新田藩二代藩主・細川利昌の弟・利武が、細川宗家綱利の養子(宣紀)となった時分、代々三家老がうち揃って利昌の家禄を三万五千石から五万石に増やそうと考えたらしい。同意を求められた家老・木村豊持が不同意、これが原因かどうかは判らないが、新田藩の加増はなされていない。木村豊持は綱利の隠居をすすめんが為、御詰間に三日間綱利の出座を待ち、詰間を覗いた綱利の袴にすがって諫言したという剛の人である。加増に成らなかった利昌の七男・豊章が、豊持の養嗣子として木村家に入った。豊持の伯母なる人が将軍家綱の乳母であり、公儀は豊持に一万石を与えて御直参となすべく、井伊掃部頭より内意があったがこれを辞退し、晩年は京都に住まいしている。信念の人である。
細川」宗家
光尚---+--綱利===宣紀(利武)---宗孝
|
| +--利方---利寛
| 新田藩・初代 2 | 3 ↓4
+--利重---+--利昌 -----+--利恭===利寛
| |
+--利武 +--豊章
↓
上林加賀守 ・・・・・→木村豊政---豊持===豊章
細川」宗家
光尚---+--綱利===宣紀(利武)---宗孝
|
| +--利方---利寛
| 新田藩・初代 2 | 3 ↓4
+--利重---+--利昌 -----+--利恭===利寛
| |
+--利武 +--豊章
↓
上林加賀守 ・・・・・→木村豊政---豊持===豊章