鮎と戯れて・・・魚族に感謝

東北地方を中心とした短い夏のあまり多くない鮎釣りの記録。家族に感謝して。近くの広瀬川の環境等にも拘るも、オフは時事問題も

9月の報告

2008-10-31 20:58:07 | お知らせ

 早いものでもう10月もおしまい。

 いよいよ11月。

 今年も残り2ヶ月。

 光のページェント、クリスマス、そしてお正月。

 

 9月の報告です。

 9月の30日間の平均の閲覧数は195件、訪問者数(アクセスIP数)は81人でした。

 閲覧数の最高は29日の340件、次が16日の329件、10日の316件と続きます。

 訪問者数は、14日の142人、10日の126人、16日の111人と続きます。

 ありがとうございました。 今後ともよろしくお願いします。(これで終わりません)

 

 

 アユ釣り期間の3ヶ月間の一日平均は下記の通りです。

 

  (月)    閲覧数    訪問者数

  7月      152      69

  8月      210     78     ※ 210件は過去最高です。

  9月      195      81

 

 8月と比べると、閲覧数は少なくなったけど、訪問者数は少し増えました。

 このブログは”アユ釣り”のためのブログですので、私としても上記の3ヶ月間が中心で、一番力が入ったところですが、残念ながらまだまだ伸びません。

 来年度に向けての課題と認識して、打開策?を考えていきたいと思っていますが、果たしてどうなることやら・・・。

 

 

 3ヶ月間の前年同月比は下記の通りです。一日平均です。

 

   月      閲覧数         訪問者数

        (2007) / (2008)   (2007) / (2008)

   7     139  /  152      71 / 69

   8     199  /  210    82  /  78

   9     187  /  195    83  /  81

 

 今年の傾向として、閲覧数は増えていても、訪問者数はいずれも減っています。

 ということは芳しいことではない、一年経っているのにこれではいけない(何が?) 何とかしないと、と改めて思ってしまう神無月の最後の日の夜でした。

 

 冷え込んできました。 風邪等引きませんように。

 


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少年ケニア

2008-10-29 23:21:55 | 思いつくまま

 昨日アップした写真の3枚目の説明をすることをすっかり忘れていました。 これは、26日の町内会の芋煮会に先立って行われた河川の清掃の時に見つけたものです。 宮城県警察のもので、駐車違反の車かバイク用のもののようです。 車輪をロックするというか、回らなくする、だから走れなくするためのものですか。 まあどうでもいいのですが、こんなものも川に捨てられていたということです。

 

 今日の中心は”少年ケニア”です。 角川文庫版の全20冊です。

 1巻目は昭和58年9月15日に出版されました。 20巻目は昭和59年2月10日の発行です。 6ヶ月の間に20巻が発行されたことになります。 1巻240ページくらいで、定価は380円です。

 作者は、既に皆さまご存知の、国民的劇作家「山川惣治」です。

 昭和26年から4年間、産業経済新聞に連載されたといいます。 

 

 

 第1巻には社長?角川春樹の「発刊の辞」が掲載されています。

 

 「子供たちに、『夢』をつたえたい。 美しく気高いもの、真心、愛、優しさ、誇り、勇気、知恵、忍耐、努力、正義、そして冒険心。現代に失われつつある大切なもの、健康な輝きにあふれた『夢』を、子供たちにつたえたい。・・・・。」

 

 そして、あとがきと言うか解説と言うか、1巻の最後にはあの阿久 悠が7ページに渡って「あのアナーキーな少年の日に」と題して書いています。

 

 

 少年ケニアといえば、ワタル・ケート・ゼガ、そして大蛇ダーナです。

 上の写真の中央見開きのものは1巻のカラー口絵の一枚です。 ゼガとダーナです。

 下左の3巻はワタルとケートが表紙を飾っていますし、右側は2巻の表紙で、とぐろを巻いている大蛇ダーナです。

 

 なぜ角川文庫の少年ケニアを購入したか、一つにはとっても悔しい思いがあるからです。

 

 小学校の5年か6年のときです。当時は学校の講堂(体育館ではありません)で、年に何回か映画を見せてくれました。 黒白映画の「少年ケニア」も見せてもらいました。 とっても迫力が感じられ、胸を躍らせながら見ていました。 ワタルが窮地に追い込まれたときです、大蛇ダーナが助けに来たわけです。鎌首を持ち上げて、悪者たちをやっつけようと、最高に盛り上がったときに、何となんとナント”フィルム切れ”。

 しばらく待ってもつながりません。 とうとうそのままで映画会は終了となってしまいました。 ガッカリです、折角これからいい場面が始まるというのに、古くなったのでしょうか、フィルムが切れてしまったわけです。

 今でもそのときの残念さはまだ残っています。

 

 

