青龍寺以来の家に八木田家がある。私事で恐縮だが遠い縁でつながっている。それは我が祖母の叔母(狩野氏)が、八木田家に嫁いでいることによる。
遠祖・新三郎(入道宗貞)は三好家家臣であったが、三好家に於いて嫡庶の争いがあった際浪人、その後青龍寺に於いて藤孝(幽齋)に召し出された。細川家根本家臣の一人である。
二代目新右衛門(入道宗圓)は、「(下津)権内か甥にて候間、跡目可被為拝領との事に候へ共、新三郎存る旨有之、御断候而、権内か跡は断候由、新右衛門ハ藤孝君御側ニ被召仕候而いつの戦にか討死仕候由」(綿考輯録・巻九)
又、岐阜戦功吟味--城ニ付申衆(綿考輯録・十四 P258)として「八木田新右衛門 後号宗円、本知弐百石、為御褒美御加増弐百石、父ハ八木田新三郎入道宗真、於青龍寺被召出、丹後ニ而嶋森御城代」とある。
+--下津権内(岩成主税を討取り高名)
|
+---●
∥
八木田新三郎--新右衛門--+--丹右衛門・・・・・・・・・・・・・・・・・→新五家
|
+--小右衛門・・・・・十郎助 ・・・・・・→小 家
特筆すべきは、分家七代の十郎助である。「名は政名、幼名亥之助。十郎助と称し晩年桃水と号せり。藩に仕へ食禄二百五十石、八代城付組脇及び鉄砲頭を勤む。弱冠志を興し数十年の効を積み、新撰事蹟通考三拾余巻を編纂す。(肥後文献叢書・第三巻)弘化四年十月五日没す。享年六十九。墓は春日萬日山。」
細川家を研究する上で、「新撰事蹟通孝」は欠くべからざる史料である。よくぞここまでと感嘆せざるをえない。ただただ感謝!!
遠祖・新三郎(入道宗貞)は三好家家臣であったが、三好家に於いて嫡庶の争いがあった際浪人、その後青龍寺に於いて藤孝(幽齋)に召し出された。細川家根本家臣の一人である。
二代目新右衛門(入道宗圓)は、「(下津)権内か甥にて候間、跡目可被為拝領との事に候へ共、新三郎存る旨有之、御断候而、権内か跡は断候由、新右衛門ハ藤孝君御側ニ被召仕候而いつの戦にか討死仕候由」(綿考輯録・巻九)
又、岐阜戦功吟味--城ニ付申衆(綿考輯録・十四 P258)として「八木田新右衛門 後号宗円、本知弐百石、為御褒美御加増弐百石、父ハ八木田新三郎入道宗真、於青龍寺被召出、丹後ニ而嶋森御城代」とある。
+--下津権内(岩成主税を討取り高名)
|
+---●
∥
八木田新三郎--新右衛門--+--丹右衛門・・・・・・・・・・・・・・・・・→新五家
|
+--小右衛門・・・・・十郎助 ・・・・・・→小 家
特筆すべきは、分家七代の十郎助である。「名は政名、幼名亥之助。十郎助と称し晩年桃水と号せり。藩に仕へ食禄二百五十石、八代城付組脇及び鉄砲頭を勤む。弱冠志を興し数十年の効を積み、新撰事蹟通考三拾余巻を編纂す。(肥後文献叢書・第三巻)弘化四年十月五日没す。享年六十九。墓は春日萬日山。」
細川家を研究する上で、「新撰事蹟通孝」は欠くべからざる史料である。よくぞここまでと感嘆せざるをえない。ただただ感謝!!