鮎と戯れて・・・魚族に感謝

東北地方を中心とした短い夏のあまり多くない鮎釣りの記録。家族に感謝して。近くの広瀬川の環境等にも拘るも、オフは時事問題も

今年の総括

2007-12-31 23:05:36 | お知らせ

 写真を探しているうちにまた時間が経ってしまいました。

 後2時間半強で今年もお仕舞いです。平成20年、西暦2008年が間もなくやってきます。

 きょうは久し振りに冬らしい天気、気温も低く、日中雪が降ったり止んだりの繰り返しでいかにも冬らしく、体をしゃきっとさせます。冬は寒いから好きではないけど、心身をしゃきっとさせるのは好きです。(短時間だけ)

 写真は午前中の広瀬川です。28日の夜から29日にかけて、冬なのに強い雨が降ったために、29日は冬にしてはかなりの増水、濁りとなりましたが、今日あたりは平水に近いくらいの水位ですか。夏の水量としてもやや少なめですが、いい感じです。

 

 『鉄平は死に、会津若松城は落城』 

 日中はテレビドラマ漬けでした。TBS系では「華麗なる一族」を、チャンネルNECOでは、かなり前になりますが「白虎隊」を見てしまいました。

 雪山で猟銃自殺をした万俵鉄平の心中に思いを馳せ、鳥羽伏見の戦いから会津戦争までの会津のやるせない、やりきれない、最早逃れられない戦い、勤皇の志を持ちながら、薩長に賊軍扱いされながらも戦わなければならなかった会津の心情に涙しながら見ていました。

 夜には時代劇専門チャンネルで「赤穂浪士」の映画を少し見ましたが、何となんとナント大石蔵之助役は鉄平の父親を演じた若かりし頃の北大路欣也でした。

 この頃の彼は太っていなくてかっこよかった。「八甲田山」の時の彼もよかったですね。

 

 それはそれとして、いよいよ本番です。

 11月頃に一回だけ今年の鮎つりの結果を報告しましたが、改めて今年の結果を報告します。恥ずかしながら・・・。

 振り返ってみると改めて体力の低下を感じざるを得ません。体力ばかりではなく気力も衰えていると言うことが結果から歴然と見えてきます。

 それは地元広瀬川の釣行がおおかったということです。近くで我慢したと言えなくもないですが、それ以上に近くで満足した、遠征する気力がなかった、気力体力が足りなかったということになるかと思います。残念ながら。

 それだけ何故か広瀬川でそこそこ釣れた(例年に比べて)ということかもしれません。

 それと、去年どういうわけか解禁日から腕を中心としてかぶれてしまいましたが、今年は同じところに何回も入ったのになんでもなかったということが嬉しかったです。一体去年はどうしたと言うのでしょうか??何でかぶれなんかになってしまったのか??

 

 【釣果等】

 今年は、7月1日から9月26日まで約3ヶ月間鮎釣りに行きました。行かせて貰いました。感謝です。妻に、仲間に。

 その結果は;①実釣行日数:21日(延べ24日)。

 ②総釣果数:(たったの)126匹。

 ③1日当りの釣果数:6匹。

 ④総実釣時間:3682分(61時間22分)。

 ⑤1匹釣るのに要した時間:30分。

 ⑥1日当りの実釣時間:176分(約3時間)  ということになります。

 

 河川別に見ると:①広瀬川:12日・73匹 

 ②小国川:3日・13匹 

 ③寒河江川:2日・4匹 

 ④最上川:5日・11匹 

 ⑤米代川:2日・25匹  ということです。

 

 これを見ると一目瞭然です。広瀬川が中心となったことが。釣行日数の半分以上を広瀬川が占めています。また釣果数の58%を広瀬川が占めています。

 広瀬川の組合員としての年券は4500円、日釣り券が1500円だから十分にもとを取っているのですが、小国川は年券を9000円で買ったのですが、3回しか行っていませんでしたので、日釣り券の方がよかったと言うことになります。結果としては。小国川の日釣り券は1800円です。

 

 1日当りの釣果数を見ると;①広瀬川:6.1匹 

 ②小国川:4.3匹 

 ③寒河江川:2匹 

 ④最上川:2.2匹 

 ⑤米代川:12.5匹  となります。

 

 正に米代川様様です。米代川に行っていい思いをしなかったら、今年の鮎釣りは最低、最悪でした。その意味でも「青葉カワセミ会員」には感謝感謝です。非常感謝(fei chang guan xie)です。

 大雨で大洪水になる前の米代川での鮎釣りを楽しむことが出来ました。仲間とともに遠征する、遠くに釣行するという楽しさ、喜び、ありがたいものです。

 しかも、今までの米代川への遠征は、いつもリバーサイドホテルでしたが、今年は安いとは言え温泉に泊まったわけです。テントよりもやはりこの年になると旅館がいいです。

 

 次に費用の面ですが、①総費用額:186千円 

 ②1日当りの費用:8831円 

 ③1匹当りの費用:1472円 です。

 

 こんなに少ない年は初めてです。それは鮎竿を買わなかったからということに尽きます。(その代わり渓流竿は買いましたが。)ここ10余年で一番少なかったのは2005年の282千円です。

 来年も鮎竿は買わないでしょう。鮎竿といっても、友釣り用の竿ですが。その代わりガラガケ(ころがし)用の竿を買おうかなと考えています。どこで使うのか、もちろん最上川と、それと北上川です。

