住江小左衛門の召出しは古く、丹後に於いて忠興によってとされる(300石)。関ヶ原陣後600石の加増、豊前で200石を拝領して1,000石の大身となった。
住江小右衛門
始は明石左近家来にて三百石取しを、先知にて被召抱候、左近身体果候
時玄蕃殿御肝煮にて魚住右衛門兵衛・鯛瀬善助と共に三人被召出候、仔
細は太閤の御意にて播磨におゐて六ヶ敷城を云付られしかハ、此三人の
者忍ひて乗取し故なり、関ヶ原御帰陳後六百石御加増、其後弐百石御加
増、丹後にてハ十五挺頭、豊前にてハ三十挺頭なり、求馬か親甚兵衛ハ
小右衛門か養子婿にて別禄なり、当甚右衛門八右衛門か祖なり
二代目甚兵衛は堀平左衛門(光尚に殉死)の実弟、宝暦の改革の立役者・堀平太左衛門は甥にあたる。住江家に於いては求馬を初代としているが、4・6代は中瀬氏(秀吉の旧主・松下嘉兵衛=石見守の子孫)からの養嗣子である。
松下氏
+---堀平左衛門 中瀬助九郎---+--助之允---+--助之進
| | |
+-------甚兵衛 +--萬之允 +-----甚右衛門
↓ ↓ ↓
小右衛門---+==甚兵衛---+--求馬---甚兵衛---求右衛門===萬之允===甚之允===甚右衛門--+
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| +----------------------------------------------+
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| +---求之丞---次郎吉---甚兵衛 (甚兵衛家)
|
+--八右衛門---角太夫---勘右衛門---小右衛門---八右衛門---+
|
+--------------------------------------------+
|
+---直記---又八---嗣八---格之允 (又八家)
住江甚三郎
名は訓一、通称甚兵衛、晩に甚三郎と改む。食禄千石、小姓頭、用人、奉行職
を経て権大参事に至る。また留守番頭となる。父松翁と共に大に尊王の大儀を
唱へ同士を率いて禁闕を守護す。明治九年十月十二日没す、年五十二。
墓は北岡安国寺。明治三十五年一月従四位を贈らる。
住江小右衛門
始は明石左近家来にて三百石取しを、先知にて被召抱候、左近身体果候
時玄蕃殿御肝煮にて魚住右衛門兵衛・鯛瀬善助と共に三人被召出候、仔
細は太閤の御意にて播磨におゐて六ヶ敷城を云付られしかハ、此三人の
者忍ひて乗取し故なり、関ヶ原御帰陳後六百石御加増、其後弐百石御加
増、丹後にてハ十五挺頭、豊前にてハ三十挺頭なり、求馬か親甚兵衛ハ
小右衛門か養子婿にて別禄なり、当甚右衛門八右衛門か祖なり
二代目甚兵衛は堀平左衛門(光尚に殉死)の実弟、宝暦の改革の立役者・堀平太左衛門は甥にあたる。住江家に於いては求馬を初代としているが、4・6代は中瀬氏(秀吉の旧主・松下嘉兵衛=石見守の子孫)からの養嗣子である。
松下氏
+---堀平左衛門 中瀬助九郎---+--助之允---+--助之進
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+-------甚兵衛 +--萬之允 +-----甚右衛門
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小右衛門---+==甚兵衛---+--求馬---甚兵衛---求右衛門===萬之允===甚之允===甚右衛門--+
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| +---求之丞---次郎吉---甚兵衛 (甚兵衛家)
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+--八右衛門---角太夫---勘右衛門---小右衛門---八右衛門---+
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+---直記---又八---嗣八---格之允 (又八家)
住江甚三郎
名は訓一、通称甚兵衛、晩に甚三郎と改む。食禄千石、小姓頭、用人、奉行職
を経て権大参事に至る。また留守番頭となる。父松翁と共に大に尊王の大儀を
唱へ同士を率いて禁闕を守護す。明治九年十月十二日没す、年五十二。
墓は北岡安国寺。明治三十五年一月従四位を贈らる。