津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

細川家家臣・志方氏

2009-12-26 16:29:08 | 歴史
 細川家家臣には赤松氏を祖とする家が幾つか見える。三齋忠興の側近くに仕えた志方半兵衛の祖父・繁広について、史料は次のように紹介している。

 ■志方右衛門尉・繁広
  赤松則祐五代孫、天正六年織田信忠に志方城を落され討死・・一子六助二歳ニ成候を
  家之子乳母ニいたかせ忍出、縁者たるにより丹波の赤井悪右衛門方に越・・・云々
                              (綿考輯録・巻九) 
  播州志方の城主也、神吉知民部少輔弟ニ而初ハ櫛橋左京進と申候処、後播州印南郡在名
  志方と申所居城いたし志方と名乗候由
 ■六助・之吉  三斎様御付中津ニ相詰候衆 五十石 (於豊前小倉御侍帳)
  天正六年志方落城之時六助ニ歳ニ而一命を遁れ、丹波国ニ隠れ、其後丹後国長生院と
  申寺俗縁有之ニ十五歳迄居候内、心操有之段忠興君被聞召、十七歳之時被召出御知行五
  十石拝領御昇頭被仰付、其後御加増百石被下、所々之御陳相勤、中ニも於高麗深手負、御
  懇之御意ニ而御直ニ御薬拝領、関ヶ原・大坂ニも右之役儀相勤、八代ニも御供仕、殊之外御
  懇意ニ而、寛永二十年病死           (綿考輯録・巻十六)   


 その子が志方半兵衛である。三齋の中津から八代居住に一貫して仕えた。
天草島原の乱に於いては、三齋の陣代として出陣した細川立允に従い、八代衆の働きぶりを報告したのが「志方半兵衛言上覚」である。 
 ■半兵衛・元政(之政)      
 (大阪御陳)手ニ合候者、七月朔日御饗応、御褒美被下候
  知行三百石 歩ニてしこを負、半弓を持て甲首一ッ討取、其外ニ一ッ討取を人奪取候由也
                           (綿考輯録・巻十九)
  三斎君ニ御奉公御知行被下置面々(中津)五百石  
  後千石ニ成ル、御家老被仰付候、御逝去後已後は光尚君ニ被召返
                           (綿考輯録-巻二十一)
 (1)三斎様御付中津ニ相詰候衆 丹後「源」五百石 (於豊前小倉御侍帳)
 (2)人持衆併組迯衆 五十人扶持 (真源院様御代御侍名附)
 (3)人持衆併組迯衆 五百石
 (4)千石 (八代分領侍帳・正保二年十二月)
 三齋の死後半兵衛も離國を考えていたふしが諸資料から伺える。

綿孝輯録・巻二十五(第三巻 忠興公・下 P323)に、三齋歿後の三齋御附衆の去就が次のように記されている。
三齋君之御家老長岡河内・一色杢・志方半兵衛何れも御暇相願候間、願之通被仰付候、佐方与左衛門・福知平右衛門・井戸文三郎・芦田十左衛門・魚住平左衛門等は宮松殿ニつかへ、其外宮松殿江勤も有之、御暇申候も有之、熊本江被召候も有之候、八代は長岡勘解由・丹羽亀之允・伊丹半弥等差越候間、御城引渡思ひ々々に立去り申候

 志方半兵衛については「半兵衛ハ他国ニは御出し不被成、後ニ子共被召出候」と注記されている。
息半右衛門についての史料は次のようなものである。

 ■半右衛門  (1)十一番氏家志摩守組 千石 (真源院様御代御侍名附)
        (2)三百石 (真源院様御代御侍免撫帳)
        (3)有吉内膳組・御弓廿張(頭) 千石 (寛文四年六月・御侍帳)

 志方家はその後、逸次家(400石)、軸人家(300石)、仙太家(300石)、半家(100石)等枝葉は大きく広がり明治に至っている。

 宮本武蔵の後継者寺尾氏との婚姻関係から、志方半兵衛五男が寺尾氏の養子となり剣の奥儀を極めて「新免弁之助」を名乗っている。


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