 それから何十年が経ったのでしょうか、28年くらいですか、少年ケニアが発行されました。

 結婚もして子どもも一人いました。 長男に読んでやろうかなという気持ちと、自分としてもこの際きちんと物語を読んでみようと思ったわけです。

 発売されるとすぐに購入し、夜寝る前に子どもに読んでやることにしました。 1ページの上段が絵で、下段は文章と言う構成ですので、感情を込めて読んでやると子どもも乗ってきます。飽きません。

 ハラハラドキドキの連続ですし、ストーリーも飽きさせませんでした。 寝る前の本読みが習慣となりました。 

 

 そしていつしか子どもよりも私のほうが夢中になっていました。引き込まれていました。 終わりが近付くにつれ感動がジワジワと滲み出て、読み終えたときは感動に包まれて、本当に幸せな気持ちになりました。 ようやく希望が叶ったという思いもあったのでしょうか。

 

 上の写真の右側は1巻の始まりの絵、左側は20巻の最後の部分です。

 大蛇ダーナと大酋長ゼガ、いい絵です。

 

 それでは今日はこの辺で、

 


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日中平和友好条約30年

2008-10-28 23:19:34 | 思いつくまま

 先週のことになりますが、23日は日中平和友好条約が発効してから30年が経ちました。

 条約が締結されたのは1978年8月12日で、条約が発効したのが同年10月23日です。

 

 でも、日中平和友好条約の締結・発効というよりは、その6年前にた田中角栄と周恩来との間で締結された”日中共同声明”の方が印象としては強いのではないかと思います。

 日中共同声明の締結は、1972年(昭和47年)9月29日です。 

 

 その前のニクソン大統領の訪中の方がインパクトがあったですね。日本人にとってはショックといってもいいかもしれません。

 新聞の一面トップにでかでかとニクソン大統領と毛沢東国家主席が握手している写真が掲載されたものでした。

 

 それはそれとして、今日の紹介は何となんとナント赤い豆単(懐かしいですね、旺文社の「赤尾の豆単」、お世話になりました。)ならぬ”毛主席語録”です。

 

 

 写真を見て懐かしさを覚える人は少ないかもしれません。忌々しい思い出を持っている人が多いのかも。

 

 ページをめくると、目次の前に ”万国のプロレタリア団結せよ” と書かれた一枚があります。次に ”毛主席語録 ★ 中華書店” 、さらに次葉には ”毛沢東の写真”、さらにさらにソ連に逃亡しようとして撃墜された林彪の言葉 ”毛主席の著作を読み、毛主席の話を聞き、毛主席の指示どおりに事をはこぼう。”と書かれたページがあり、目次へと続きます。

 目次の項目は「一、共産党」から「三十三、学習まで33の項目があります。

 

 発行は1966年(昭和41年)11月です。 出版社は中日出版社。 出版社の住所は東京都杉並区本天沼となっています。 もちろん日本語版です。

 私が入手したのは翌1967年4月4日に仙台市内の書店から、180円で購入しました。

 

 そのころの中国は文化大革命(正確には「プロレタリア文化大革命」ですか)の嵐が吹き荒れていて、評価する者、評価しない者に分かれて日本でも大きな議論になったことを覚えています。

 「紅衛兵」 「造反有理」 「反面教師」 「自立更生」 懐かしい言葉です。  紅衛兵が手に持っていたのが”毛主席語録”でした。

 

 

 2枚目の写真の説明です。左上の本は中国語の本で、毛沢東の4つの著作 「新民主主義論」 「延安の文学・芸術座談会における講話」 「人民内部の矛盾を正しく処理する問題について」 「中国共産党全国宣伝工作会議における講話」が掲載されています。

 1966年5月人民出版社版です。 日本で120円で購入しました。

 

 右上の本は中国国際書店から贈られた、毛主席語録や写真が入っている手帳です。

 

 

 いろいろ書きだしたらキリがないので止めますが、毛主席語録の「十七、人民に奉仕する」から、

 

 

 『われわれのすべての幹部は、職務上の地位の高低をとわず、すべて人民の勤務員であり、われわれのやることは、すべて人民に奉仕することである。そうである以上、われわれに捨てきれないようなよくないものなどがあるであろうか。』

 

 

 『われわれの責務は、人民にたいして責任をおうことである。一言一句、一つ一つの行動、一つ一つの政策がすべて人民の利益にかなっていなければならないし、もし誤りがあれば、かならずあらためなければならない。これが人民にたいして責任をおうということである。』

 

 

 現実はどうなのでしょうか。中国共産党の幹部や中国人民解放軍の幹部は誠心誠意人民に奉仕しているといえるのでしょうか。富める者と貧しい者との圧倒的な格差は縮小され得るのでしょうか。

 42年後の変貌は当時からは全く想像すらできなかったでしょう。 これからどうなっていくのか、目が離せません。

 

 

 


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町内会の芋煮会

2008-10-27 21:40:24 | お知らせ

 24日は一日中本降り。 翌25日は前日の雨が信じられないくらいの快晴。 そして昨日は薄曇。

 

