津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家家臣・椋梨氏

2009-12-04 17:31:34 | 歴史
 「由緒あれば300石」というのが、細川家の召出しの基準らしい。由緒とは家柄なのか、手柄高名なのか、曖昧ではっきりしないが・・・。ならばと、300石以上の家の出自を調べている。

 450石の椋梨氏がある。小早川家家臣で隆景の家老を務めた、椋梨弘平という人がいる。はっきり判らないが、どうやらこのあたりが怪しいと睨んでいる。
以前村上景廣のことを調べていたら、椋梨氏の名前があった。

  ■村上隆重葬儀 村上景則母危篤
  椋梨半兵衛被申候ハ、八郎左衛門吊(弔カ)、今井(中津郡)にて仕候、
  ニ三日之御暇被下候ハヽ、参度存候、それより、河内殿(村上景則)御
  母儀煩きわまり申由、申来候間、今井より直二中津へ参度被申候、さ
  候ハヽ、可被参由、申渡候事」
                 細川小倉藩「日帳」寛永五年九月二十八日項

  村上隆重---景廣---景則---八郎右衛門(河内)
           ∥
  椋梨氏------●

村上景廣の奥方(景則母)が椋梨氏だった。隆重--景廣親子は小早川氏家臣、実質上の毛利水軍を率いた能島水軍の長であった。景廣が忠興に迎えられ細川家家臣となり、河内迄三代が仕えた。(10,000石) 椋梨氏と村上氏は小早川家を通じて繋がっている。椋梨弘平と半兵衛のつながりがはっきりしないが、今後の課題として解き明かしてみたいと思っている。
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細川家家臣・乃美 (ノウビ) 氏

2009-12-04 13:57:37 | 歴史
 「細川家家臣略歴」を見ると、乃美氏は一軒しかない。「肥陽諸士鑑」も同様である。
前者の当主は新四郎、そして後者の当主も時代は異なるが新四郎である。ご先祖様は浦兵部允宗勝--乃美主水であるが、処がこの二つの史料が別家であるから頭が痛い。

 浦兵部允宗勝は小早川秀秋の養父・小早川隆景の家臣で、小早川水軍の将と称えられた。実質の毛利水軍の将である。
          ja.wikipedia.org/wiki/浦宗勝

その子の乃美主水が細川家に仕え、大阪の陣では首二つ、生け捕り一人という大活躍をし高名した。中津に於いては忠興に近侍した。

 ■(大阪御陳)手ニ合候者---七月朔日御饗応、御褒美被下候
   銀子廿枚 鑓ハ不合、首ニ討取、生捕壱人、此外内之者首三討取 (綿考輯録・巻十九)
 ■三斎様御付中津ニ相詰候衆 千五百石 米田助右衛門是政(二代)婿 (於豊前小倉御侍帳)

その主水が亡くなった直後の消息が次のようにある。
           (熊本縣史料・近世編第二「部分御舊記」p403)
         主水相果候由不便ニ候不及是非候 子共あまた可有之候
         主水知行千石一郎兵衛ニ可遣候 残五百石者主水知行跡
         之子とも之養ニ先差残可申猶下候刻具ニ聞重而可申付候
         城中之儀候間火用心無心元候条市郎兵衛ニ先主水家へは
         いり一郎兵衛家ニ子共ハ置候様ニ可申候 主水家ハ後々迄
         市郎兵衛ハ居申間敷候 其心持候間可得其意候事
           (年不詳)九月十七日         (忠利)
                  長岡佐渡守 殿
                  有吉頼母佐 殿
                  長 岡 監 物 殿

  この史料によっても、上記二家がどのように繋がるのか、決定的材料がない。

 
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吉田松陰の来熊

2009-12-04 10:50:54 | 歴史
 嘉永五年(1852)吉田松陰は、肥後藩士宮部鼎蔵と東北を旅しているが、これは藩庁の許可が得られておらず、脱藩者として罪をえている。宮部鼎蔵と親しかった松陰は、翌年嘉永六年(1853-23歳)十月熊本を訪れ数日を過ごし、長崎に旅している。

 18日、宿坂梨
 19日、達熊本、宿坪井、
     是日越二重嶺、望阿蘇山、雲霧濛々、不辧咫尺、有詩云、東海望冨士、
     三峰白粲粲、西道望阿蘇、後背雲漫漫、冨士恰有情、不塊天下冠、
     阿蘇何怯懦、見吾乃逃逭、奇哉名山靈、識取英雄漢
 20日、宮部鼎蔵来伴訪横井平四郎、荻角兵衛亦會焉、夜到宮部留宿
 21日、矢島源助、荘村助右衛門、國友半右衛門、今村乙五郎、丸山運助、佐々淳二郎
     湯地丈右衛門、村上鹿之助、来話
 22日、與宮部同訪横井、終日對話、夜訪村上 會澤村尉右衛門、神足十郎助、村上作之允、原田作介等 、
     今村
 23日、横井久(牛カ)右衛門、吉村嘉善太、木原彦太郎、廣田久右衛門、岩佐善左衛門
     森崎平介、丸山、佐々。今村来、夜横井来
 24日、丸山、佐々、今村、森崎、野口直之允来會、訪池邊彌一郎・國友半右衛門、
     半右衛門以疾不逢
 25日、松田、神足、吉村、村上、丸山、今村、来會、午後發熊本、松田至高橋、至尾島而舟未発
 26日、暁發、舟至島原、
     同舟加来傳兵衛、桐原作右衛門、伴九左衛門亦肥藩士、地着於阿蘇高森者也、宿守山
 27日、達長崎、宿濱町云々
                     「松陰先生遺構所収・長崎紀行より」

 松陰は、長崎に入港していたプチャーチン率いるロシア艦隊に、密航を計画していたとされるが、1852・11・23日(旧暦10月12日)すでに出航しており、夢は叶わなかった。この旅こそが、その決意の旅であったのだろう。
安政6年(1859年)10月27日松陰は処刑された。宮部鼎蔵は元治元年(1964)6月5日、池田屋で会合中に新選組に襲撃され自刃する。しかしながら明治維新への胎動は確かなものに成っていく。「幕末」という時代の始まりのその年に、松陰が熊本を訪れているという事もまた、何かの因縁であろう。熊本藩はといえば、相州警備に慌てふためいている真っ最中である。

  
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