 最上川ではがらがけ釣りをしている地元の人をギャフンと言わせてやりたい。私も昔は鮎釣りと言えば、ガラガケでしたから。竿の長さは桁が違う感じですが、負けません。

 地元の人は全員が川の流れに対して90度の角度で、つまり直角にして竿を引いていますが、それを横引きといえば、私は縦引きといいますか流れに平行にして、といっても180度逆になりますが、流れに抗して、流れに掉さす形で引いて釣り上げようと考えています。

 そして掛ったら一歩も引かずに(無理か?)抜いてやろうと思っています。

 そしてこれがホンネ?ですが、大アユ釣りには友釣り用の竿よりも、ガラガケ用の竿の方が強いのではないかと思うからです。(「サクラマス」さんの影響かも)

 

 【鮎釣り費用内訳】:おもなところ

  年券:19,500円(3河川分) 

  オトリ代:17,800円  

  鮎雑誌:17,440円(13冊分) 

  ガソリン代:16,953円(かっては家計が負担してくれたのですが) 

  偏向グラス:14,700円  

  米代川遠征費用:13,800円  

  複合糸:11,025円  

  飲食料費:8,333円  

  ハリケース:7,969円  

  引き船:6,972円  

  ハリ:6,429円  

  お土産代:6,660円  

  インナータイツ:4,158円  等々です。 

 

 今午後10時50分ですか。まだNHK紅白歌合戦をやっています。ずいぶんと古い歌も歌っているのですね。亡くなった人も映像で参加しているというのもはじめてみました。知らない歌手のナント多くなったことか?!まあそれもそれでいいでしょう。

 

 午前零時まで書き連ねていって、明けましておめでとうございます、と言おうかと思っていたのですが、やってやれないことはないと思いますが、さすがにそれでは嫌われてしまうでしょうから、そろそろこの辺で今年のブログを終了しようと思います。

 

 改めまして、今年もお付き合いくださいまして誠にありがとうございます。

 10月までは順調に伸びていったのですが、11月からは一気にアクセス数ががた落ちで、それも仕方のないことかと思います。

 内容もいまいち、気力というか意欲も足りなかったように自分でも思います。読者の皆さんは正直です。本当にそう思います。如実に数値となって現れるのですから。怖いものです。 

 たまに去年の同じ頃は何を書いていたのだろうかと、去年のブログを見たりするのですが、自分で言うのもなんですが、よく書けていると思います。真摯さ、一生懸命さが伝わってきます。

 でも、これからはというか、このごろはずーとそうなのですが、気楽に楽しんで書いていこうと思っています。そして、いろんなことに自分の意見を、例えあさはかではあっても述べていこうかなとも考えています。

 といっても、あくまでも中心は夏の鮎釣りですので、その点は厳守、遵守していきます。

 

 というわけで、今年一年本当にありがとうございました。

 皆様にとりまして、来年もいい年でありますように心からお祈り申し上げます。

 よいお年をお迎えください。                                          newone


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

品川 正治さん公開授業(その4)

2007-12-30 21:17:44 | お知らせ

 いよいよ今日で品川正治さんの公開授業「若者と語る 日本の希望in仙台」もおしまいです。4日間も付き合ってくださいましてありがとうございます。

 

 

(公開授業・その4最終回です。)

 

 今アメリカはその戦争をしている。日本は戦争をしないといっている国。そういう日米が価値観を共有しているというのが全ての、経済界、財界、マスコミ、思想界全ての主流となっている。それを強調することによって政治経済をうまくやっていこうとしている。そのことを、オキナワ、ヒロシマ、ナガサキの人たちにいえるか、そういう考えは一切取れない。

 アメリカは正当(政党?)資本主義、日本は修正資本主義、日本経済は、利益は全て資本家のものというアメリカ型に近づけようとしている。

 

 <o:p></o:p>

 そのために、雇用が一番めちゃくちゃになってしまった。リストラすればするほど利益が上がる、経営者の腕のみせどころとなった。自分の給料も上がるし。

 日米では価値観が異なるのに一緒と言ったために、全ての錯誤が始まった。規制緩和も大企業のためのもの。小さな政府、官から民へ、官僚を減らし給料を抑える、歳出を抑える、全くの欺瞞。

 どんな政策でも誰のための政策かと疑問・質問を持っていて欲しい。簡単にだまされないようにして欲しい。

 政府の借金、国債は大きなウエイトを占める。誰から借りているか? 国民から借りている。企業を助けるために借りている。企業は史上最高の利益をあげているのだから、企業から返させればいいのに、企業から返させないために国民の財布に財政赤字を負担させようとしている。国民に負担を転嫁している。

 最大の座標軸は“みんなが主権者だ”ということ。みんなが主権者だという認識が今ほど大事なことはない。

 

 <o:p></o:p>

 日本は戦争をしない国と言い切れるかどうか? そう言ったときには、自分だけではなく、アフリカやイラクを助けることになる。アメリカのやり方も変えられる。

 改憲にNO,と応える、アメリカと違う国だといっていく、すると外交も経済も全てが変わっていく。「人間の目で経済を考えてほしい」

本当に国民主権なのか、みなさんは変えられる。

 

   

『今が国民の出番だ』

 

 

・・・以上は第一部の発言要旨 文責:newone

 

 <o:p></o:p>

 ※ 第2部(2時間目の授業)は、生徒たちと品川さんとの質疑応答です。

 以下は気になった発言等の要旨です。

 

