この日も寒い日で、普段 雪の降らないこの町にも
空からふあふあと白いものが舞い落ちて来そうな空模様だった。
雪の降る前が一番寒さを感じるのかもしれないと
フッと凍りついた様な吐息が漏れた。
買い物へと出たものの、特に買いたい物があるわけでもなく
昨夜にちょっとした夫との諍いが、重く胃の中に沈んでいたからかもしれなく
気晴らしというかそんな思いではあった。
さすがに歩き疲れたのか寒さに体が強張ってしまった感じがして
どこか…暖かい休めるようなお店はないのかしら。
立ち止まり見回してみるけど、特にそう言ったお店も見当たらなかったが
ふと気付いたビルの間に、何の変哲もない細い路地。
妙に惹かれる気持ちで入り込んでみれば
奥まった場所に忘れ去られた様な…昔で言うならば喫茶店か。
引き寄せられるようにドアに手をかけ
懐かしい様なカランカランとドアベルの音に
お店の中から挽きたてのコーヒー豆の香りと暖かい空気が体を包んだ。
小さなお店でカウンターとテーブル席がいくつかで
カウンターの中には寡黙そうなマスターがグラスを磨いている。
どこに座ろうか…思いあぐねてカーテンが視角になったような
窓際の席にそっと腰を降ろし外を眺めると
泣きだしそうだった天気はすでに白いものがチラチラと。
どうりで寒いはずだわ…ひとり呟く。
ブレンドでよろしいでしょうか。
カウンターの中からマスターが声をかけた。
静かに頷いて…気がつけば80年代の洋楽だったかしら?
じゃまにならない程度に静かに店の中に流れている。
George Michael - One More Try
こんな感じのドラマチックで心に響くバラードだった。
よろしいでしょうか、マスターが葉巻を一本指にはさんで
ウインクをする…どうぞ、そんな言葉のやり取りさえもけだるい様な気がして
いつもなら眉をひそめてしまう流れて来る紫煙の香りも
今は心地よい様な気がした。
誰だったか、葉巻きは吸い込むのではなく
吹かして香りを楽しむものだって聞いたけど
確かにそうかもしれない…異国の香りがした。
そんな事を思いながらそっと目を閉じて…。
いつだったか、その時にも
こんな80年代の洋楽と葉巻きの香りが流れていたような気がする。
まだ、ずっと若かった頃に当時夫とは結婚もしていなかった頃
理由は忘れてしまったけど、やっぱり何か言い争いをし
一人であちこち歩いて、疲れ果てて初めての喫茶店に飛びこみ
悲しみにささくれ立った自分を見つめ直した事があった。
しばらくして雪の中をコートを濡らして、きっとあちこちのお店を覗いたのだろうか
濡れた髪をそのまま額に垂らしたまんまで、探し出してくれた人
不安げなのに熱を持ったような熱い瞳には
迷い子を探すような必死さが浮かんでいた。
ここにいたんだ…探したよ、そういう言葉とは裏腹に
自分こそ捨てられた犬が彷徨って、ようやく飼い主に出会えたような
そんな頼りなさげな姿をしていたじゃないの。
いさかいをした事も忘れて仲直りしたっけ…遠い昔の事だけど。
あれから二人は結婚をして子を持ち、すでに子供たちは巣立っていき
また二人の生活が始まったけど…すっかりと忘れてしまっていた
あの日あの時あの気持ちに、ふと我に帰れば
目の前には少し冷めかけたコーヒーが置いてあった。
どうかしていたのだわ、私。
ちょっとした事に腹を立てて、二人が過ごして来た年月の前には些細な事なのに
…きっと単調な生活に疲れていたのね。
母親としての女としての生活から離れてしまったからなのかしら。
今度は自分自身の為に我がままに生きて行くのも良いのかもしれない。
好きな事は好き、嫌な事は嫌って言ってみよう。
そんな事を思いめぐらして…外を見ればチラチラの雪はいつに間にか止んで
すでに、街は夕方の装いへと変わりつつあった。
マスターは相変わらずにグラスを磨いている。
お勘定を…の言葉にマスターは笑顔で
次回来た時で良いですよ、と…あり得ないのだけど
軽く会釈をして、また寄せてくださいね。
そんな言葉を残してお店を出て、今夜は寒いから鍋にしよう。
すっかり現実に戻り、また何か気持ちが落ち込んだ時に来てみようと
振り返ったけど、今までいたお店はどこを探しても見つかる事はなかった。
あのお店はなんだったのだろう…そう思ったけど
お鍋の材料を買っているうちに彼女の脳裏からは
お店の存在はすっかりと消え去ってしまっていた。
ちょっとバタバタして、なかなか更新が出来なかったので
以前作った、短編小説の真似事みたいなものを更新してみました。
なのでコメント欄は閉じさせていただきます。