津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

下天を謀る(上)(下)

2009-12-29 13:43:15 | 書籍・読書

下天を謀る(上) 下天を謀る(下)

安部龍太郎著 新潮社
価格(上)(下)共 1,680円

ソニーとCIAを併せたような智謀――。戦国最強のNo.2、藤堂高虎見参!


乱れ荒んだ天下を情報戦略によって再編成したインテリジェンス。関ヶ原の戦いを短期間でアレンジした外交術。築城革命と都市計画を推進した技術力。晩年の秀吉を敬遠して家康に与した情勢判断力――しかし高虎はトップを避けて参謀役に廻り続けた。サバイバルの果てに江戸幕府の基礎を設計した、巨漢大名の壮大な生涯。

 「加藤清正妻子の研究」の著者・福田正秀氏からのご紹介をいただき、正月休みに読破しようと思っています。
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栄昌院さま

2009-12-29 13:31:49 | 歴史
 細川齊樹が疱瘡でなくなったあと急養子で細川宗家を相続したのが、齊樹の甥(兄立之の子)宇土藩九代当主立政である。
立之は立礼(宗家相続して齊茲)の嫡男で、父立礼が宗家を相続したため、天明七年わずか四歳で宇土支藩を相続した。齊樹は立礼が宗家を相続した後に誕生している。
立之は享和二年に土井大炊頭利厚息女福(トミ)姫と婚姻、文政元年35歳で亡くなっている。
この福姫が賢夫人と称えられる栄昌院である。父土井利厚は「下総古河藩第3代藩主。土井家宗家10代」、二人が結婚した頃は老中についたばかりの時期である。
    ja.wikipedia.org/wiki/土井利厚

 思いがけず細川宗家を相続した立政(齊護)にたいして、栄昌院は教戒文を与えている。
又、宇土に残された立政の子・雅之進(後の細川慶前)を、天保八年齊護の嫡子として宗家に入るまで厳しく育て上げた。(残念ながら嘉永元年23歳で亡くなった)

 栄昌院は宗家に入られることは無かったが、其の後の歴代の血の中に生きて居られる。

宇土細川家家臣・佐方信規の「栄昌大夫人遺事」という文書が残されている。
又柴桂子氏の「女性たちの書いた江戸後期の教訓書」にも取り上げられている。
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