・郵政改革という名の「政治」、「政策」ではない。

・竹中平蔵という市場原理主義者により、環境や福祉も市場化された。

・「成長」という名の呪縛にとらわれている。企業から借金を返済させるのではなく、法人税を下げてさらに企業を優遇している。それも成長のためという理由で。

地方からは、東京の論理で日本を滅ぼすつもりかという声が上がっている。

・人間の「努力」の問題(教育・医療・福祉等)を全てマーケットとみなしている。勝ち組の自己過信。

・企業は教育に口を出すな。一番教育を壊しているのは企業である。CMの大きな影響。

 

                        文責:newone


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

品川正治さんの公開授業(その3)

2007-12-29 22:46:10 | お知らせ

 今日から年末休みです。ゆっくりと起きました。

 

 一日家に居て、テレビ三昧。そうそう3時過ぎに堤防の散歩に行きました。これは、朝日新聞に連載された「あなたの安心」≪歩いて健康、そのために≫に影響されたものです。早足、歩幅も広くとっての散歩は、時間にして25分くらい、距離にすると2キロくらいになるのでしょうか。牛越橋と澱橋の間の往復です。

 

 お昼はアメリカ映画【カジノ】、夜は日本映画【シムソンズ】を見ました。【カジノ】はロバート・デ・ニーロ主演の映画で、とっても見応えがあります。これで2回目か。

 【シムソンズ】はなんだろうと思ってみてみたら、思い出しました。2,3年前に同名の本が出版され読んだことを。つまり、この前の冬季オリンピックで一躍脚光を浴びた、国民の間に知れ渡った”カーリング”に挑戦した女子高校生4人の物語です。

 北海道は常呂町(ところちょう)での物語です。チーム名も本当はアメリカのテレビドラマにちなんで「シンプソンズ」にするつもりだったというところが面白いです。

 「フラガール」や「スウィングガールズ」の系列になるのでしょうが、こういう清清しい爽やかな映画もいいものです。

 

 そのほかに気がついたこと、なんとナント何とTBS系列で「華麗なる一族」を再放送しているのですね。一日に2時間ずつだから、2話ずつということですか。チラッと見てみました。

 

(きのうの続きです。ここからが本番です。)

 品川さんたちは、昭和21年5月1日に復員となりました。日本に向かう船の上で、日本国憲法草案が発表された新聞を見たそうです。上官が、日本の憲法がこう変わるということを知った上で上陸するようにと言ったといいます。

 9条を読んで全員が泣きました。よもや憲法で戦争放棄をうたっているとは、そこまで突っ込んで書いてくれたか、全く想像できなかったと。それが現憲法との最初の出会いとなり、そういう憲法がありうるなんて想像もできなかったと。日本国だけが持つ憲法の理念、世界のプレイヤーとしての力を持っている日本としては二度とつくりにくい憲法である。

 

 しかしながら、日本の政党、政治権力は一度も本気で憲法を守ろうとはしなかった。改正はできないから、解釈憲法を続けてきた。一度も憲法を改正しないが、自衛隊はでき、有事法制が制定され、イラクに自衛隊が派遣派遣されるまでになった。憲法第9条の旗はぼろぼろである。しかし、国民は憲法の旗竿を握って放そうとしていない。

 憲法をめぐるきわめて異常な現象、60年間支配層と国民とのねじれが続いている。安倍内閣は5年以内に憲法を改正すると言い出した。 しかし、7月の参議院選挙で国民は初めて主権を発動した選挙と思っている、確信している。一度一応改憲は遠のいた。

 大連立構想や国連決議、集団安保下国連決議があれば第9条があっても自衛隊を派遣できる等の発言をしている小沢は、日本の憲法を汚している。

 

  憲法第9条は「戦争を人間の目で見る」という思想、これに対して国連は「戦争を国家の目でしか見られない」。日本国憲法は、国連憲章よりも一歩先を行っている。正義の戦争もやらないのが日本の憲法である。人間という視点を持つことが大切。

 そのためには、① 国家の目で見るのか、人間の目で見るのか、いつでも自覚していて欲しい。② 戦争は国が起こしたのではない。起こすのは人間、止めることができるのも人間である。戦争を起こそうと考えるのは人間で、自分はどちら側の人間なのか、一番基本の座標軸を持って欲しい。

 品川さんは、若い頃国家が起こした戦争の中での人間の生き方はどうあるべきか、悩んだといいますが、その問い自体が間違っていた、何のために哲学を勉強したのか、自分をののしったそうです。

 誰が戦争を始めようとしているのか、いざ戦争となれば、全て相手が悪くなる。だから今言わないといけない、と。

 

 若い人向きに、普遍的に言うと、① 戦争は勝つためには全てを犠牲にする。自由、人権、命さえも勝ってからとなり、価値観が転倒する。② 戦争は全てを動員する。学問も。ロボットは戦争で使える。③ 権力の中枢に戦争指導者が入らざるを得ない。

 (続きは明日に)


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

品川 正治さんの公開授業(その2)

2007-12-28 23:37:42 | お知らせ

 お待たせしました。

 気を取り直してサイド講演の内容を入力しましたので、3回に分けてお知らせさせていただきます。自分だけのものにしておくのはもったいないので、少しでも多くの人に知ってもらいたくて。

 

