阿賀川から湯川へと川は分流され、市内を通り…また阿賀川へ合体するのだろうか?
川の傍には大きな碑が建てられ、その前には井戸があった。
もちろん危険防止のために防護されてはいるが
覗いてみると思ったよりも深くはない。
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そんな橋を別名涙橋とも言われている。
そこには涙橋の由来の説明板があり
柳橋は会津と新潟を結ぶ越後街道の湯川にかかる橋で
付近に道しるべとして多くの柳が植えてあったので命名されたと。
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会津藩が上杉時代の慶長5年に上杉景勝が石田三成と計り
徳川家康を牽制し12万人を動員、西へ半里程の如来堂に幻の神指城を築造する際
要所である橋を長さ17間、幅3間余の欄干のある堅牢な柳橋とした…とした事。
柳橋の200m程下流の薬師河原には、藩政時代の処刑場があり
特に昔キリシタン弾圧により寛永12年には会津キリシタンの中心人物である
横沢丹波と外人宣教師など60余名が捕らえられ
一度に処刑されたところで、キリシタン塚がある…などなど。
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この場所には休み小屋があって、刑場にひかれる罪人は井戸の水で家族らと水盃を交わし
別れを惜しんだところから、通称涙橋と呼ばれ、昭和初めの木橋には涙橋とも記されてあった。
…そんな事などが記されている。
この場所で、井戸から水を汲み上げ家族との切り裂かれるような別れに
無念の思いがこみ上げる…そんな事を想像させる。
この橋から下流に200メートルほどに処刑場があると書いてあったので
ぬかるんだような川沿いの道をゆっくりと車を走らせてみた。
しばらく走ると、赤い鳥居のようなものが…。
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ここがそうだろうか、「石上稲荷」と書いてあったが
ここが処刑場だったのかどうかは分からずじまいだった。
その涙橋から、西へ2キロ程の所に如来堂という地区があり
そこには新撰組殉難の地と幻の会津の城神指城予定地跡がある。
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新撰組殉難の地…会津新撰組がそこに陣をはり西軍に攻め込まれ敗れた場所で
母成峠の戦いに敗れた新選組は、北へ向かおうとする土方歳三らと
会津に留まろうとする斎藤一らに分かれる事となる。
斎藤一は「今、落城せんとするのを見て、志を捨て去る、誠義にあらず」
と同意した隊士とともに会津へ残った。「谷川史郎兵衛日記」より。
明治元年年9月4日、城下に進出した新政府軍は
如来堂に立てこもる新選組を攻撃し、激しい戦いを繰り広げ
全員討ち死にしたとされるが、斎藤一をはじめ数名が生き残った…とされる。
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神指城予定地跡
慶長3年会津上杉景勝は、鶴ヶ城の他に新たに築城する計画を立て
同年2月家老直江兼続に命じたのだが…徳川家康に知れ
関ヶ原の前哨戦となる会津討伐のきっかけとなってしまい
完成を見ず工事は中止となり、関が原合戦の後上杉景勝は米沢に転封となる。
城の規模は本丸が東西180m、南北306m、二の丸は東西468m、南北522m で
土塁は10m、濠には大川と湯川の水を予定していたようだ。
完成していれば巨大な方形館タイプの平城となったであろうとされている。
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現在は二の丸の四隅と本丸跡がわずかに残って
「高瀬の大ケヤキ」と言われる、すごく大きなケヤキの木がそびえている。
樹高 26m 目通り幹囲 11.7m 推定樹齢 500年とされ
昭和24年の台風で大枝が折れてしまったが
いまなお樹勢は良く、会津盆地一の巨木と言っても良いくらいだとか…。
神指城と直江兼続の係わり合いについては
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ここで会津の地へ
来年の大河ドラマ「天地人」での直江兼続の名前が出てくる事となる。
戦争にはいつも悲しい犠牲者が出る。
我が会津も、うら若き少年達が犠牲となった白虎隊の話や
城を守るために落とした、たくさんの命たち。
そんな無念の悲しみが、各地に戦争の爪あととして残されている。
一般市民にとって、誰が何処が国を治めるかなんてはどうでも良い事であり
ただ平穏に生きていける事が一縷の望みで、それは今の世代にも言える事だと思った。
という事で、涙橋の下を流れる湯川をUP!
