年”の一環として取り上げられていました。 何かとっても懐かしいです、著者も本の題名も。

 年代的には10歳以上も離れていますし、芥川賞を受賞した本の出版も1964年ですから、私が高校生の頃のことです。記事にもありますように、舞台は1955年の日共の六全協前後ということで、直接にはなにも分かりませんが、学生時代に読みました。

  (前にも紹介しましたが、何の実でしょうか?)

 読んでの感想はもう全く覚えてはいませんが、ただ意外と淡々とした記述の仕方で、そこに思春期の青年に訴えかけてくる熱い思想性のものは感じなかった気がします。 わたしの学生時代はいわゆる全共闘時代で、三派全学連や民青、それらのセクトとの闘争という時代、勉強に専念できる状態ではなかったのですが、ある意味真剣に生きる意味を考えた時代でもありました。ただ学生の存在意義というか存在価値というものは、今よりははるかに確固としたものとしてあったように思います。思い上がりでしょうか。 幻想かもしれませんが。

 この本を書いた動機というのが、「戦争中は軍国主義的集団主義が社会の隅々までありました。戦後の学生にも、相変わらず個人主義は悪いという空気があった。自分と同じ経験をしてきたはずの連中が、なぜ集団主義に巻き込まれていくのか。それが知りたかった。」と。

 (中をこじ開けてみるのは申し訳ないようで)  

 この前昭和40年代の資料が入った段ボールが出てきて、そのなかに仙台市電の懐かしい写真なんかも出てきてこのブログでも紹介しました。 その中からは学生時代の手紙類なんかも出てきまして、開けてみたところ40年以上前のことが一気に蘇って来たものがあります。

  

 これを見て何を感じますか? 思い出しますか? 分かりますか?

    

 こう2枚をセットにすると分かる人もいるかもしれません。 現在の住所ではありません、昭和43年頃の住所かな。 その頃ここに何があったか? そして右側のゴム印 ”桜”の中の”東”は何を意味するのか?

 そうです、かってここに東京拘置所がありました。 そこに留置されていた友達からの手紙です。 検閲済みという桜のゴム印だと思います。 便箋一枚一枚の右下に押されています。 今も使っているのかどうか全く分かりません。そんなものも出てきました。 むかしむかしの話しです。

 

 

コメント (2)
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これぞ冬!

2015-12-27 14:52:09 | お知らせ

 よく冷え込みました。(このブログは落ち込んでいますが。) まさに冬らしい冬となりました。 

    午前10時過ぎの東方面の様子です。

 

 少し吹雪いている状態です。

           

 しかし、ちょっと時間が経ったらこのように吹雪も収まりました。

 

                     

        

    

 

 そして分流脇の木にはこういうものがぶら下がっていました。

 

              

 十分に凧揚げを楽しんだ後に木に引っかかったのでしょうか。 もしかしてあげてすぐに引っかかったりして・・・・。

  

 午前中吉成方面にある生協に買い物に行ったのですが、自宅付近では外気温が1度だったのに、山の方では0度を示していました。(ともに車から測った外気温です) また雪も残っており、店内の気温も地元の店の気温よりもかなり寒く感じました。

 

 やっぱり海の見える高台は違います。

              

  駐車場に待機していました。

 

 もうお正月の準備は終わりましたか? こちらはこれからですね。

 


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元気ですね、一家は

2015-12-26 21:50:13 | 広瀬川

 日中はよかったのですが、夕方位から雨降りとなりました。 これがあした辺りから冷え込みが厳しくなって、凍ったりしなければいいのですが。 あしたから火曜日にかけて冬らしい気温になるようですので、雪が降るか、降った雨が凍るか、どうなるのでしょうか。

   (写真は午前11時過ぎの撮影です)

 

                      

       

 河原の緑地帯ではきょうも大学生と高校生のサークル(クラブ)の人たちが元気に動いていました。 見ていると本当に若い(苦しいという字に似ているのですが、歌の文句です)って素晴らしいことだなあ~と思ってしまいます。

         

 広瀬川の分流でもいい光景が見られました。 総勢7羽のカモの一家です。 早目にこちらが気がつき、飛び去ることのないように十分注意しながら写真を撮りました。 少し離れたり近付いたりしながら緊張感をもって撮りました。

 そうはいってもそれはあくまでもニンゲン側の論理であって、カモにとっては緊張感を抱かせ、静寂さを破るものに他なりません。 全体の動きを見ていると悩み迷っていることがうかがわれます。

 

  下流に下るか?、逆に上流側へ行くか?