 そんな中、河原においてうちの町内会主催の豪華な?”芋煮会”が開催されました。 この時期の恒例行事となっています。

 

 役員たちは9時前から集合して準備です。 集会所から鍋や机、ブルーシート、かまどやガスコンロ、ガスボンベ、その他ビンゴゲームの景品、バケツ、氷、ビール、ジュース等を堤防を上り下りして運び出すのが大変なのです。

 実際の芋煮は婦人部が中心となって、大鍋を使ってつくります。

 写真は完成直前の大鍋の芋煮の状況です。 美味そうでしょう。

 

 

 以前は、芋煮会の前に”歩け歩け大会?”を実施し、町内の周辺を老若男女歩いていましたが、一昨年あたりからですか、広瀬川のゴミを拾うことにしています。

 10時過ぎからビニール袋を持って、澱橋から牛越橋までの河川敷公園のゴミ拾い。 私は河原に降りて行って分流の上流域のゴミ拾い。 この前、漁協の清和支部の集まりでゴミを拾ったばかりですが、それでも大きなゴミ袋一杯近くのゴミが集まりました。

 

 

 11時過ぎから芋煮会が始まり、途中子ども会の親子主催での”ビンゴゲーム”は盛り上がりました。 ビンゴゲームは単純ですが、面白いですよね。 沢山の人が集まったところでは、お互いが親しくなるのに大いに貢献します。

 上の写真は、芋煮を一杯食べ、ビンゴゲームの景品をもらってほっとしているところの様子です。

 

 それにしても、どうして日中に飲む酒はこんなに早く人を酔わせるのでしょうか。 缶ビール3本くらいしか飲んでいないのに、後片付けをし、帰宅したらもう限界、2時間余も昼寝してしまいました。

 

(おまけ:分流の上流域の様子)

 

 分流の下流部の様子はこの前アップしましたが、ご覧のように上流部は水が流れていません。 伏流水となっています。

 これからの河川敷の工事で水を通すことになるようですが、深く掘り進むのかどうか。

 いろいろ話を聞くと、中洲の土は半分くらい取るとか、また澱橋手前の左岸側の河川敷には石を敷くとか、言っていますが、果たしてどうなるのか。 今後また住民説明会があったら出てみたいと思っています。

 

 

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飛行機凧

2008-10-22 23:13:22 | 思いつくまま

 また懐かしい本が出てきました。

 飛行機凧の本です。

 子どもに格好いい凧を作ってやりたかったこと、また父親としていい格好したかったことのために正月休みを使って飛行機凧を作ろうと思ったわけです。

 

 

 「大空を飛ぶ 飛行機凧」 発行:誠文堂新光社

 発行は1984年10月15日、定価1,200円となっています。

 今から24年前のものです。

 

 

 実際に作ったのは、上記の写真『スカイホーク』です。

 大きいのです。 こんなに大きい凧の飛行機を作ったのは、もちろん初めてです。

 

 長さは130センチ、幅は90センチもあります。 当然当時の子どもよりはるかに大きいです。

 集中して3、4日で作ったでしょうか。 なかなか上手くできました、我ながら。 

 

 当時は河原で凧揚げをする子どもたちや親子はそこそこいたものです。

 長男と凧を持って河原へ行きました。 何かしら優越感をもって。

 どうだ! 凄いだろう! このように凧を作れるか??そんな気持ちで子どもと二人、広瀬川河原に向かいました。

 

 風もそこそこあり、上手く風に乗ってくれれば十分高く上がると思いました。

 河原に降りて、子どもに凧を持たせ(地面に立てて)、いざ、スタート、走ります。

 

 うまく風を受けて、青空高く飛んでいく凧が希望だったのですが、現実は・・・・・。

 そう、厳しいです。 3メートルくらいは揚がったでしょうか??でもそこから急転直下、地面に叩きつけられました。

 大きいだけに重い、それが落っこちるとダメージは大きい。

 そうなのです、落下したが最後、二度と立ち直れませんでした。 骨組みに支障が生じれば、どうしようもありません。

 

 折角苦労に苦労を重ねて作った飛行機凧ですが、1回も大空に舞うことなくあえなく墜落となってしまいましたとさ・・・・・。よくできたと喜んだのですが・・・・。

 

 親子で傷心のまま、帰宅した次第です。 24年前の小さな出来事でした。


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その後の中洲

2008-10-21 23:34:50 | 広瀬川

 下の写真はどこのものか分かりますか?

 本流は岩盤底、そうです、美術館下の岩盤の瀬です。

 

 今までも中洲の左岸には細い流れがあったのですが、そこをショベルカーが掘り進んでこんなにも広く川幅を取り、本流に合流するようにしたものです。

 

 

 もともとこの辺の広瀬川は全てが岩盤底といってもいい状態です。

 2枚目の写真は細い流れの上流側の状況です。 完全に岩盤が露出しています。 大きく変わりました。 来年はどうなっているのでしょうか?

