二十数年前62歳で亡くなられた、映画評論家荻昌弘氏はエッセイ「歴史はグルメ」などで知られるように、食通で知られた。(この本を日本の古本屋で探しているが・・見つからない)もしご存命ならまだ84歳だ、ダンディー振りを発揮して素晴らしいおじいちゃんになっておられる事であろう。
荻家は云わずと知れた細川藩士の家である。初代又兵衛は加藤清正に仕えていたようで、同名の人物の黒印状が残されている。その出自ははっきりしないが、ひそかに駿河の国人荻氏ではないかと考えているが、良く判らない。歴代250石の荻氏だが9代角兵衛は郡代を勤めると共に実学党の一員と名を残している。
嘉永5年10月20日、吉田松陰が熊本を訪れた際の記録が「肥後国事史料」に残されている。
「宮部鼎蔵来伴訪横井平四郎、荻角兵衛亦會焉、夜到宮部留宿」
吉田松陰も宮部鼎蔵も横井小楠もそれぞれ不幸な死を遂げたが、荻昌国は自殺という形で死を迎えた。何が原因であるのかはっきりしない。いろいろ憶測でかかれているものがあるが、いささか眉をひそめるものも有る。
安政五年七月~安政五年八月 芦北郡郡代
安政五年八月~文久二年一月 小国久住郡代
荻 麗門 名は昌国、角兵衛と称し、麗門と号す。藩に仕へ諸役を経て芦北及び
小国久住の郡代となり、禄二百五十石。元田東野六友の一人なり。
気宇博大議論充実、心を天下に注ぎ、意を経済に用ふ。
文久二年正月十八日小国に於て故ありて自殺す。年五十。
墓は本妙寺中東光院。
荻家は云わずと知れた細川藩士の家である。初代又兵衛は加藤清正に仕えていたようで、同名の人物の黒印状が残されている。その出自ははっきりしないが、ひそかに駿河の国人荻氏ではないかと考えているが、良く判らない。歴代250石の荻氏だが9代角兵衛は郡代を勤めると共に実学党の一員と名を残している。
嘉永5年10月20日、吉田松陰が熊本を訪れた際の記録が「肥後国事史料」に残されている。
「宮部鼎蔵来伴訪横井平四郎、荻角兵衛亦會焉、夜到宮部留宿」
吉田松陰も宮部鼎蔵も横井小楠もそれぞれ不幸な死を遂げたが、荻昌国は自殺という形で死を迎えた。何が原因であるのかはっきりしない。いろいろ憶測でかかれているものがあるが、いささか眉をひそめるものも有る。
安政五年七月~安政五年八月 芦北郡郡代
安政五年八月~文久二年一月 小国久住郡代
荻 麗門 名は昌国、角兵衛と称し、麗門と号す。藩に仕へ諸役を経て芦北及び
小国久住の郡代となり、禄二百五十石。元田東野六友の一人なり。
気宇博大議論充実、心を天下に注ぎ、意を経済に用ふ。
文久二年正月十八日小国に於て故ありて自殺す。年五十。
墓は本妙寺中東光院。