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今でもあまり整備をされた様子もなく
きっと 昔からこんな感じで流れてたであろうこの川は
何を見てきたのだろうか、黙して語らず…ただとうとうと流れ続けている。
写真を拝見するとより実感がわきますね。
ありがとうございます。
私・・・徳川家康も、新撰組も大好きなのでいろいろ本を読んだはずなのに、もうすっかり忘れています
かなりきています
また読んでみたくなりました。
急に寒くなりました。
お風邪など引かれませんように・・・
加藤清正は今も熊本では神様です。
直江兼続にとって上杉家とはナンダのでしょうね。興味はあります。
歴史上では地味でドラマにならないけれど保科正之のほうが気になりますね。
神指城(かんざしじょう?)・・・暇だから計算したら約30㌶、鶴ヶ城とほぼ同じ大きさです。
昔、ほかでは神刺城と書かれていたと言われてますが、会津では刺という字を嫌って神指城としたそうです。
pochikoさんえらい!よくここまでまとめられましたね。すごいです。
そ、会津新撰組の13名はここで激しい戦いをしたんだそうです。
その後、生き残った斎藤一は藤田五郎と名を変え、会津の地で亡くなり阿弥陀寺に藤田家のお墓に葬られております。
戊辰戦争後は警視庁で活躍されたそうですよ。
涙橋は戊辰戦争のとき娘子隊として中野竹子が戦って戦死した場所なんです。照る姫様を追って坂下に行き、会えずに若松に戻り、城へ向かう途中、官軍に遭遇し、戦ったと言われてます。
涙橋で敵の流れ弾に当たって、無念の最後を遂げたと言われます。
また、神指城の建設を勧めた直江兼続はなんて先見の目があったんでしょうね。
だって、鶴ヶ城は山に近くて山から攻撃されたらとても城は持たないぞって思ったそうなんですよ。
で、山から遠いほぼ会津盆地の真ん中に建設計画をたてたんだって。
案の定幕末200年以上も後に官軍に攻められたじゃないですか。
ホント、あの城が出来てたら果たしてお城は壊されるほどダメージ受けたでしょうか。
いろんなこと想像すると興味がわきますよね。
市内の歴史探訪も面白いでしょう?
21日はガイドで街中当番だったんですが、県外のお客さんを一日案内し、会津はまた今度泊りがけでゆっくり見て回りたいですっておっしゃって帰られました。
観光資源を大切にしたいですね。そして後世にもちゃんと伝えて行きたいですよね。
pochikoさんの歴史探訪、とっても面白かったです。
きっとブログ友の方達また、楽しみに尋ねていらっしゃるんじゃないですか?
来年の大河ドラマは「天 地 人」です。
作者の火坂雅志もこうまで、まとめられないのではと感心しましたよ。
涙橋。東京にも二ヶ所あります。
東の小塚原、西の鈴ヵ森です。こちらでは泪橋と書きます。罪人が家族と最後の別れを惜しんだところです。いろいろなドラマが繰り広げられたことでしょう。
新撰組の斉藤一は後に巡査になりました。
白虎隊記念館(?)で写真をみました。
あれだけの剣の使い手ですが顔は穏やかでした。
修羅場を乗り切った人間だけが放つある種の光芒でしょうか。
最後の三行、しびれました。
何を見、いまなにを想いながら流れているのでしょうか。
来年大河ドラマが放送されたらまた観光客が増えますね。
pochikoさんも歴史にずいぶん詳しいんですね~
その犠牲になるのは、弱者の下級武士や一般人
権力に殺される悲しい時代
新撰組も会津白虎隊も時代の犠牲者でしょう
この時代 何が正義で何が悪かは、その時代を生きた人達にも解かっていなかったのでしょう
昨日5時頃から雪になってこの写真の様子もちょっと変わってることでしょうね。
本当に雪全然ないのですね。昨夜の雪も日中の暖かさで又減ってきました。スキー場まで不景気が押し寄せてきてる感じです。
以前から神指城予定地跡は見に行きたいと思ってたんですよ。
娘の所からの帰りに涙橋を通るので、いつかUPしたいと思っていました。
元々 歴史は苦手で、時代物の本も読んでないんですよ^^;
でも、こんなふうに実際の土地に触れると俄然興味が湧いて来ます。
また、どこか歴史にまつわる場所に行ってみようと思います。
最近 昼間は暖かいんですけど朝晩の寒さはかなり厳しいものとなっています。
本当に風邪を引かないように…ばぁちゃんに移っちゃったら大事ですもんね。
たくさんの人々の力の上に成り立ってるのだと思います。
加藤清正は安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将ですよね。
保科正之は会津藩初代藩主です。
会津藩主だった保科正之の家訓をもとに定められた教訓があり
人をいたわります
ありがとう ごめんなさいを言います
がまんをします
卑怯なふるまいをしません
会津を誇り 年上を敬います
夢に向かってがんぱります
やってはならぬ やらねばならぬ ならぬことはならぬものです…とあります。
神指城は、↓でMayumiさんが仰ったように“こうざしじょう”と言われています。
なるほど…さすがMayumiさん!
いえいえ、Mayumiさんを前にして、拙い歴史を…抜けてる所や間違えてるところなどあると思います。
新撰組殉難の地は以前から知っていて何度か行った事はあったんですけど
城神指城予定地跡は今回初めて行ったんですよ。
涙橋から新撰組殉難の地と城神指城予定地跡をまとめてみたいとは思っていました。
なかなか難しかったです^^;
涙橋は娘の所に行く途中にあって…でも最近まで素通り状態でした。
ブログを始めてからですねぇ~~ こうして地元の歴史に目覚めたのは(笑)
市内の歴史探訪面白いです!
せっかくいろんな歴史の深い町なので、これからも歴史探訪続けたいと思います(^^)v