            

 そうこうするうちに大人のカモたちでしょうか、上流側へ向かいました。 もしかしてこれは、ニンゲンの注意をこちら側(大人のカモ)に向けさせようとする作戦かもしれません。

 

          水は透明できれいです。

               

 子どもたち(と思います)はもう親達にはついていけないと判断したのか、下流側へゆっくりと移動し始めました。

  

 でも1羽は動きません。

                      

 下の写真は先に上流側へ向かった親たちのカモです。

 

 そして子どもたちも親のあとをついて行き始めました。

                 

 そういう動きがあって、1羽も飛び立つことなく、カモとニンゲンは上流と下流にすれ違って、それぞれのその後の動きへとつながっていきました。

   

 

 昨夜はテレビで、沢田研二主演の映画「太陽を盗んだ男」を見ました。20年以上は前の映画ですよね。学校では全く冴えない物理の先生である沢田研二がウラン(プルトニューム)を盗み出し、自宅で原爆を製造し、国家権力と対峙しつつ滅亡していくという物語ですが、菅原文太演じる刑事とのやりとり、攻防が見せ場の一つとなっています。

 原爆という一瞬にして何十万人を殺害できる兵器を手にするということは、それだけで国家権力と対等に、またはそれ以上にやり取りができるというところに、原爆というものの恐さ、恐ろしさが現れています。

 同年代の者としてつねに声援、支援している沢田研二の演技力も大したものです。

 

 大したものだということで言えば、きょうみた映画「母と暮らせば」の二宮和成の演技も一段と進歩しています。 「硫黄島からの手紙」のときの二宮和成は、まあそんなところかなと思いつつも、なかなかいい感じと思っていたのですが、きょうの母親役の吉永小百合との親子の演技では、なかなかどうしていい演技をしていたのじゃないでしょうか。

 産婆さんの母親と医学生の息子、そして黒木華演じる婚約者(その後小学校の先生)の3人を中心とした生活を、昭和20年8月9日午前11時2分、原爆が一瞬にして破壊してしまった。

 まだ映画は上映されていますので詳しいことは省略しますが、原爆によって、深い情愛によって結ばれていた人たちが、偶然にも助かった人と一瞬にして亡くなってしまった人に分かれてしまうという理不尽さ。

 生き残った人は、亡くなった人との関係をどうすれば乗り越えられるのか、生き残ってしまったという負い目から自由になるにはどうしたらいいのか、そもそも自由になれるのか、いつになったら許されるのか。

 そして亡くなった人は生き残った人に対してどのような感情をもっているのか、妬ましい感情からいつになったら自由になれるのか、そして天国(極楽)へ行けるのか、いろいろ考えさせられる映画でしたが、とっても感動的な映画で心が洗われた感じがし、あらためて戦争の理不尽さを痛感しました。


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今度こそ、仙台フィルハーモニー管弦楽団特別演奏会

2015-12-25 14:03:40 | お知らせ

 (きのうは失礼いたしました。)

 今午後2時過ぎたばかりで、NHKFM放送を聴いています。 何となんとナントきょうは近衛秀麿の音楽を取り上げています。 近衛秀麿と言えば、このめNHKBSだったかな、テレビで見て目が離せなくなったことがありました。 近衛文麿は実の兄です。

 戦前戦中にこような素晴らしい日本人の国際的な指揮者がいたという事実に驚くばかりでした。たしかベルリンフィルも指揮したはずです。 そして彼はユダヤ人の救出にも関わっていたようなのにはさらにびっくりしました。 外交官の杉原千畝だけではなかったのですね。

 彼の指揮した音楽を聴きながらこのブログを書いています。幸せですね。 もう今年も今日を入れて1週間でおしまいです。

 

 そしてきょうはクリスマスですか。 午前中に我妻がデコレーションケーキを買ってきました。もちろん小さいケーキです。いつもはショートケーキが主でしたから、今年はちょっと違うかな。

         

 それにしても今年もあと1週間というのに、この天気の変わりようはなんでしょうか。 午前10時30分過ぎ頃は曇天、雲が多く冬空という感じでしたが、午後になってからは一転して陽射しも出て明るく眩しささえ感じるようになってきました。

                           

        

 もっともあしたから特に日曜日と月曜日はかなりひえこみが厳しいようです。冬らしい天気ということになります。 

  

 まだ年賀状は一枚も書いていません。年賀状の裏面も全く手付かずの状態です。どうしましょうか? 来た人にだけ出すというのも一つの方法でしょうが、年に1回くらいは、普段行き来していない人に近況報告を兼ねて出すというのもそれなりに価値はあることだとは思います。

              

 枕が長くなってしまいました。きのう書こうとして書いたものの、画面から消えてしまった仙フィルの特別演奏会について書こうかなと思っています。

 23日の演奏会が終わったあとの打ち上げ会はさぞかし楽しかったことでしょうね。過去5年間の自分の経験からそう断言してもいいと思います。 長い緊張感から開放された安堵感と喜び、何といってもやったあーという達成感、それらが織り交じっての中での打ち上げ会ですから、盛り上がらないはずがありません。

 ましてや男性はそれでなくても数が少ないのですから、女性陣の中で目立つし、少しはモテるというか大事にされます。 完敗ならぬ乾杯後のよく冷えた生ビールはさぞかし美味しかったことでしょう。 みんなの気持ちが一つになった貸し切り会場、雰囲気がさらに興奮を盛り立ててくれます。

 きのうの4回目の忘年会も2時間強ですが、大変話しにお酒に盛り上がり、サークルとしてのまとまりがより一層強くなったような気がしました。 おかげでこっちはすっかり酔ってしまいましたが。サケは好きですが、アルコールに弱いのは致し方ありません。

              (昨夜の名掛丁のイルミネーションです。)

