冷え込みましたが、 きょうの日中は快晴ですね、少し風が強いですが。
(午前6時15分頃の東空)
(午前10時15分頃)
きょうはカモの親子の姿は見えませんでした。 老夫婦が分流を除きながら歩いていましたが、やはりサケがいつ遡上するのか、気にしていました。
そうそう元タイ大使の岡崎久彦が26日に亡くなったそうです。 84才、長生きして老害をまき散らした輩です。 何といっても呆れて忘れられないテレビでの討論会がむかし昔ありました。 そのときに岡崎の言った言葉に衝撃を受けましたね。それ以来忘れられない名前となってしまいました。 何といったと思いますか、「アメリカの言うとおりにしていれば間違いない。アングロサクソンは戦争に負けないから」というようなことを堂々とテレビの討論会で言うのです。
まあ、日本人のくせに何ということを言う輩か!と呆れかえってしまったことを覚えています。 新聞記事では「親米保守論客」なんて書いてますが、親米なんてものではない、アメリカに従属、隷属、奴隷根性の反動主義者とでも形容すべきでしょう。 こんな輩でも外務省に入って大使になれるのですから驚きです。
ちょっと古くなりますが、18日から23日まで”宮城学院女子大学”で、「学校日誌にたどる 昭和の記録・戦争の記憶」と題する写真展が開催されました。
宮城学院女子大学は3年前になりますか、「サントリー10000人の第九」の東北会場となり、ここで4回くらい練習したことがあります。そのときに総指揮者の”佐渡裕”先生も来て、我々を指導しました。
いまでも忘れられない思い出となっていますが、途中先生はステージから降りてきて、私と私の友達の間に入ってきました。 びっくりするじゃないですか! 何しろ佐渡裕先生は縦も横も大きい人です。肩を組んで(身長差があり過ぎるのでうまくは組めませんでしたが)第九第4楽章411小節からの男声合唱による行進曲を歌ってしまいました。
Laufet,Brüder,eure Bahn,freudig,wie ein Held zum Siegen, (兄弟よ、君たちの道を走れ、勝利に向かう雄姿のように楽しく)
月日の経つのは本当に早いものです。(老化現象も早いものです)
その展示場所がなかなかわからなくて、2,3人に学生に聞いて何とか「講義館6階の資料実習室」にたどり着けました。 私が行ったときには誰も中にはいませんでした、担当の先生以外は。 写真を撮っても大丈夫かと確認し、OKだったので遠慮なく撮らせていただきました。
いろいろありますので、きょうは昭和20年7月9日と10日の日誌を紹介します。 仙台空襲を記録しています。
①
①は昭和20年7月9日の気仙沼市の松岩国民学校の日誌です。 「警戒警報発令午後9時30分、解除午後10時10分・・・・仙台空襲ヲウク」
②は川崎町の川崎国民学校の9日の日誌です。 宿直の記事に 「警戒警報・・・・空襲警報十日午前零時三分頃発令 解除午前二時三十分 来襲敵機約七十機」とあり、学校長等が集まってきたようです。
②
③は7月10日の柴田町の船岡国民学校中名生分教場の日誌です。こちらでは「B29約百機仙台二来襲市中心地帯二焼夷弾波状攻撃ヲ加へ電車環状線内側烏有二帰(白反)ス」
③
④は村田町の村田国民学校の7月27日日誌です。 仙台の罹災児童に慰問品を持参したようです。
④
私としてはきちんと書かれた日誌もとっても興味があるものですが、それ以上に興味を持ったのは「御影皇室関係事項」です。(「御真影」と記憶していましたが、「御影」となっています。)
①では「御異状ヲ拝セズ」、④では「御異状ヲ認メズ」 学校によって少しだけ記帳方法が異なっているようです。 「認メズ」よりは「拝セズ」のほうがより敬意を表していることになるのでしょうか。
そしてもう一つ。 ②の「宿直(?)」の欄の「巡視」です。 「奉安殿」を午前と午後の2回巡視しています。「午前五時五十分」と「午後九時三十分」の「二回」です。
御真影は天皇・皇后の写真であり、奉安殿はその写真を安置して奉るところです。 先のアジア太平洋戦争で空襲を受け小学校の奉安殿が焼けて、御真影を守れなかったということで校長先生が自殺したというような文章を読んだことがあります。
以下(不定期に?)続きます。