今日の天気は、朝からまあ暖かくて申し分のないものです。おとといきのうは朝方が一気に冷え込みましたが、きょうは早朝から気温は高かったです。何しろ午前5時で9.7度もあったのですから。
7時には11.2度に上がり、お昼は14.6度です。でも
午後からの気温はきのうより少し高いだけですね。その結果午後3時過ぎでの最高気温は16.5度、午後1時33分の記録です。
しつこすぎましたでしょうか。きょうも中浜小学校です。その4で最終です。ここまで我慢して読んでいただいたみなさん、見ていただいたみなさん、ありがとうございました。もうこんなにしつこく書いたり、紹介したりすることはないでしょう。
(でも私がいつしか認知症になっていて、家族も気がつかないまま、ブログを書いていたりしていたら、しつこさはこんなものでは済まないかもしれません。認知症になり、それを認識していない男の書いているブログ、なんてものがあってもおもしろいですよね。認知症の研究の一助になるかもしれません。なんでも存在感はあるものです、たぶん。)
2階には展示室と資料室があります。
①
この上下2枚は南側から撮ったものです。中浜小学校のジオラマです。なんでもプロに製作を依頼したとか。実に精巧に作られています。素晴らしい出来です。
②
③
この上下の2枚はやや北側から撮ったものです。③の屋上を見てください。四角い柱上の組み合わせ物が立っているところが屋上です。屋上ですが、周囲は見えません。建物で遮られています。南側(向かって右側)を除いて。
④
そして屋根は三角形になっています。ふつうの民家のうちの屋根みたいに。そこが倉庫みたいにして使われていました。ドアが6か所くらいついていて、区切られた部屋になっています。それで助かったのです、90人は。
⑤
⑥
⑦
⑤から⑦は2階の音楽室です。ここにも津波はきました。そしてここでその後閉校式が行われました。⑤は被災した木琴です。
以下の4枚は資料室に置かれていたものです。
上の写真は、屋上の唯一外を見られる東側から見たものです。
ここからは校長先生の活躍や屋上の避難場所となったところの説明です。
ここです、ここで90名の児童や住民が一夜を過ごしました。段ボールが敷かれています。学芸会等で使用した覆面や服も寒さ対策として使ったようです。つまりはこのところにあったものはすべて使ったということです。
2階でも危険だということで、屋上の屋根裏部屋みたいなところに避難しました。外に出ていて、外の状況を見ていたのは校長先生ただ一人だったとか。その校長が津波を見たのが屋上の東側の狭いところです。
子どもたちには見せないようにしたと。トラウマにならないようにとの配慮からです。子どもも住民も惨状を知ったのは翌日です。
幸いにも校庭はまっさらの状態で、だから自衛隊のヘリが直接校庭に降りられたので、救助はスムーズにいったとのこと。
寒いので誰かが体育館に毛布があるはずだと言って、若者が毛布を探しに行き、見つけて持ってきた。その災害救助用の毛布は、一枚一枚アルミ箔の袋に入っていて、水には濡れたものの中は大丈夫だったという。
校庭は建設の際、2メートルかさ上げして建設されたので、2+4+4=10メートルとなり、何とか避難できたとか。第3波の波は20メートルくらいもあったそうです。校長ひとり見ていたのですが、幸いにも引き波のせいで勢力が弱まり、10メートルくらいまで低くなったから助かったといいます。
3月9日にも大きな地震がありましたが、その地震後先生方での話し合いがもたれ、それが避難にはいい結果をもたらしたようです。
一番気になるのは、90人も避難しているので”トイレ”ですよね。ガイドさんが向こうから教えてくれました。(気仙沼伝承館では教えられなかった。)学芸会用の衣装ケースがあったので、中身を取り出して、2個を男女のトイレとして使ったとのこと。
屋上の三角部屋は南北に3部屋くらいあり、避難していた部屋(とは言えないものですが)の左右にあるドアのついている部屋を男女用の仮設トイレとしました。このドアはなかからカギがかけられるようです。
なお、2階までは自由に動けますが、屋上へはガイドさんと一緒に行くことになりますのでご注意ください。勝手には行けません。また、避難場所となった三角の倉庫は撮影禁止です。
是非皆さんも1回はご覧いただきたいと思います。ガイドさんの説明もよかったです。ここ震災遺構中浜小学校が末永く語り伝えられていきますように願っています。
地震の備え、していますか?