 

 

 井筒屋の主人といろいろ話をしたのですが、このように川底を掘るにあたっては、漁協の役員(清和支部の、井筒屋さんも)が立ち会っていたそうです。

 もともとはNPO法人「水環境ネット東北」の主導のもとに、工事といいましょうか改修が進められています。

 今、中洲は完全に草や笹竹、低木は刈り取られています。 だからと言って歩きやすくなったとはとても言えません。

 何といっても笹竹が多く、それを切ったものの、5~10センチくらいも地面から茎が残っていて、歩きにくいことと言ったらありません。 非常に危険です。 靴底の浅い靴は危険ですし、転んだりしたらついた手が刺さってしまう危険性があります。 現状では立ち入り禁止にすべきです。

 

 このままにしていおけば、また鬱蒼たるもとの中洲に戻ってしまうのですが、井筒屋さんがいうにはこの中洲に舗道みたいなものをつくるというのです。 縦横につくって、そこなら安心して歩けるように整備する計画があるようです。 確かにそれもそれなりにいい方法、考えではあると思います。

 ここまでくれば今までとは全く異なるような整備をしないと笑われてしまいます。1300万円が無駄になります。

 

 そのほかに、この細い流れ(分流)の活用として、サケの養殖ではないですが、ここからサケの稚魚を放流したいという将来の構想もあるようです。 サケを住民の身近なものとして認識させるだけではなく、子どもたちに環境や生命について考えてもらいたいという考えです。

 

 さらにできることなら、中洲と河川敷に橋を架けたいともいっていました。沈下橋というのでもなく、大水が出たら流されてしまうがまたすぐ元に戻せるような橋といっていましたが。

 

 まあ、今後は漁協や地元の町内会とも話し合って決めていくことになるのでしょうが、私としては、本流側に石を一杯入れて欲しいと思います。 川底を掘って出てきた石は川に戻すとは言っていましたが。

 澱橋の上流に石を入れて流れをつくり、かっての「アユ釣り銀座」を復活させたいものです。 そして、土で覆われてしまった河川敷や中洲も、できるのであれば大小の石で覆って欲しいと思います。

 

 砂やどろを取り払って石で一杯の河原をつくってほしいものです。 実験でもいいから、昔のように澱橋と牛越橋の間に石の河原を復活させたい、そうすれば人の出入りも多くなるだろうし、より川を身近なものと感じるのではないでしょうか。雑草の繁茂がない河川敷を蘇らせたい。

 

 もちろんアユ釣りにもいいと思いますし。 河原を歩きやすくもなります。 釣り人とそれを見る人の距離も縮まります。

 そんなことを考えてしまいましたが、清和支部の本組合員は頼りがいがあるようですし、皆で力をあわせて、旧態依然たる漁協の体質を変えて行きたいと思います。


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広瀬名取漁協清和支部

2008-10-20 22:19:14 | お知らせ

 昨日は、午前中は地元の漁協清和支部の広瀬川清掃と芋煮会、午後はあるパーティ、そして飲み会があり、すっかり酔っ払って帰宅してしまいました。

 そういうわけで、ブログのゆとりはありませんでした。

 

 

 と言うわけで、今日は昨日の午前中のことを簡単に書いていきます。

 昨日は申し分のない快晴、正に芋煮会日和でした。 広瀬川は土曜、日曜は芋煮会の人々で賑わいます。

 一番の賑わい場所は、牛越橋の上流の右岸となりますが、この時期は澱橋のところも芋煮会で賑わいます。

 

 今日の清和支部の集まりは、広瀬川の清掃と支部員同士の懇親が目的のようです。

 10時からということだったのですが、9時50分頃河原に着いたころには既に2箇所で火が起こされていて、もう完全に芋煮会モードでした。

 でも芋煮の準備は怠りなくとも、肝心のゴミを入れるビニール袋を忘れてきたとかで、自宅まで取りに戻るというハプニング。 まあ、こういうのも許されますか。

 

 今日集まった人は20人強の組合員でしょうか。 上流下流に分かれてまずはゴミ拾い。 先月ですか、ある団体主催でクリーン作戦が実施されたのですが、ゴミは完全になくなることはありません。 少し歩いただけで一袋分のゴミは集まります。 何といってもビニールやプラスチック製品が多いです。 ペットボトルは少なかったです。 大物としては自転車や車のタイヤ、塩ビ管とかがありました。

 

 広瀬川クリーン作戦というと、昔々の仙友連(仙台友釣り団体連合会)主催の行事を思い出します。 もう止めてから何年経つのでしょうか。

 当時は先進的な?事業ということで、新聞やテレビの取材を受けたものです。 何といっても、アユの友釣り師が河原だけではなく、川の中のゴミも収集するというところが他の団体にはまねのできない、ユニークな事例だったように思います。 まあ、何のことはない”川の中にゴミがあると細い糸切れの原因となること”、”解禁直前の川の状況を知ること”という実利があるからなのですが・・・。

