細川齊樹が疱瘡でなくなったあと急養子で細川宗家を相続したのが、齊樹の甥(兄立之の子)宇土藩九代当主立政である。
立之は立礼(宗家相続して齊茲)の嫡男で、父立礼が宗家を相続したため、天明七年わずか四歳で宇土支藩を相続した。齊樹は立礼が宗家を相続した後に誕生している。
立之は享和二年に土井大炊頭利厚息女福(トミ)姫と婚姻、文政元年35歳で亡くなっている。
この福姫が賢夫人と称えられる栄昌院である。父土井利厚は「下総古河藩第3代藩主。土井家宗家10代」、二人が結婚した頃は老中についたばかりの時期である。
ja.wikipedia.org/wiki/土井利厚
思いがけず細川宗家を相続した立政(齊護)にたいして、栄昌院は教戒文を与えている。
又、宇土に残された立政の子・雅之進(後の細川慶前)を、天保八年齊護の嫡子として宗家に入るまで厳しく育て上げた。(残念ながら嘉永元年23歳で亡くなった)
栄昌院は宗家に入られることは無かったが、其の後の歴代の血の中に生きて居られる。
宇土細川家家臣・佐方信規の「栄昌大夫人遺事」という文書が残されている。
又柴桂子氏の「女性たちの書いた江戸後期の教訓書」にも取り上げられている。
立之は立礼(宗家相続して齊茲)の嫡男で、父立礼が宗家を相続したため、天明七年わずか四歳で宇土支藩を相続した。齊樹は立礼が宗家を相続した後に誕生している。
立之は享和二年に土井大炊頭利厚息女福(トミ)姫と婚姻、文政元年35歳で亡くなっている。
この福姫が賢夫人と称えられる栄昌院である。父土井利厚は「下総古河藩第3代藩主。土井家宗家10代」、二人が結婚した頃は老中についたばかりの時期である。
ja.wikipedia.org/wiki/土井利厚
思いがけず細川宗家を相続した立政(齊護)にたいして、栄昌院は教戒文を与えている。
又、宇土に残された立政の子・雅之進(後の細川慶前)を、天保八年齊護の嫡子として宗家に入るまで厳しく育て上げた。(残念ながら嘉永元年23歳で亡くなった)
栄昌院は宗家に入られることは無かったが、其の後の歴代の血の中に生きて居られる。
宇土細川家家臣・佐方信規の「栄昌大夫人遺事」という文書が残されている。
又柴桂子氏の「女性たちの書いた江戸後期の教訓書」にも取り上げられている。