 「一身にして二世を生きている。」と自分のことを表現していました。つまり、24歳までとそれ以降の戦後の時代の二つ。子どものときから戦争時代で、正真正銘の「戦中派」といいます。高校(三高)2年生の時に兵隊として戦場へ行きました。単に軍国少年として戦場に行ったのではなく、この戦争は本当に正しいのかという自分の思想形成中に戦地にいったということで「戦中派」ということだそうです。

 高校の2年の間に何を勉強するかは学生にとっては大きな問題でした。学校も先生方も寛大さを持っていたと言います。授業終了後、生徒ではなく先生の方から生徒に対して深くお礼をしたというのです。

 その当時、もう既に召集令状をもらい、あの先生の授業を聞きたいという学生がいたからです。

 学生の要望として、三好達治の話しを聞きたいといううことがあり、学校がお願いして話しをしてもらいました。五回授業を行い、5回目の授業の最後には号泣したそうです。「君たちを死なして、詩を作る、それが人生か」といって、うずくまってしまったとか。

 品川さん前後の人にはそういう経験はなく、いわば特殊な生活があった。

 

 品川さんの願望として、カントの「純粋理性批判」を原書で読んで死にたいという願望があり、そのことを先生に話したら、余白がびっしりと書き込みで埋まっている先生の本を借りることができて、なおかつ先生がドイツ語まで教えてくれて、何とか読了しました。

 読了した2週間後に召集、高校2年生で現役の召集で、鳥取の連隊に入営しました。

 連隊では、連隊全員が集められたところで、連隊長のあいさつがあり、この者たちは死にに行くのだから、いじめは許さない、いじめたやつは叩き切ると言ったそうです。だから軍隊に入っても新兵いじめは経験しなかった。これも珍しいこと。しかし、入営後2週間で中国の前線に送られました。

 

  品川さんは、今まで戦争体験を話してこなかったそうです。しかし、83歳になって、今言わないと誰も言わなくなると思い、話し始めました。

 話さなかったことには、大きな理由がありました。「戦争体験ほど人様々なことはない。」 

 ニューギニア、レイテ、インパール等の南方戦線にいた人を前にしてはとても話せない。そこでは70%の人たちが餓死し、動けなくなって「さようなら」といった日が戦死の日となったといいます。

 また、硫黄島や沖縄では玉砕しか道がなかった。それでもうその心情を察すると戦場の話はできなくなる。そういう人たちはほとんど死んでしまった。

 戦争の悲惨な話しをしても、「そんな戦場にいて、どうしてあなたは助かったのか」という一言、それを言われるともう後は続かない、何も言えなくなる。60年間のトラウマとなっている。話せといっても難しいのだと。

 

  品川さんも中国戦線で交戦中、隣の壕にいて被弾して苦しんでいる戦友を助けられなかったことがトラウマとして残っている。

 戦争の記録は非常に難しい、戦争の記憶は皆同じではない、と。中国戦線では8月15日は何の意味も持たない。国共内戦のため、11月まで戦闘状態が続いたから。このことは「蟻の兵隊」に詳しく載っている。

 品川さんの部隊は11月に武装解除され、捕虜収容所に入れられます。そこでものすごく激しい軍内部での激論があったそうです。陸軍士官学校での将校たちが、日本政府を弾劾するという署名活動を始めたから。日本政府は8月15日を終戦とし、敗戦とは言わなかった、これでは再起することができない、ごまかしは許せないという檄文をつくって署名をはじめた。

 これに対して、戦闘部隊は真っ向から反対して、「二度と戦争をしない」ということの”終戦”でいいじゃないか、と。結局は戦闘部隊の考えが主流となり、署名活動はなくなった。     (以下明日に続く。)


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

沖縄戦・集団自決について

2007-12-27 23:39:40 | お知らせ

 沖縄戦での悲劇「集団自決」について、昨日26日一応の決着が着いたようです。

 朝日新聞によると、「『日本軍が強制した』という直接的な記述は避けつつ、『軍の関与』や『戦中の軍の教育』などによって住民が自決に追い込まれたと記しており、『集団自決が起きたのは、日本軍の行為が主たる原因』と読めるないようになった。」ということです。

 

 これなんかは常識的に考えれば、当たり前のことなのに、当時の首相、戦後最低の無責任、破廉恥きわまる安倍の史観が反映されたために、記述がおかしくなったものと考えます。事実を事実として認めることを潔しとしない、何とかして美化しようという意識が働いたためと思います。

 

 それはそれとして、今日紹介するのは、沖縄守備隊第32軍の司令官だった牛島満中将の孫に当たる小学校の先生の考えです。

 ”世界2008-1臨時増刊「沖縄戦と集団自決」”に掲載されていたものです。牛島貞満さん、1953年生まれです。同じ孫でも、東条英機の孫のおばはんとは完璧に異なる立派な孫です。

 

 彼はきちんと自分の立場と言うものを自覚した上で、東京と沖縄で平和教育をしているという、素晴らしい教員です。

 祖父の二つの命令が沖縄住民に多大な犠牲を強いたと述べています。

 一つは、首里から南部への撤退命令であり、もう一つは自決時の命令、「各部隊は生存者中の上級者これを指揮し、最後まで敢闘し、もって悠久の大義に生くべし」だそうです。

 

 つまり、5月22日の作戦会議後、司令部は軍を、首里から南部に移動させることにしたため、南部一体は、軍隊と住民の混在する戦場となり、壕からの追い出し、住民虐殺や、それと表裏一体の関係にある集団死がおきてしまった。