        

 23日は午後3時から演奏開始ということでしたが、実際は3時6分頃からのスタートとなりました。私の右隣の3席はずーと空いていたのですが、3時過ぎに3人の家族連れがやってきました。 

 席は狭いのです。イズミティ21の大ホールですが、肩身を狭くしてきちんと座っていないと左右の人に迷惑をかけることになります。これは旧県民会館(東京エレクトロンホール)も狭いですね。 足元には余裕なし。中の席に入ってしまうと、そこから出たり入ったりするのは大変に勇気のいることとなります。完全に迷惑をかけることになってしまいますから。

  それでいて客席はせいぜい1400から1500席という少ない客席で、恥ずかしいとさえ思ってしまいます。もっと県も市も大きなホールの建設に前向きになるべきです。 土木工事ばかりではなくもっと文化施設にお金を使ってもらいたい。

 2000席のホールの建設を目指すべく運動体は出来上がりました。 『楽都・仙台に復興祈念”2千席規模の音楽ホール”を!市民会議』です。今年の9月8日に立ち上げたようです。 学都であり楽都を標榜するならば、是非とも仙台市内に大き目なホールの建設を願うものです。 

 そのときは当然足下にも十分な余裕を持たせてほしいです。今の映画館は席がとても立派なものになっていますので、せめて映画館くらいの席で、2000席以上のホールができたら、また市民合唱団に応募しようかななんて考えたりして・・・・。

             

 最初はベートーベンの エグモント序曲 の演奏でした。15分弱くらいの演奏でした。 そしていよいよベートーベン 交響曲第九番ニ短調 のスタートです。 と書きましたが、あれっと思いました。 合唱団が入って来ないのです。

 楽団員と指揮者が揃いましたが、肝心の?合唱団がステージに入って来ない。 そうかこれは途中から、多分第3楽章の前に入場するのだなと思いました。 去年までですと、合唱団も最初からステージに入場し並びました。10人弱(「せんくら」もありましたから)の指揮者のもとで、演奏しましたが初めてのことです。

 そしてやはり第3楽章に入る前に合唱団と4人のソリストが入場してきました。合唱団は上手と下手から壇上に上がります。去年までですと、上手からはバスとアルトが、下手からはテノールとソプラノが上がります、上の方から順に。

 しかし、今回はいつもは合唱団の中央に位置していた男性陣(テノールとバス)は上手からの入場でした。 それでなくても少ない男性陣が片隅に追いやられたかのように、天邪鬼な私は感じてしまった次第です。 これもマエストロ(指揮者)のお考えでしょうから、致し方ございません。

 ここで思い出されるのが、山田和樹マエストロです。36歳という若い指揮者で、「せんくら」のときの指揮者でしたが、このときはナントなんと何と 子どもたちとの合唱 でした。 それも我々大人の合唱団は、4つのパート毎に分かれるのではなくて、ものの見事にシャッフルされての合唱となりました。

 正直このときは不安でしたね。 何しろ合唱団にはいってからは、歌に自信のない人は一番前に来て後ろからの歌に耳を傾けて歌いなさいと指導され、それを頑なに守ってきた私ですので不安心配になるのは当たり前です。 その時はまわりをソプラノとアルトに取り囲まれ、少し後ろに男性がいましたがその人はバス担当でした。いやあほんとに辛かったですね。高音担当のソプラノには圧倒されますから。何とか歌えましたが、冷や汗ものでした。今となってはとても貴重な経験であり、思い出となっていますが。

 そして発音も、「劇場用の発音」ではなく、舌を巻きませんでした。 「er 」は巻き舌ではなかったです。私もそれは5年間の間に両方で歌っていましたので、そんなに違和感はなかったのですが、個人的には巻き舌での発音の方が好きです。昔のドイツ語のような気がします。 

 例として、”schöner(美しい)”の場合、カタカナで書くと 「シェーネル(巻き舌)」か「シェーナー」の違いですね。 厳密には ö の発音は日本語にはありません。

 

 今回の演奏会には忘れないで双眼鏡を持って行きました。合唱団のかつての友達の顔をじっくりと見たくて。 テノールにはたくさんの友達がいます。ひとり一人のかを懐かしい気持ちでゆっくりと見ていきます。 

 ああ、元気に歌っているな、変わらないなあ、なんて思いながら双眼鏡で姿を追います。いつもすぐそば、隣で練習していた人がいるのですが、隣ではどんな口の形をして歌っているのか分かりませんでしたが、あらためて双眼鏡で歌っている口元を見ると、へえ~そうだったんだと変な関心をしたりもしました。  あらためて私の口の開け方は小さかったのだなと思った次第です。淳一先生からは口を酸っぱくして口を盾に大きく開けて歌えと言われ続けたのですが、とうとうそうはならなかったようです。

 

 肝心の合唱の出来についてはあれこれ言える立場にはありません。人数は少なくてもテノールの声は聞こえていましたし、ついついわたしも声には出しませんでしたが、クチパクで歌いながら見ていました、聞いていました。 歌詞も旋律もまだ覚えていますし、死ぬまで忘れないようにしていきたいとおもっています。折角憶えたのですから。