 

 

 ゴミ拾いが終了する頃には、二つの鍋の仙台風芋煮も出来上がり、写真にようなニジマスとアユの串刺しもいい焼き加減になってきたところです。

 輪切りの竹も見えますが、これはお察しのように中には日本酒が入っています。 切り取ってきたばかりのみずみずしい竹です。 冷酒もいいけどこうやって竹に入れてお燗して飲む日本酒もいいのではないでしょうか。

 

       (いい焼き具合でしょう)

 

 ゴミ拾いが終わったのが11時30分過ぎ、私は午後から予定が入っていましたので、うまそうな芋煮やお酒とは泣く泣くお別れとなった次第です。

 

 一つ勉強になりました。アユ等を串刺しにして焼く場合の土台づくりです。 石とかでつくるのではなく、河原にある草木を使って束にして縛り、それを十分水につけて燃えないようにする、それなら串も刺さりやすいですし、生活の知恵ですね。 知らないのは私だけかもしれませんが、感心して見ていました。

 

 

 中洲等の状況については次回にします。

 

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地域防災訓練

2008-10-18 23:27:11 | お知らせ

 今日午前中、勤務先の連合町内会主催の地域防災訓練があり、参加して来ました。

 暑いくらいの好天に恵まれ、訓練はうまくいきました。

 

 訓練といえば、最後は炊き出し訓練がまっています。

 炊き出しといえば、α米(五目御飯)がメインで、みそ汁代わりに「豚汁」というべきか、「ケンチン汁」というべきか、はたまた「(仙台風)芋煮」というべきか、それがつくのが普通でしょう。

 

 

 上の写真はまさにそれなのですが(写りが悪くてすみません)、今日はそのほかに非常食としての『カレーライス』もあるのですね。

 それが下の写真です。 はじめて食べました。

 ご飯が多いのにびっくり。 1合は十分ある感じ。 ビニールにぎっしり詰まっています。

 カレーはボンカレーのようなものです。 ご飯もカレーもお湯で温めるものです。

 皿もフォークもついていて、美味しく食べさせていただきました。 お腹一杯になったのですが、芋煮も食べさせていただきました。

 

 

 前にも書きましたが、うちの町内会での芋煮会は26日です。 お昼に食べて、夜も、ことによると次の日の朝も食べることになるかもしれません。

 

 

 それはそうと、今朝7時半頃、いつもオトリアユを買う釣具店の主人より電話がありました。

 何だろうと思ったら、明日広瀬川の清掃を行うので、できるのなら協力して参加して欲しいとのこと。

 そして、できれば清掃活動終了後、芋煮会みたいなものをしたいというのです。

 

 午後から予定が入っていますので、午前中だけゴミ拾いをするつもりです。 

 果たして、何人集まるのでしょうか?

 今年は広瀬川には本当にお世話になりました。 来年もこうであって欲しいものです。

 

 


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ジュリー、再び

2008-10-17 23:10:30 | 思いつくまま

 約一ヶ月前の9月13日の朝日新聞のジュリー(沢田研二というべきか)の記事については、1ヶ月前のブログに書きました。

 「 ひと 還暦に憲法への思いを歌う 沢田研二さん(60) 」です。

 

 その後、同じ朝日新聞は10月3日にもジュリーのことを取り上げていました。

 「 還暦だぜ 『ジュリー祭り』 『今の自分、見て欲しい』 東京・大阪 ドーム公演 」

 歌い続けて40余年。ジュリーが還暦を迎え、人生の節目に選んだ大イベントが東京と大阪でのドーム公演というわけです。

 実際の公演は、大阪が11月29日、とうきょうは12月3日とのことで、まだだいぶ日があります。

 

 すごいじゃないですか、あのジュリーが天下の朝日新聞で2回も大きく取り上げられるなんて。

 還暦を迎えたことについて、「『待ってました』という感じかな。もう、若い人たちと勝負する必要はないし好きにやらしてちょうだいね、と言える」と。

 なるほどそういう考え方もあるのですね。 さすが、ジュリー!