 また、6月22日未明に牛島司令官が自決したために、戦闘を終了させることの出来る司令官が、最後の一兵まで闘えと言う命令を出して自決してしまったために、沖縄戦は終わりなき戦争になってしまった。

 そのため沖縄では組織的なゲリラ戦に変更されて、戦闘行為は継続され、8月15日以降も戦闘は続いた。軍の規律では、上部からの武装解除の命令がない限り、投降は「敵前逃亡」にあたり、正式には9月7日の嘉手納での南西諸島司令官による調印によって沖縄戦は終了したのだそうです。(沖縄での終戦は8月15日ではなく、9月7日だということは前にこのブログでも書きました。思い出されるのは元日本兵の横井正一(庄一)さんや小野田少尉です。小野田少尉は武装解除の命令がないと投降できないといって、現地で投降の儀式を行ったじゃないですか。)

 

 そしてこういっています。「集団死をめぐって軍命の有無が取りざたされていますが、当時は軍政下にあったのですから、県全体では32軍の司令官である牛島中将が最高の権限を持っており、そこでおきたことには責任を有しています。離島においては、そこで起きた事象についての責任は、そこの日本軍の部隊長にあることは当然だと思います。第32軍は、『防諜』を徹底指導し、住民にも投降を認めていませんでした。逃げ場のない離島に米軍が上陸してきたとき、軍から手榴弾が渡されれば、それが意味することは明白です。」と。

 

 そして、最後に、祖父は非情な人だったとは思われないし、国際法規にも通じていて、軍が南部に撤退すれば住民が犠牲になることは分かっていたはずなのに、なぜ首里で戦争を終わらせなかったのか、なぜその道を選ばなかったのか、永遠のテーマといっています。(硫黄島の守備隊長栗林中将も徹底抗戦、安易な死、万歳突撃を許さず、最後の一兵まで闘うように命令していましたが、硫黄島と沖縄では事情が違います。)

 

 なんにしても、いえることは『軍隊は住民を守らなかった』ということです。沖縄戦は、本土決戦のための時間稼ぎあり、本土防衛の防波堤であったからです。

 今回のことを肝に銘じ、我々はもう一度沖縄に思いを馳せ、沖縄のことを知ろうと努力しようではありませんか。そういう義務があると思います。

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

整形外科

2007-12-26 22:43:57 | お知らせ

 写真は25日、クリスマスの夜の仙台駅東口の模様です。

 仙台駅もイルミネーションで着飾っています。

 一次会の後に撮ったもので、当然?ブレテイマス。ご容赦のほどを。

 

 昨日の午前中のことですが、遂にというか、とうとうというか整形外科にかかってしまいました。

 近くにある外科・整形外科のS病院です。

 ここと自分のつながりは、小学1年生の時から始まります。むかし、むか~しのことですが、小学校1年生のまだ初めの頃ではないかと思うのですが、教室で友達と遊んでいたときですか、何かの拍子に押されて机の間に転んでしまい、そのときに唇の中を切ってしまいました。

 そのときに先生にここのS病院に連れてきてもらいました。2,3針縫いました。怪我をして傷口を縫ったのは、これが初めてでした。

 ちなみにその後4年生のときにも眉毛の当りをぶつけて切ってしまい、数針縫ったことがあり、小学校は2回だけ、2回目もS病院でした。

 その後中学校でも3年生の時に、体育の授業のときに頭のてっぺんをバスケットボールのバスケットを移動させる歯車にぶつけてしまい、数針縫うことになりました。このときは学校の近くの外科に行きましたが、とっくの昔に廃業してしまいました。

 

 そんなことを書くつもりではなかったのですが、S病院に久し振りに入ってビックリ。内装が新しくなっている。窓口に人は変わってないようだが、看護婦(看護士)さんはかなり変わっている。

 何よりも一番変わっていたのは、先生です。入ってすぐに、飾ってあった石の当番表が目に入りました。管理者は変わっていないのですが、曜日ごとの担当医が変わっている。半分は近くの東北大学の医学部から、後の半分は開業医でしょうか、個人の名前が書いてありました。

 でもこのときは応援を頼んでいるのかなと思っていたのですが、窓口での患者と受付の人のやり取りを聞くともなく聞いていると、S先生は入院していたらしいのだ。何があったのかは分かりませんが。

 

 今の先生は、大先生の長男です。当然私が最初にお世話になったのはその大先生です。太り気味のがっちりした頼りがいのある先生でした。大先生は、後年バセドー氏病にかかり、左右のどちらかの目が飛び出していました。

 S病院には私のほか子どもも親もお世話になっていました。こどもは大先生の目を見てビックリしていました(誰でもそうですが)。

 大先生が引退した後は、二人の息子が後を継ぎ、この病院は安泰とばかり思っていたのですが、ナントなんと何と弟の方が先に亡くなってしまいました。もう10年以上になりますか。外科と整形外科の専門医が揃ったのにです。

 

 残った先生は長男の先生。外科で、専門は食道外科といっていましたが、この病院は救急告示病院でもあり、交通事故等の患者も受け入れていました。

 仕事でも知り合いになったりして、この先生とは親しくなり、診察でも冗談を言える関係だったのです。一家がお世話になっていましたし。

 

 それで、きのう久し振りにS病院に行き、S先生と話しができるかと楽しみにしていたのですが・・・。この先生も外科の先生らしく?気さくな先生で安心して任せられる、信頼できる先生でした。

 

 その先生が入院していたとは。後で聞くと今は自宅療養とのことです。何時復帰するかとか、なんで入院したのか等は聞きませんでした。

 さびしかかったですね。一刻も早い復帰を願うばかりです。何といっても地域の外科関係のなくてはならない病院ですから。いろいろな思い出の一杯ある病院ですから。

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

最後の忘年会

2007-12-25 22:56:05 | お知らせ

 いやあ、今日も飲んで来ました。今年最後の忘年会です。

 すっかり酔っ払っています。なにしろ二次会まで行ったのですから。

 「引き続き報道ステーションをお送りします。」というテレビの声が聞こえてきました。そうですか、異議なし!やってください!文句は言いません!!