 合唱団はパンフによると、全体で185人です。 ソプラノが57人、アルトが74人、それに対してテノールは23人で、バスが31人でした。 男性陣の割合は29.2%、テノールだけでは12.4%となります。 男女比40:60くらいで歌えたらどうなるのでしょうか?!もっともっと深みのあるより高いところで調和した合唱になるのではないかなんて夢想したりして・・・・。

 

 この写真は2014年12月20日のコンサートのものです。 今回はイズミティ21が会場で、ステージではこの写真のような左右で斜めに並ぶということはありませんでした。

 長くなりました。どうしても冗長になってしまいます。お付き合いくださり感謝します。


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仙台フィルハーモニー管弦楽団 特別演奏会

2015-12-24 15:30:11 | お知らせ

 何ということでしょうか?!こんなことがあっていいのでしょうか?? 

 

 このブログのきょうの投稿もうほとんど終了するという段階になって、すべてが一瞬にして消えてしまいました。

                    

 ほんの一瞬です。なんでこうなるのでしょうか???

  

 もしかして自動保存されてないか、復元できないか、いろいろやってみたのですが、戻りません。 

   

 ショックです。 立ち直れません。 

     

 こんなバカな!!悔しいじゃないですか!

                       

 きょうは午前と午後の2回実行委員会や打ち合わせ会があり、無事終わったので、夜の最後の忘年会のビールは美味いだろうなと思ったのですか・・・・。そんな邪なことを考えて書いていたから、罰が当たったのでしょうか???

 

 空は晴れても心は漆黒

              ということできょうはこの辺で、スミマセン。 あすには回復するか?


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天皇誕生日と歓喜の歌

2015-12-23 22:12:06 | お知らせ

 きょうは天皇陛下の82歳の誕生日です。 年齢を感じることも多くなったと言っているようですが、まだまだ元気に長生きしてほしいと思っています。平和国家日本の象徴として、皇后陛下とともにご健在であり続けていただきたいと切に願うものです。

 

                         

    

 記者会見でのお言葉を改めてじっくりと読んでみたいと思います。

 【天皇陛下の記者会見のお言葉】

 今年の自然災害としては、まず5月に鹿児島県の口永良部島の新岳が噴火して、海岸まで達する火砕流が発生し、全島民が島から避難したことが挙げられます。火砕流は雲仙岳の噴火災害のお見舞いに行った時に見ましたが、海岸まで達する火砕流は本当に恐ろしい光景だったと思います。島民は幸い皆無事でしたが、まだ避難生活が続いていることに心を痛めています。
 9月には豪雨により鬼怒川などが氾濫し、8人が亡くなる大きな災害となりました。氾濫により多くの人々が家々に閉じ込められ、どんなにか不安な時を過ごしたことかと思います。自衛隊を始めとするヘリコプター等の救助活動により、人々が無事に救出されたことは本当に幸いなことでした。危険を伴う救出活動に携わった人々に深く感謝しています。水につかった家屋や田畑の復旧作業には多くの労力を必要とするもので、多数のボランティアが協力してくれていることをうれしく思っています。困難に遭遇している人々を助けようという気持ちが日本人の中に豊かに育っていることを非常に心強く思います。後日、常総市の被災地をお見舞いしましたが、泥水につかった田畑が広がり、苦労して作物を育ててきた人々の気持ちはいかばかりかと察せられました。
 今年の喜ばしい出来事としては、まず二人の日本人がノーベル賞を受賞されたことが挙げられます。大村博士の生理学・医学賞は、アフリカや南米で、人に感染すると盲目になる危険をもたらすオンコセルカ症を治す薬を地中の菌から作り出されたことなどの業績によるものです。私は以前、オンコセルカ症を患って盲目になった人々が連なって歩いている痛ましい映像を見ていましたので、この病気を治す薬が出来たということを本当にうれしく思いました。一方、梶田博士の物理学賞は、神岡鉱山の地下にあるスーパーカミオカンデにおけるニュートリノの研究で、ニュートリノに質量があることを見出されたことに対する授賞でした。11年前、スーパーカミオカンデを訪問したことが思い起こされました。お二人の長年にわたる地道な研究を誠に尊いものと思います。
 また、日本製のジェット旅客機が完成し、試験飛行が行われたこともうれしいことでした。かつて日本で戦後初めてつくられたプロペラの旅客機YS11の試験飛行を、羽田の空港で関係者と共に見守ったことが懐かしく思い起こされました。それから50年以上がたったわけです。