 

 

 上の写真は、昭和60年6月25日に発行された「我が名は、ジュリー」という本です。 初版本です。 定価は2600円。 発行所は中央公論社 まだ25年くらい前に出版された本で、そんなに古くはないですが、この頃のジュリーはまだほっそりとしていました。 今はかなり”おじさん”になってしまいましたが。

 

 下の写真は、この本の扉に綴じられていた手紙?です。

 昭和60年1月の自筆のようです。

 

 手紙の内容は読めると思いますので、改めて書き写すことはしませんが、35歳くらいで 「ここでちょっと一服・・・・・。」とは、還暦のことを見通して書いているかのようです。

 でもその目的が「 もっともっと遠くへ翔べる様 旅立つ時を狙いつつ・・・・。」というのですからさすがです。

 

 

 この本は玉村豊男という人との対談集です。

 

 署名を見ても分かりますように、「沢田」は正式には「澤田」です。 また、「研二」も戸籍上は難しい正字の「研」(入力できなくてすみません)だそうです。

 

 ここに掲載されている写真は、何となく今のキムタクに似ていると思うのですが、みなさんはどうでしょうか。

 

 書きたいことは一杯あったのに、何かまとまりのないブログになってしまいました。

 

 言えることは、ジュリーよ!永遠に歌手であれ!あってくれということです。 

 


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今年もあと2ヵ月半

2008-10-15 23:01:59 | 思いつくまま

 ♯♭もういくつ寝るとお正月♯♭ではないですが、あと2ヵ月半で今年も終わってしまいます。

 (今年もいろいろお世話になりました。)

 

 新しい年がやってきます。 西暦2009年 平成21年 です。

 (来年もよろしくお願いします。)

 

 

 それなのに、嗚呼それなのに、まだアユ釣りをしている。

 私の愛読ブログのひとつ、「那珂川の友釣り」です。

 

 10月はもう4回もアユ釣りに行き、最新の釣行は10月13日(月)です。

 10月は2日、4日、11日、13日の4回。 でもまだ終わりではありません(のようです)。 しかも13日は那珂川で、13から21センチのアユを27匹も釣っています。

 

 日本は長い、四季の移ろいも地域によってかなりの幅がある。 改めてそう感じます。

 

 

 

 下の写真は、12日のブログとも関係しますが、大阪はミナミの島之内寄席の第1回目のプログラムです。

 12日は第弐回目のプログラムをアップしてしまいました。

 36年以上も前の島之内寄席のプログラムです。 文化財的な価値はないものでしょうか? ないですよね・・・・。

 

 2回目のプログラムは『第弐回』と漢数字を使っていますが、1回目は『第1回』となっていて、『第壱回』ではありませんでした。

 まあ、どうでもいいことではありますが。

 

 

 この島之内寄席については、これからも何回か継続します。

 

 他にも本の整理中に見つかった珍しい、面白い本についても書いていきます。

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広瀬川のもう一つの顔

2008-10-14 22:14:51 | 広瀬川

(半分まで書いてきて、また失敗して画面が消えてしまいました。再度挑戦です。)

 

 写真は4枚とも今日の午後撮ったものです。

 

 1枚目の写真は牛越橋から下流側を撮ったものです。 ひっそりとたたずむように流れています。 まるで何事もなかったかのように・・・・。

 

 写真の中央の瀬の周辺は夏には沢山のアユファイター、アユアングラーで賑わったものです。 この狭いところに友釣り師とコロガシの人が入り混じって、他の人よりも1匹でも多く釣ろうと闘争心を燃やしていたわけです。

 それがつい2週間強前のことなのです。 何か信じがたいような、えっ!まだそんなものというような不思議な気持ちです。 もう1ヶ月以上もたってしまったような感じになってしまいます。

 

 ここで唯一悔やまれること、それは折角の解禁前の試し釣りに参加できて、ここに一人で入ったのに1匹も釣れなかったことです。

 1時間の制限時間の間、信じられませんでした。 6月22日です。解禁の約10日前。 当然釣れてしかるべきです。 もう入れ掛りが止まらなくてもおかしくはありません。 それなのに全く掛かりませんでした、当たりさえありませんでした。 こんなはずはない、こんな馬鹿な、と思いながら釣り下りましたが、現実はとっても厳しかったのでした。

 そんなことがありました。

 

 

 広瀬川のもう一つの(●^o^●)、顔は下の蜘蛛ではありません。

 この女郎蜘蛛は橋の欄干と欄干の上の電柱に蜘蛛の巣を張っていました。 かなり大きい蜘蛛です。 綺麗です。 

 うまいところに巣を作るものです。 電球の下には虫が一杯寄ってくるでしょうから、食糧には困らないでしょう。

 

 

 広瀬川の秋の風物詩といえば、3枚目の写真に河原での芋煮会です。 平日というのに結構な人たちが芋煮を楽しんでいます。

 もっともここでは、秋だけでなく、春から新入生歓迎会等で賑わっているのですが。 自然の中で皆で鍋物を作って食べるというのはいいもので、美味さも格別、ビールも進むというものです。

 

 うちの町内会の芋煮会は26日に堤防で行われます。 去年は出られなかったけど、今年は準備の段階から出られそうです。 ビールは美味いのですが、すぐに酔ってしまうのが難点ですが。

 

 