 

 何か明日は寒いようですね。皆さん、くれぐれも風邪、インフルエンザにかかりませんように、酔っ払いのサンタクロースからお祈り申し上げます。

 

 写真は、昨日の広瀬川の河川敷での光景です。

 嬉しかったです。凧揚げの子どもがいたのですから。アメリカの凧という所はいまいち気にくいませんが、まあいいでしょう。

 ひとりで蛸を揚げる、No,凧を揚げる少年の姿、いいじゃありませんか。

 できるならば、もっと沢山の子どもたちに凧を揚げてほしいですが・・・。

 

 私たちが子どもの頃はもっともっと沢山の人が堤防から凧を揚げていました。皆で競争しながら揚げたものです。また、よく揚がったものです。

 人が乗ってもいいくらいの大きな凧もありました。凧の尻尾が何となんとナント荒縄の凧もありました。

 冬と言えば、外では凧揚げ、こま回し、そりすべりでしょうか。でもできればたこは和凧、自作の凧にしてもらいたいものですが、今は無理な注文なのでしょうね。

 

 そりだって、竹を半分に切って、先のほうを火であぶって曲げて、台車に取り付けて遊んだものです。雪が降って、積もってくれないと出来ないことですが。

 眠くなってきました。もう限界です。寝ますが、その前にお風呂に入ってきます。何かお風呂で寝てしまうような気がします。

 

 そういう訳で、今日はこの辺で、中途半端で失礼します。。。、

 GOOD NIGHT!! Merry!CHRISTMAS!!

 キリスト様、お釈迦様、人類に来年はいい年でありますように。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

品川 正治さんの公開授業(その1)

2007-12-24 23:29:33 | お知らせ

 その前に、写真は今日12月24日、クリスマスイブの広瀬川です。

 

 水はますます減少しています。

 川底の小石が顔を出しています。

 

 このところはあんまり寒くはないので、この時期としては穏やかな表情の広瀬川です。

 

 

(本番です)

 今日から3回くらいに分けて経済界のご意見番「品川 正治」さんの公開授業の様子をお知らせしたいと思っています。

 思っていますが、そのとおり行くかどうか不安になってきました。

 まとめておいた授業(講演)の記録が、前の方の四分の一くらいで切れているではありませんか。

 彼が言いたかった肝心のことが伝えられるかどうか、心もとなくなってきました。

 今日はプロローグ部分だけとなります。続きは27日以降になるかもしれません。紹介できればいいけど、もしかしてできなくなるかもしれません。その時は悪しからずご容赦ください。

 

 

 

 “若者と共に語る 日本の希望”“経済界のご意見番 品川 正治さん公開授業in仙台”に参加してきましたので、2回くらいに分けて報告します。<o:p></o:p>

 これは、2007年度の宮城高教組文化行事ということで、12月22日(土)午後から開催されました。宮城高教組文化行事に参加するのは初めてのことです。<o:p></o:p>

 前から「品川 正治(まさじ)」さんのことはjan janの記事等から知っていて、財界人にこういう高潔な、高邁な理想を持ち続け、かつ発言し続けている人がいるのかとずーといい意味で興味を持っていた人物です。経済同友会の終身幹事であり、財団法人国際開発センターの会長をしています。

<o:p></o:p> 

 パンフレットには、「経済は人のためにあるのであって、経済のために人があるのではない」、「自分たちのビジネスチャンス拡大のために国のあり方に手をつけることは許されない」と主張している、とあります。<o:p></o:p>

 日中戦争に従軍し、負傷して、右足には銃弾が残っているそうです。従軍の経験から平和憲法、特に第9条のありがたさを身をもって知り、その考えをもとに発言、苦言を呈することが多いのですが、をしています。現在83歳です。<o:p></o:p>

 <o:p></o:p>

 公開授業は、前半が品川さんの講演、後半は生徒との討論という形で進みました。<o:p></o:p>

 こういう形式は初めての経験ですが、品川さんが先生で、高校生や大学生、社会人(教員や弁護士等)36名が生徒となり、壇上に学校の教室のように机や椅子を配置してあり、我々聴衆はその授業の様子を見ているというものです。<o:p></o:p>

 授業の前には。懐かしいチャイムが鳴り、先生が入ってくると生徒会長が起立・礼を指導します。<o:p></o:p>

 <o:p></o:p>

 品川さんは割りと小柄な痩せ型の人で、話はゆっくり、ゆったり一言一言をはっきりと発言します。とても聞きやすいですし、早口ではないのでメモも取りやすかったです。これも人柄なんですね。人の前ではこういう風にしゃべりたいものだと思った次第です。

 

 

 以下27日以降に続く(ことを願っています)。<o:p></o:p>


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

天皇誕生日と・・・

2007-12-23 22:49:36 | 思いつくまま

 今日12月23日は天皇誕生日です。満74歳ということです。

平成天皇の誕生日となりましたが、それ以前は、昭和時代は皇太子の誕生日ということで、別に祝日ではありませんでした。

 