 今年は先の大戦が終結して70年という節目の年に当たります。この戦争においては、軍人以外の人々も含め、誠に多くの人命が失われました。平和であったならば、社会の様々な分野で有意義な人生を送ったであろう人々が命を失ったわけであり、このことを考えると、非常に心が痛みます。
 軍人以外に戦争によって生命にかかわる大きな犠牲を払った人々として、民間の船の船員があります。将来は外国航路の船員になることも夢見た人々が、民間の船を徴用して軍人や軍用物資などをのせる輸送船の船員として働き、敵の攻撃によって命を失いました。日本は海に囲まれ、海運国として発展していました。私も小さい時、船の絵葉書を見て楽しんだことがありますが、それらの船は、病院船として残った氷川丸以外は、ほとんど海に沈んだということを後に知りました。制空権がなく、輸送船を守るべき軍艦などもない状況下でも、輸送業務に携わらなければならなかった船員の気持ちを本当に痛ましく思います。今年の6月には第45回戦没・殉職船員追悼式が神奈川県の戦没船員の碑の前で行われ、亡くなった船員のことを思い、供花しました。
 この節目の年に当たり、かつて日本の委任統治領であったパラオ共和国を皇后と共に訪問し、ペリリュー島にある日本政府の建立した西太平洋戦没者の碑と米国陸軍第81歩兵師団慰霊碑に供花しました。パラオ共和国大統領御夫妻、マーシャル諸島共和国大統領御夫妻、ミクロネシア連邦大統領御夫妻もこの訪問に同行してくださったことを深く感謝しています。この戦没者の碑の先にはアンガウル島があり、そこでも激戦により多くの人々が亡くなりました。アンガウル島は、今、激しい戦闘が行われた所とは思えないような木々の茂る緑の島となっています。空から見たパラオ共和国は珊瑚礁に囲まれた美しい島々からなっています。しかし、この海には無数の不発弾が沈んでおり、今日、技術を持った元海上自衛隊員がその処理に従事しています。危険を伴う作業であり、この海が安全になるまでにはまだ大変な時間のかかることと知りました。先の戦争が、島々に住む人々に大きな負担をかけるようになってしまったことを忘れてはならないと思います。
 パラオ訪問の後、夏には宮城県の北原尾、栃木県の千振、長野県の大日向と戦後の引揚者が入植した開拓の地を訪ねました。外地での開拓で多大な努力を払った人々が、引き揚げの困難を経、不毛に近い土地を必死に耕し、家畜を飼い、生活を立てた苦労がしのばれました。 北原尾は、北のパラオという意味で、パラオから引き揚げてきた人々が入植したところです。
この1年を振り返ると、様々な面で先の戦争のことを考えて過ごした1年だったように思います。年々、戦争を知らない世代が増加していきますが、先の戦争のことを十分に知り、考えを深めていくことが日本の将来にとって極めて大切なことと思います。


 私はこの誕生日で82になります。年齢というものを感じることも多くなり、行事の時に間違えることもありました。したがって、一つ一つの行事に注意深く臨むことによって、少しでもそのようなことのないようにしていくつもりです。
 今年もあとわずかになりました。来る年が人々にとって少しでも良い年となるよう願っています。

 

 

 こういう若い人たちが、意に反して徴兵されることのない社会であり続けなければ、後世に大きな禍根を残すことになります。

      

 これからも安全平和な飛行機雲が見られますように・・・・・

 

 

 「歓喜の歌」はあしたにいたします。すみません。


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近くの雨水・下水路(口)の現状

2015-12-22 16:50:40 | 広瀬川

 きょうは冬至ですか。 今年も今日を入れて残すところ10日となってしまいました。 早いですねえ、もう今年も終わってしまうのです。 まあ1週間の経つことの早いことを思えば当然なのでしょうが。 本当にいつの間にか、あっという間に1週間は過ぎてしまいます。

     

                        

     

 かぼちゃは冬に限らず、食していますが、結構当たり外れがある感じです。 きょうは冬至かぼちゃなので、小豆が入るし拙いと感じることはないかなと思っています。 小豆はうまいし、何といっても玄米に入れて毎日食べています。飽きません。 夫婦は豆が好きなのですが、子どもは二人とも豆類が好きではなくすこし困っています。

 

 【汚いものを見たくない方は見ないでください】

 きのう頂いたコメントによると、漁協の総会が開かれ、席上広瀬川にはいまだに汚水が流されてるという話しがでたそうです。 

 いつも紹介しています広瀬川分流の近くには2つの排水口があります。 個人的には常々そう思ってきたし、数年前に写真付きで下水道関係部局にメールで照会したりしたことがあります。

 その時の回答では、基本的には雨水しか流してはいないが、大雨が降ったりすると処理しきれずに雨水に汚水が混じることがある、それでも極力流れ出ないようにしたいという回答でした。確かにその後は紙の混じった汚水が流れてくる事は減ったようには感じていました。

 9月10日前後の大雨で雨水も汚水も関係ない状況になったのでしょう、その下水・雨水口は分流と合流するところは流木や土砂で埋まってしまい、そのままとなっています。流木等の撤去工事の時にも無視されたようです。

 いつも写真で紹介している分流には、いままで述べてきた下水・雨水口があります。(もう一つは分流と本流の合流点付近にあります。) それはとっても大きい排水路というか排水管で、大人でも少し屈めば入っていけますし、これは子どものころにできたもので、工事中は工事後もよく悪がきどもと中に入って遊んだものです。

 

 いまは頑丈な鉄製の扉でふさがれていますので、当たり前ですがとても入れません。 扉の下から見えるものはこういう紙状のものです。 見たくない、目を背けたくなるものです。

 

 あれだけの大雨だったから仕方がないかなあというあきらめの気持ちで毎日見ていますが。

 

 

 

