きょうは春分の日。お彼岸の中日です。お墓参りはされましたか。日の出が早くなり、心なしか嬉しいものです。カーテンを開け、朝の太陽の陽射しを浴びると、何とも清々しく、思わず太陽に手を合わせたくなります。
そうそう、田中将大投手、結婚おめでとうございます。 きょう奥さんが区役所で婚姻届を出したとか。 背中の張りを訴えて、今後のことが心配ですが、新妻の支えで上手に乗り切って欲しいところです。
(きのうの続き) 吉浜小学校は、北上総合支所のすぐ向かい側にあります。 もともとは北上町で、石巻市と合併したのでしょう。 校章はきれいになっていました。

校舎のほぼ全景です。 津波は3階建ての校舎の3階の天上まできたそうです。 3階の教室に掲げられている標語は『大河 も勝れ吉浜っ 』ですが、補えば『大河にも勝れ吉浜っ子』となるのでしょうか。
岩手県から宮城県に流れる大河”北上川”とともに成長し、その北上川に負けないような強く逞しい大人になれ、ということでしょうか。

下の写真は道路側(総合支所側)から撮ったものです。

これも同じですが、後ろに山が見えます。校舎のすぐ裏手は山となっています。 山の名前は「大盤平」で、学校の避難先はこの山となっていたそうです。

校舎の周りは片付けられていますが、校舎の中はまだまだ不十分のままです。 時計は津波が襲った時間ではなく、M9の地震が起きた時間で止まっています。

1階の出入り口の壁には子供たちの合作によるモザイク状の絵がありました。津波にもびくともしなかったようです。


コンクリート製の犬の顔の表情が、子どもたちを失ってさみしいような、何か無念さを漂わせる(口元が)表情に見えてしまいます。 ここについてる水道で手や足を洗い、うがい等をしたのでしょうね。

校舎の裏側の様子です。 体育館のようです。 メチャクチャにやられています。


去年の3月11日の午後2時46分は、放課後で、児童49名のうち卒業式の準備で残っていた児童6名と教職員は、校舎屋上に逃げて何とか助かりました。 小学校の避難先は先にも書いたように、裏山でした。学校では毎年そこで避難訓練を実施していたそうです。
でも、下校後総合支所にいたと思われる7名の児童は死亡・行方不明になってしまいました。
地震後、先生は総合支所に顔を出していたそうですが、支所ではなく裏山に逃げろとは言わなかったようです。 ここでも、総合支所が市の指定避難所となっていたことが、結果的に悲劇を防げなかったことになりそうです。
学校から裏山の頂上へ続く舗装道路まで、子どもの足でも5分で行けて、遠足の行き先でもあった「大盤平」。 (大川小学校もすぐそばに、学校に隣接して山があったのに、50分も時間を無駄にして、川の方に向かってしまった・・・・。)
裏山のそばにあった遊び場です。マンホールをくぐったり、上に上がったりして遊ぶのには楽しいものです。

北上町民憲章の碑が無残にも倒されたままになっていました。
””美しい自然に恵まれた、永遠の郷土北上町を愛し、平和への願をこめて、この憲章を定めます。””

北上町を担って立つ
吉浜小健児のために
一 わたくしたちは、健康につとめ、やすらぎのある町をつくります。
一 わたくしたちは、美しい自然を大切にし、くらし豊かな住みよい町を つくります。
一 わたくしたちは、きまりを守り、教養を深め誇り高い町をつくります。
一 わたくしたちは、おとしよりを敬い、 力を育て生きがいのある町をつくります。
平成五年六月二十六日
寄贈者 北上町十三浜字月浜
千葉初三