「由緒あれば300石」というのが、細川家の召出しの基準らしい。由緒とは家柄なのか、手柄高名なのか、曖昧ではっきりしないが・・・。ならばと、300石以上の家の出自を調べている。
450石の椋梨氏がある。小早川家家臣で隆景の家老を務めた、椋梨弘平という人がいる。はっきり判らないが、どうやらこのあたりが怪しいと睨んでいる。
以前村上景廣のことを調べていたら、椋梨氏の名前があった。
■村上隆重葬儀 村上景則母危篤
椋梨半兵衛被申候ハ、八郎左衛門吊(弔カ)、今井(中津郡)にて仕候、
ニ三日之御暇被下候ハヽ、参度存候、それより、河内殿(村上景則)御
母儀煩きわまり申由、申来候間、今井より直二中津へ参度被申候、さ
候ハヽ、可被参由、申渡候事」
細川小倉藩「日帳」寛永五年九月二十八日項
村上隆重---景廣---景則---八郎右衛門(河内)
∥
椋梨氏------●
村上景廣の奥方(景則母)が椋梨氏だった。隆重--景廣親子は小早川氏家臣、実質上の毛利水軍を率いた能島水軍の長であった。景廣が忠興に迎えられ細川家家臣となり、河内迄三代が仕えた。(10,000石) 椋梨氏と村上氏は小早川家を通じて繋がっている。椋梨弘平と半兵衛のつながりがはっきりしないが、今後の課題として解き明かしてみたいと思っている。
450石の椋梨氏がある。小早川家家臣で隆景の家老を務めた、椋梨弘平という人がいる。はっきり判らないが、どうやらこのあたりが怪しいと睨んでいる。
以前村上景廣のことを調べていたら、椋梨氏の名前があった。
■村上隆重葬儀 村上景則母危篤
椋梨半兵衛被申候ハ、八郎左衛門吊(弔カ)、今井(中津郡)にて仕候、
ニ三日之御暇被下候ハヽ、参度存候、それより、河内殿(村上景則)御
母儀煩きわまり申由、申来候間、今井より直二中津へ参度被申候、さ
候ハヽ、可被参由、申渡候事」
細川小倉藩「日帳」寛永五年九月二十八日項
村上隆重---景廣---景則---八郎右衛門(河内)
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椋梨氏------●
村上景廣の奥方(景則母)が椋梨氏だった。隆重--景廣親子は小早川氏家臣、実質上の毛利水軍を率いた能島水軍の長であった。景廣が忠興に迎えられ細川家家臣となり、河内迄三代が仕えた。(10,000石) 椋梨氏と村上氏は小早川家を通じて繋がっている。椋梨弘平と半兵衛のつながりがはっきりしないが、今後の課題として解き明かしてみたいと思っている。