 上下の流木や枯れ草等を撤去してくれればまだ雰囲気は少しは変わるのですが。

 

 

 以上が大きい方の排水口の状況です。 次は少し下流にある分流と本流が合流する付近にある排水口です。 いつもこのブログに載せている下の写真の左下にコンクリートの岸壁みたいなものが見えますが、そこが排水路となっています。

 

 今は大雨のために排水路には土砂等が溜っています。

 一応看板にはこう書かれています。

 

 普段はというかいつもは先に紹介した吐き口の方が汚いのです。 ここの吐き口がこんなにも汚くなっているのは珍しいですね。紙製品のなれの果ての姿です。

  

 ここの排水路にもガキの頃は這って入って遊んだものです。自由に入れました。こっちの方が大きい排水路(口)よりも新しいです。

 

 ここの排水口は過去にも何度か排水路が砂利や砂で埋まってしまったことはありますが、こんなにも紙等の汚染物で満たされたのは近年ないことです。

 

 

 

 汚いものを見せてしまいましたが、これも現実のことですので、記録としても記憶としても残しておくべきことかなと思い、アップしました。

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パッとしない時はこれ、水族館

2015-12-21 17:28:43 | お知らせ

 本当に一日ごとに天気が変わりますね。 もう好き勝手に変わってくれと!言いたくなります。

      

                       

 中洲にそびえたつ木々よりも、広瀬川分流の川面に映える木々の方がきれいに見えませんか? きれいというか、木と川のコラボは趣を異にし、なんか心に染み入るような感じがするのですが、みなさまはどうでしょうか。

    

 でも、今の季節らしい花も咲いています。 難点ならぬ南天です。 ちょっと見事に咲いているなあと思います。

      

                      

 もう師走も21日、残すところも10日となっているのですが、まだ実っています、たくさん。

   

                     渋柿です。

                   

 

 わたしは動物園では爬虫類館が一番好きですが、、水族館でもそれにいている魚が好きです。細くて、時に太くて、長くて柔らかで、ゆったりと揺蕩(たゆた)っている生き物が好きです。ということで、、大きな画面で見ていただきます。

 最初はこれです。電気ウナギかなと思ったのですが、電気ウナギはもっと暗い感じの水槽に入っていたように思いますし、肺魚かもしれません。

 

          

  

           

 次はウツボです。 なぜか足の長いエビと共生しているようです。

   

                     

  

       

 次はこのウツボです。

 

                   

   

                

 どうでしたか?可愛いものですよね。


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時代は、ダンボルギーニ!

2015-12-20 15:57:24 | お知らせ

 過ごしやすい一日。 午前中は墓参りをして、その帰り生協で買い物をしてきました。 雲は少しありましたが、きれいな青空です。 

 きょうは師走の20日、いよいよ下旬に入りました。 師走も下旬となれば、聞こえてくるのはもうこれしかないですね、クリスマスソングではなく、ベートーベンの第九です。 23日が待ち遠しいです。

 広瀬川分流の川面も風で少し波だってはいましたが、太陽の日差しを浴びて眩しくない程度にキラキラしていました。

                  午後2時半頃の東方面

   

                     

 

 キラキラしていたのは、今野英樹社長もです。 石巻の今野梱包株式会社の社長さんです。今週の”天晴”を差し上げましょう。 チャレンジ精神が堪らない!!

 時代はもはやランボルギーニではなく、”ダンボルギーニ”ですね。 ネーミングも眩しいくらいいい!! 段ボールには向かいところ敵なし!という感じでしょうか。 会社の宣伝をさせていただきます。

 

 見よ!このダンボルギーニの雄姿を!!

     

 こんなものも作っています。 ガンダムと恐竜です。

                 

 遊び心を忘れずに、いろんなことに挑戦してほしいです。

 

 でも同じ石巻でも、こちらのほうの石巻市の対応はよろしくないです。 大川小学校の津波被害による損害賠償裁判です。 遺族側は、教職員で唯一生き残った男性教諭の証人尋問がどうしても必要だと強調して要望しているのに、石巻市側は医師の所見を盾にとって「法廷での尋問は許されない」と主張しています。

 遺族側は、その先生が第3者による検証委員会の聞き取りには応じているし、先生にとっても証人尋問に出ることによって、遺族との対話の糸口をつくり、社会復帰も可能となるかもしれない絶好の機会ととらえています。

 大川小学校の惨劇についてはこのブログでも何度も取り上げています。 生き残った先生も、先生だから、助かったのだから積極的に会見や喚問、尋問に応じるべきではないか、それが亡くなった74人の児童と10人の教職員に対する慰霊であり、義務と言ってもいいのではないかと今でも思っています。

 そうしないと本当のというか、真実に近い事実の検証ができないのではないでしょうか。なんか肝心なところを避けてその周辺の事態だけで検証し判断しようとしている歯がゆさを常に感じてきました。

 被告側は医者の所見だけで何とかこの事態を切り抜けようと画策しているようにみえてしょうがありません。本当に事実の究明をする気があるのか?と言いたいです。 こうなれば裁判官が直接病院なり自宅に出かけて教諭本人の状態を確認するということも必要ではないでしょうか。 そう思います。

                         (午後ですので逆光となります。)

                

    

         

 

 今日、空ではというか低空だったから空中ではトンビが華麗に舞っていました。元気でした。

      

 こうやって見ると空中では無敵のように見えても、カラスには弱いのですから、分からないものです。

  

                 

 

 そして中洲の砂場ではこういう光景も目にしました。 犬も砂で戯れるのでしょうか!?初めて見る感じです。

              

               砂に顔を埋めるのです、掘った砂のなかに。

          

 

  本日午後10時からNHKプレミアムで「44歳のチアリーダー」の放送があります。NHK仙台放送局が制作した番組です。 「かつお」 「独眼竜花嫁道中」 とは異なり感動的な実話となっています。

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出てきました!