 最後のおまけは、工事の掲示板です。 これはこの前の写真とは異なり、上流域(1枚目の写真のもっと下流の左側)に掲示されているものです。

 今日は西道路のトンネルが切れているところの河川敷で測量を行っていました。 草や低い立ち木、笹竹を刈った跡に、何をどうするのでしょうか。 中止ならぬ注視していきたいと思っています。

 

 


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中洲伐採後の広瀬川

2008-10-13 23:38:58 | 広瀬川

 4枚の写真は全て10日に撮影したものです。

 美術館下の岩盤の瀬です。

 

 来年の2月10日まで地元の広瀬川の河川工事が行われることは既に何度かお知らせしていますが、その途中の状況を写真でお知らせします。

 

 下の写真は工事事務所前に整然と置かれている工事用の車両です。

 

 

 上の車両により綺麗に刈り取られた中洲と中洲から見える本流の流れです。

 

 

 今まではここまではっきりと本流筋が見られたことはなかったことです。

 

 

 これから冬に向うために、当分はこのような状況は続くかなとは思いますが、来年の春から夏にかけてはまた草木が伸び放題になっているものと思います。

 

 

 今年はここの岩盤で何度かいい思いをさせてもらいました。

 岩盤の溝でかかった大きな鮎の引きは堪りません。 是非とも来年も経験させて欲しいと切に願うものです。

 

 


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往年の落語ファンへ

2008-10-12 23:10:57 | 思いつくまま

 今日の朝日新聞の番組欄の記事です。

 TBS系で放送の「情熱大陸」は”桂小米朝”とか。 読んでみると、彼は4日に5代目”桂米団冶”を襲名したそうですが、そもそも彼は今は人間国宝である”桂米朝”の長男だそうです。

 

 以上は、前口上として、本の整理中、またも懐かしいものが出てきました。

 

 落語ファン、とくに関西落語ファン、ということはないですね、上方落語ファンにとっては少しは興味があるのではないかと思い、これから時々何回かに分けてお知らせしていこうかなと思った次第です。

 

 

 このブログでも過去に書いたことがあるのですが、昔々私が大阪で働いていた頃、仕事の帰りにミナミにできた”島之内寄席”で何回か落語を聴いてきました。

 

 昭和47年、西暦1972年の2月にできた、上方落語協会念願の常設の寄席です。 今から36年以上も前のことです。しかもこれが島之内というキリスト教の教会の中にできたのです。

 

 

 上の写真は第1回の「島之内寄席」のプログラムの表と裏の表紙です。見れば分かるとおり二つ折りです。

 とここまで書いてきて間違いに気がつきました。すみません。「第1回」と書きながら、上の写真は「第2(弐)回」のプログラムでした。

 

 でも、下の出番の案内は「第1回」のものです。「第一回島之内寄席出番」と書いてあります。第1回ということもあり、内容は盛り沢山です。2月21日から25日までの5日間の公演となっています。

 写真からは読み取れないでしょうが、当時の上方落語界の重鎮は”桂米朝”と”笑福亭松鶴”、この二人の師匠でした(と思います)。 もちろんその他にも、”桂小文枝”もいました。 この3人は記憶にあるのですが、”橘ノ円都”、”桂春団治”の二人ははっきりとは思い出せません。

 

 

 何にしても錚々たるメンバーが”主任”としてトリを努めています。それだけ協会としても力を入れていることの表れでしょう。

 

 

 長いのですが、「乍憚口上」を写させていただきます。

 

 『 梅香り、花便りもきかれる候と相成りました。

 四方の皆々様方には益々御清祥の段心よりお慶び申し上げます。

 而て此度我々上方落語協会年来の夢でありました『はなし』の定席を得る事になりました。

 わずか、月のうち5日間だけの興行ですが、決して高望みは致しません。此の島之内寄席がいしずえとなり、此後大阪に一軒でも、二軒でも定席がふえる事が、我々の大きな夢でございます。

 併せこうして今日晴れて初日のふたを開けられる様になりましたのも、偏に上方落語を愛し、我々落語家を御支援、御指導を被下れました皆々様方の御蔭と衷心から我々一同厚く御礼申し上げます。

 今後皆様方の御期待にそむかぬよう芸道にはげみます故何卒尚一層の御引立と御支援の程を偏に御願い申し上げます。

 どうぞ毎月『島之内寄席』の提灯が揚がりましたなら皆々様、御誘い合わされ、賑々しく御越し被下る事をひたすら御願い致します。

   昭和四十七年二月吉日

        上方落語協会会長 笑福亭 松鶴 』

 

 

 この頃、上方落語は低迷といいますか、辛うじて何とか存在し続けているような最悪といってもいい状態だったように思います。 落語よりは漫才、上方漫才のほうがまだしも人気があったように思います。