 そのためか日中は街中を右翼の街宣車が走り回り、相も変わらず戦前と戦中の軍歌を鳴り響かせていました。毎度毎度の光景です。

 しかし、今日23日という日はそれだけではありません。それ以上に重大な日でもあります。

 

 1948年ですから、今上天皇は15歳くらいの皇太子のときになるのでしょうか、1948年・昭和23年12月23日に、アジア太平洋戦争で連合国軍による極東軍事裁判において、いわゆるA級戦犯とされ死刑を求刑された7人の死刑が執行された日なのです。

 

 このことはマスコミはあまり報道しません。でも、改めて日本にとって8月15日と同じくらい注目すべき日としてもいいのではないでしょうか。改めて先の戦争責任を国民全体で考える日にしてもいいのではないかと考えます。

 夏と冬の2回考える。そのくらいしないと、もともと忘れっぽい日本人はますます忘却の彼方に追いやってしまいそうで、それは芳しいこととは思いません。

 

 結局、戦争犯罪人については7人の処刑だけで終わってしまった感じで、その後の日本人による日本及び日本人の責任追及が疎かになってしまい、それが現在まで尾を引いているといえないでしょうか。

 

 靖国の問題、南京虐殺や沖縄の集団自決の問題、従軍慰安婦の問題等明確に検証してこなかったつけが戦後60年以上もたっているというのに、また昭和の時代が終わったというのに、何にも決着がついていないことにつながっている。加害者としては早く忘れようとしても、被害者は忘れないということを忘れている。このような不幸な状態が一体いつまで続いていくのでしょうか。

 

 連合国は、アメリカはなぜ12月23日という皇太子の誕生日にA級戦犯を処刑したのか、何かで読んだ記憶がありますが、あえてこの日を選んで処刑したのだと。それだけ連合国側にとって日本・日本軍は憎悪の対象でもあったわけです。あの戦争を忘れないようにしようということもあったのでしょうか。俗な言葉で言えば嫌がらせ、見せしめでもあるようですが。

 

 ですが、今の日本は企業は最高の利益を得ているというのに、社員には還元されず、儲ければ儲けるほどますますグローバル化の名の下にリストラが横行し、正社員になるのは狭き門、なったらなったで過酷な労働条件で長続きはしたくてもできない状態の労働者の実態がありますが、これは全て小泉・安部ライン、及び竹中平蔵ら売国奴による日本のアメリカ化の結果です。一体いつまで続くのでしょう、どこまでアメリカに隷従し続けるのでしょうか。日本人の誇りはどこに行ってしまったのでしょう。

 

 ちなみに死刑が執行された7人の遺体は、横浜市の久保山火葬場で火葬され、遺骨はアメリカ軍により東京湾に捨てられたということです。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

12/22(その2)ベロタクシー

2007-12-22 23:09:39 | お知らせ

 写真は、昨日の朝出勤途上にホテルの駐車場で見かけたベロタクシーです。

 5台も揃って駐車しているのを見たのは初めてです。この奥に3台駐車していました。

 お祭りのためにいつもとは異なり着飾っています。昔の市電の花電車みたい(触れると長くなるのでやめますが)。

 

 最初「ベロタクシー」と聞いて変な名前と思いました。仙台に導入されたのは2005年4月のようで、3年目ですか。ついでに日本で最初に導入したのは京都市だそうです。

 ベロは”VELO”のラテン語で”自転車”を意味するとか。1997年にドイツで開発された高性能な自転車タクシーということです。

 

 2,3人を乗せて街中を走っていますが、見た目ほどには運転は辛くはないようです。高性能と言うだけあって、電動アシスト機能や、油圧式ディスクブレーキもついているとか。

 

 光のページェントの期間中だけの料金なのか、一番町の141ビルとメディアテークの間を往復して500円らしいです。

 

 乗ってみたくもあり、乗ってみたくもなし・・・

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

12/22(その1)光のページェント(12/21)

2007-12-22 22:44:33 | お知らせ

 写真は賑わっているSENDAI光のページェント。

 

 私のデジカメでは、夜景はうまく撮れません。「手ぶれがしています。保存しますか?」ときいてくるので、機械に聞かれたら素直にハイとは言いにくい。

 そうすると何度も何度も撮ることになってしまう。だけどうまくは撮れない。三脚が必要となるのでしょう。

 手ぶれ防止機能がついていればいいのでしょうが、手ブレを教えてくれるだけで、帽子はしてくれません。この帽子ではなく、防止です。

 

 でも考えによっては、わざとぶれた写真を撮る人もいるわけで、ぶれたことによって臨場感が出てくれればいいのですが、そうはいかないところが、素人の浅墓さ?でしょうか。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

まだ見ぬ、父へ、母へ

2007-12-21 23:44:13 | お知らせ

 皆さん!見ましたか?!

 よかったですねぇ~。感動しました。

 やるじゃないですか、小池徹平君!!

 泣かせるじゃないですか!

 いしだあゆみの演技もすごかった。鬼気迫るものがあった。すっかり女優いしだあゆみとなってしまいました。

 

 まだ、感動の余韻に浸っていますが、まさか最初のシーンから私がエキストラとして出演したシーンが出てくるなんて・・・。

 でも、あれだけ練習した弦楽四重奏の演奏場面が出ないなんて???