2015-12-19 15:06:19 | 思いつくまま

 きょうは冬らしい冷気が自然を覆っている感じで、広瀬川分流脇を歩くときの空気の冷たさ、風も少しあって川面はさざ波がたって、なおのこと寒そうに感じます。 それでも緑地帯を少年野球チームのメンバーが掛け声をあげながら走っていました。

            (午前11時30分頃)

     

                           

        

  

 

 きょうは12月19日、あしたからはいよいよ師走の下旬をなります。 せわしくなってくるのですが、一応この前年賀状を例年の三分の二くらい買いました。 そうそう暮れの様子を夏目漱石は「門」でこのように表現していました。

 『 年の暮れに、事を好むとしか思われない世間の人が、故意(わざ)と短い日を前へ押し出したがって齷齪(あくせく)する様子を見ると、宗助は・・・・・』  漱石の小説を読んでいくと、何と素晴らしい表現だと感心することが多々あります。 だから漱石なのだ!と言われればそれまでですが、さすがです。

 

 きょうは広瀬川の分流にはカモもサギもサケも姿は見えませんでしたが、本流に沿ってすこし上流の方へ歩いて行ったら、いました、カモの群れが。 まるでハーレムにいるかのよう?といってはカモに失礼ですか。

  

 9月10日、11日の大豪雨により広瀬川の流れは変わりましたが、至る所に大きな岩盤が目立つようになってきました。 この岩盤もその一つです。

      

 

 12月師走ということで、我妻はいろいろと掃除をしたり、片付けをしていますが、30年以上も前に仕舞っておいたダンボールが出てきました。 なかから子どもたちが乳幼児だった頃の自由帳というか大学ノートに何でもいいから書かせたものが出てきました。 私と合作の絵(といえるのであれば)もあって、懐かしさでページをめくってしまったのですが、これからお知らせするのはそれではありません。

 かって仙台市街地を街の顔として走っていた市電です。 中央循環線とそれに接続している6,7つの路線があり、自動車が普及するまでは乗降客で賑わったものです。 大崎八幡神社(当時)のどんと祭のときは、市電が縦横無尽の活躍をしたものです。

  それこそ今で言えば二酸化炭素を出さないクリーンな乗り物として重宝がられたのでしょうが、仙台市は、市電の軌道内に自動車を乗り入れさせることによって、効率の悪くなった市電を廃止させる方向に舵を切り、代替え案として地下鉄を提唱し、1976年昭和51年)3月31日をもって市電を廃止しました。

 その後紆余曲折がありましたが、地下鉄南北線が開通し、今となっては当たり前のように走っています。そして今月6日には地下鉄東西線も開業しました。 東西線の利用者数について6日と7日しか公表しませんでしたが、この前6日から13日までの8日間の利用者数を発表しました。

 一日の平均利用者数は64,837人で、予測の80,000人の8割の利用となっています。平日の利用者数は大体50,000人台で推移し、平均が64,837人となったのは6日の開業日の利用者が112,500人と予想以上に多かったためです。

 個人的な感想を言えば、思ったよりも利用者は多いなと思います。 近くの国際センター駅や川内駅は学生の利用が多いから、結構多いなと感じたのでしょうか。 話しが逸れてしまいました。

 1976年・昭和51年に撮った白黒の写真が出てきました。 3月31日、つまり最終日の市電の雄姿です。 花電車も走りました。 花電車、懐かしいですね。 なんかの記念日には花電車が走りました。 小中学校へ通う時にいつも市電が走る姿を見ていましたので、どうしても愛着が出てしまうのでしょう。

  「まるみつ」デパートです。

                 

     この車は何でしょうか? 40年前か?

  今は「さくらの」ですね。 

 下の①から③の写真は勾当台公園が背景となっています。左側が市役所で、右側は東二番丁通りとなります。 当時は今のように直線に近い道路とはなっていなくて、東二番丁に行くにも左にカーブしてから右に入ることになります。

 ① 

 右奥の高い建物は国の合同庁舎でしょうか。

             ② 

      この車は何?

 ちょっと坂になっています。樹木の区報の建物も国の合同庁舎です。

                          ③ 

 こうやってみると、車は少ないじゃないか!!本当に多かったのか??と思ってしまいます。

 

 

 

 

 


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きょうも会えず・・・

2015-12-18 14:56:17 | 広瀬川

 午後になって雲が多くなり、明るさが消えましたね。 少々陰鬱な感じです。 だから?きょうはいつもとは違う演奏者の”第九”を聴いています。 いま第4楽章に入りました。

          (午前中はよかったのですが)

     

                       

 川面にはさざ波が立ちましたが、川底はよく見えました。 見えましたが、サケの姿は見えませんでした。

          

 

 そしてまた見えたものは、鳥です。

                         

 この2羽のかも、ゆっくりと下って行きました。

 

 下流には親鳥と思われるカモが2羽いました。

 

 

  親鳥と一緒になったのだから落ち着くかと思いきや、子供と思われる方のカモは飛び立ってしまいました。

 

  そしてまた広瀬川分流のそばの大木にはトンビが止まってピーピーとよく鳴いていました。何か餌をやっているのか、餌を食べているのかどっちにも解釈できるような仕草を見せていました。

   

            ( 逆光なのが残念です。)

           

 

 それにしても天気の変化は本当に目まぐるしいです。きょうの新聞に載っていましたが、白石城では例年よりも2ヶ月も早く梅が開花したとか。近くの柿の木もまだ身をつけたままといいます。そういえばうちの近くの家の柿の木(渋柿)もまだたくさん実ったままですね。

 

 そうそうきのう岡野釣具店からダイレクトメールがきました。 OFF・OFFセールの案内

               

 12月の後半に渓流と鮎釣り用品の一覧を、コタツに入りながら見るというのも考えようによっては乙なものと言えるでしょうか。

 

 その中に気になる鮎竿の一覧がありました。 下野オリジナル鮎竿ですが、5割引きという格安さの竿。 みるとMJBブラックバージョンではありませんか!! 何っ!!去年買ったばかりじゃないか?! それがもう半額とは一体どういうこっちゃ!

          

 でもよくよく見ると去年購入した竿とは異なりました。 ホッと胸をなでおろすnewoneでした。半額となっっているのは、2014年の①「BLACK VERSION FIGHTER 90SK」でした。去年購入したのは、②「BLACK VERSION SP90 POWER +」です。

 ①は、硬度が+8.5で、硬硬調 胴調子の竿です。 ②は硬度は+8.0で急瀬パワー胴調子の竿です。 でも去年は結局この竿を使うことがなかったといっていい。ものの見事に転んだときにもっていたのがこの竿でした。無事でよかった、竿も体も。


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予想に反して、   水族館その3

2015-12-17 15:05:57 | お知らせ

 きょうからはきのうまでとは一変して、冬型の天気になり、西部では雪も積もるだろうということだったのですが、予想にに反してこちらではいい天気が続いています。

      

 青空に大き目の白い雲、明るい陽射しがあり、お蔭で過ごしやすいです。

                      

    

 広瀬川の分流も風があって時折波立ちますが、川底がしっかりと見えるようになっていました。でも残念ながらきのう見たサケの姿は見つけられませんでした。

                        

    (泥に覆われています。)

 居たのは例によってカモでした。 どこからともなく出てくるのですね。 つまりは分流の右岸側の草木が川に被さっているようなところに隠れているのですね。 でもニンゲンが近付いていくと不安・心配になって隠れ家から出てきて、様子をうかがいながら下っていくのです。

                

 まだ子どものように感じます。

   

      

 

 お待たせいたしました。水族館の第3弾です。 出し惜しみをしているつもりは全くないのですが、ついつい後回しになってしまいます。

 きょうは水族館のなかでも、大きくてどちらかというと”ジッとしている生き物”の紹介です。小さいのもいます。

 

 マンボウっていいですよね。 世間の騒音何か全く無関係そうなゆったりとしたマイペースの動きが羨ましいくらいのときがあります。

                   

 多分このマンボウは松島水族館からこちらに移ってきたものだと思います。 長生きしてほしいですね。

   

 巨大な魚の次は一気に小粒な生き物へ。

 

 鶴岡の加茂水族館には全く叶いませんが、うみの杜水族館にもクラゲはいます。 何とも愛くるしい仕草が癒してくれます。

               

    クラゲの生きがいはなんでしょう?

 次は大きなカメです。 2匹居たかな。これは大きい方のカメです。

 

 迫力があります。

        

 浦島太郎と亀の物語なんて、昔の人の想像力はなんて豊かなのでしょうか。そう思いませんか?

  

 

 最後はワニ、カイマンです。 

            

 でもじっとしているから迫力に欠けます。 生きているのかな?とさえ思ってしまいますから。

  

 下の2枚は別の角度というか、水面上だけをみれば一体何か?と思ってしまいますが、目と鼻を水面に出しています。

                 

 そういえば私の好きな”カバ”はいませんでした。 カバも居たら水族館ではなく、動物園になってしまうか。

 

  午前中ガソリンを満タンにしてきました。 これで720キロ走れることになります。 1月一杯は大丈夫でしょう。 ガソリンも1リットル115円を切っているのか。中国の経済の減速のお蔭で石油の消費量が少なくなってきたから安くなってきたのでしょうか。

 ついでに灯油も5缶買ってきました。 18リットルで1100円くらいと、これまた安くなっています。いつまでも安い状態が続くことはないでしょうが。

 


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