 そんな中、なんとか定席寄席を設けることができた喜びと決意が表れているのではないでしょうか。


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久し振り?の街中

2008-10-10 23:16:56 | お知らせ

 今日は公休でしたが、健康診断の日。

 朝食抜きで、健診会場の仙台駅前の高層ビルへ、ナント自転車で行きました。天気が良かったもので。

 でも、近頃の仙台は物騒です。路上に自転車を置いておくと拉致されてしまいます。連れ戻すのに2,500円もかかってしますのです。

 それでビルの陰の細い道路に駐車することにしました。

 

 

 健診は8時30分頃から1時間もかからずに終了。バリュームを飲んだり、オプションがなかったためでしょう。周りの人のことをきくと、バリュームを飲んで回転させられるとか、しかもそれがとても大変で、惨めに感じるとか聞いていましたので、胃の検診はしませんでした。 というか今まで1回も飲んだことはありません。 今後も飲まないつもりです。

 

 健診終了後、このビルの最上階近くに元一緒に働いたことのある人がいるので会って行こうと思い、エレベーターで28階へ。

 

 2枚の写真は28階から北東方面を撮ったものです。 私はおのぼりさんのため?高いところが好きで、高いところに上がると嬉しくなります。高いところから見下ろすのは、遠くを見たりするのはとっても楽しいものです。

 

 

 ついでに殊勝にも献血をして行こうかなと思いました。 このビルの20階に献血ルームがあるし、健診を受けたところで感謝の気持ちを込めて献血をするのもいいのではないでしょうか。 腹が減っていましたが。

 

 献血は過去にも何度も行っており、お陰で血にも少しは強くなったのですが、何と言うことでしょう、私の善意は踏みにじられました。 何故か?

 心電図をとったのが、一年以上前になるからというのです。 つい30分前に健診で心電図をとったばかりなのですが、その結果がまだ出ていないから。 

 でもその前にもう一つ条件があったのです。 今まではほぼ自動的にクリアしてきたから分からなかったのですが、40歳以上になると、1年以内に心電図の検査で異常がない人に限られるそうです。

 

 それは医師の診断のときに分かったのですが、それまでに結構時間がかかっていたのです。つまり、待たされていたのです。 まあ、その間ただで温かい飲物を飲みましたが。 

 その結果が今回は献血”見送り”ということになってしまいました、ということです。

 

 そうですか、そっちがそう出るなら、もう献血は打ち止め?にしますか。なまじ殊勝な気持ちになってしまったのがよくなかったのかなあ。

 もっとも献血に当たっては、採血しての検査と、それに合格してからの本番の採血(成分献血)があり、両方の腕から採血することが必要になってきます。 私としてはついさっき血液検査を受けたばかりで、絆創膏をしているわけですので、まあ結果として献血しなくてよかったということになりますか。 おまけに空腹ですし・・・。

 

 そのごのブランチは美味かったです。

 

 とっても暖かい日の午前中の出来事でした。

 


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持ち物の整理について

2008-10-09 23:22:52 | お知らせ

 今私は蔵書?の整理をしていますが、そして沢山の本を処分するつもりですが・・・・・。

 

 今日の朝日新聞の記事。 木曜日連載のシリーズものですが、題して「備える  人生のエンディング⑦遺品整理」。 今日で7回目の連載ですが、そこまでいうか、そうかそれならまだまだ処分が、整理が足りないなと思ってしまいました。

 

 私自身はまだまだ死ぬつもりはありません。 あと10年は元気でアユ釣り等をしていたいです。 しかし、・・・・・。

 

 まあ、いうものです、確かにそうですが。

 

 『どんなに大事にしていたものでも、あなたが死ねばみんなゴミ』

 確かにそのとおり!と言わざるを得ません。

 

 『自分が大切に思っているものを大切にできるのは自分だけ。 それを捨てるのは、ものの命を全うさせ、大切にする行為の一つなんです』

 

 大切にできる人がいなくなったら、そのものの価値はなくなってしまう。 捨てることによって、誰かに使ってもらえる、そうすることがものを大切にすると言うこと。 さらに引き継がれていくなんて素晴らしいことです。

 

 『子どもや親しい友人に、あなたの写真や着物などを捨てさせる、つらい作業をさせていいんですか』

 

 そこまでいうか! 確かにそのとおり。

 物を残していくということは、後世に負担を掛ける、問題を先送りすることなのでしょうか。 自分で決断(実行)しないで、孫子に解決(実行)させることになるのでしょうか。 そうかあ。

 

 

 ≪自分のものは自分で極力処分しておく≫ 

 ということに尽きるようです。

 

 もったいないという気持ちは大切にしても、自分のもったいないと言う行為が、結果として周りの人の負担とならないように、常に身の回りのことをきちんとしておく、身綺麗にしておく、軽くしておくこと。

 ”もったいない”と言う精神は、あくまでも”生きている間”という前提条件がつくことになりますか。

 

 何十年前の本でさえなかなか処分できない、この自分は一体どうしたらいいのでしょうか。 そんな悩みを抱えながら、とりあえず(ビールではなく)整理していくことになりそうです。

コメント (2)
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