 

 妻に聞いたら、分かりました、ずーと思い出せなかった曲名が。

 弦楽四重奏の素晴らしいメロディ、テレビでもバックミュージックとして流れていましたが、妻が言うには『慈しみ深き』(日本名)だそうです。

 これでひとつすっきりしました。

 

 当然のことですが、私は後姿のシルエットが美しい?(勝手に)観衆(聴き手)として、その他大勢の観客の一人として映っていました。中央の一番前の端です。だから、本人でなければ分かりません。

 宮城学院大学では、夏なのに冬の格好で、マフラーを巻いての演技でした。撮影日は朝から暑かったですよ。暑さを露とも感じさせないなんてさすが俳優です。(聞くところによると、ベテラン俳優ともなると汗までコントロールできるとか)

 

 宮城学院大学と東北学院大学は普通に、せんだい・宮城フィルムコミッションの名前はその他大勢のひとつとして、最後に流れました。

 

 これでまた一つ楽しみがなくなってしまった。

 

 それにしても、新垣勉さんは本当に苦労した人なんですね。今度じっくり彼の歌を聞いてみたいと思っています。

 

 唐突ですが、ずーと気になっていたこと、最後に薬害肝炎訴訟の人たちに一言、心から支援しています。福田や枡添ごとき人間の屑に、辛いでしょうが、今後とも負けないで団結して闘ってください。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

尺鮎トラスト No.13

2007-12-20 23:47:32 | お知らせ

 昨日ですか、「川辺川を守りたい女性たちの会」が発行している”尺鮎トラスト通信No.13”が送られてきました。

 

 今年の川辺川は、天然遡上の鮎が少なく、かつ解禁当初は鮎が小さく、、つゆから8月下旬までは、台風2号や梅雨、そして台風4号による増水・濁水のため不漁が続いたそうです。

 

 8月下旬からは大きな鮎が獲れ始め、9月後半には大アユが友釣りや網にかかり始め、終盤の落ち鮎時には尺鮎が沢山獲れたようです。

 

 記事によると、9月下旬に北九州市から来た釣り人が尺鮎を釣ったのですが、その尺鮎といったら、30.3センチどころではありません。

 何と・なんと・ナント、驚くなかれ!最大の尺鮎は34センチもあったというのです。重量は453グラムです。鮎竿2本分の重さです。

 彼は2週間連続して尺鮎を掛けたそうです。鮎が少なかったから大きく育ったようで、複雑な気持ちになりますが、それでも正直羨ましいばかりです。

 

 もう次官が亡くなってしまいました、は防衛省か、時間がなくなってきました。中途半端ですが、今日はこの辺で失礼致します。

 風邪を引かないように。

 

 

コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

忘年会

2007-12-19 23:29:20 | お知らせ

 今年も残りは2週間を切ってしまいました。

 早いですねぇ~。

 

 皆さん、今年もいろいろお世話になりました。

 皆さん、よいお年をお迎えください。

 来年もこのブログをよろしくお願いします。

 読まなくてもいいから、アクセスだけしてくださあ~い~。

 やっぱり、アクセスが少ないと気力が萎えてしまいます。

 私を生かすも殺すも、そうです、あなた次第です。

 

 

 いやあ、街中は忘年会、酔っ払いで溢れています。

 私もその一員です。

 でも飲めば酔います。当たり前です。それでいいのです。

 お酒は楽しく飲みましょう!!!

 

 そうなのです。今日は「青葉カワセミ会」の忘年会がありました。

 「青葉カワセミ会」万歳!!、万々歳!!!永遠に幸あれかし。

 

 二次会では、知らないおじさんたちと楽しく飲み、歌ってきました。

 人類は皆兄弟なのです。

 世界に平和が訪れますように!!

 そのためには、”打倒!米帝国主義”が必須なのです。

 世界の悪性ウイルス、”ブッシュ帝国”を、この世から抹消しましょう!!

 そうなれば、世界に平和が訪れるでしょう!!

 

 何を書いているのでしょうか???酔人の戯言でした。

 

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

与 勇輝展

2007-12-18 22:29:01 | お知らせ

 仕事の帰りに、近くのデパートで開催中の「与 勇輝・人形芸術の世界」を見てきました。昨日か、夕方の地元のテレビで開催を知りました。

 「あたえ ゆうき」と読みます。本名だそうです。すごいですね。人に勇気を与える、それも輝かしい勇気を。

 

 人形は思っていたよりも小さいのです。30センチあるかどうか、それより小さいのも多いです。

 よくもここまで細部に拘ったものだと、ほとほと感心しながら観て来ました。髪の毛、着物の折り目というかしわ、下駄まで。そして何といっても表情、顔の表情が素晴らしい。

 

 ノスタルジーを否が応でも感じさせられてしまう、柔らかく暖かい表情は見ている者を和ませます。子どもはとってもかわいいし、何て生き生きとしていることでしょう!!

 うん、うん、そうだな、この表情だ、この仕草、これが日本の原点だ、とひとりで納得しながら観てきました。

 

 写真は一通り見た後で購入した、B5とA4版のファイルとメモ帳です。

 

 観覧料は700円です。

 

 宮城県出身の彫刻家佐藤忠良氏に励まされて、人形制作に全身全霊を傾けたようで、何か少し嬉しいような気がします。

 以前10数回にわたって紹介した宮城県美術館には、地元の彫刻家佐藤忠良氏の作品が一杯あります。

コメント (1)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする