細川忠興の北の方ハ明智光秀が女なり父謀反の時忠興に向ひ申されけるハ父ながら
かゝるくハだて事よくなるべしともおもハれす滝川柴田なんど申人々多ければ必ず軍敗
るへし女の浅き智慧にも口をしくこそ存し男の身ならんにハ鎧の袖にすがりても諌め申
べきを力なし君もし與させさ給ひなば世の譏(そしり)いかでか遁れさせ給ハんと涙に沈
まれしかば忠興光秀に同心なかりけり其後程経て秀吉伏見に有りて諸大名の北の方
を呼入て饗れし事の有しに忠興の北の方かくと聞き女の人なくて一間に入りて他人に
まみゆる事やあるわれも召れんとならばとて懐にヒ首を用意せられけり此れより秀吉の
悪行ハやみてけり石田西國の諸将をかたらひて兵を起す時諸大名の北の方を大坂城
中に取入れんとするを北の方聞て傳に付られし河喜多石見稲留意賀小笠原正斎を呼
て吾此所を出ん事思ひもよらず城中に取こめられんハ恥辱なりよく断を申たべ猶聞入ら
れずハ是を限と思ひ定むべしと語られしかば正斎東國に向ハせ給ひし時おもひかけざる
事のあらんにハ正斎はからひて武将の恥なさらしそと仰せ置れき敵奪ひとらんとするな
らば其時思召切せ給へと申しけりかゝる處に城中に入よと使を以ていたせしかば再三
断の旨を述けれども聞入れず七月十七日の未の刻ばかりに大坂の軍兵五百餘り玉造
口の屋敷ヲとりまきてとく城中に入り申されよさらずハ乱入りて奪取んと呼ハりけり女房
ばらあハてゝ泣悲めども北の方ハさわぐ色もなくかくあらんとハ兼ておもひ設つる事ぞと
正斎介錯せよわれ生る世にまみえざりし人々に死しての後も見られんハよからじとて面
に覆面打かけくゝり袴着て刀を抜胸につきたてられしかバ正斎眉尖刀(なぎなた)にて介
錯し其まゝそこにて腹を切んとせし處に正斎が小姓はしり来たり殿の北の方と同じ處に
自害あらバ後の誹のあるべきと云ひければ正斎あまりのいたましさにわすれたるよとて
障子の外に走り出家に火を懸け石見と共に腹切て炎の中に死したりけり伊賀ハ光秀よ
り附られし身なれバ遁るべき道もなきに人にまぎれて落うせけり忠興の北の方かたみと
おもハれけん手ずさみのように書すてゝ硯の中に入られし哥に
先たつハおなしかきりの命にもまさりてをしき潔とぞしれ
落出たる女房の取傳へて世に残りけるとなん
かゝるくハだて事よくなるべしともおもハれす滝川柴田なんど申人々多ければ必ず軍敗
るへし女の浅き智慧にも口をしくこそ存し男の身ならんにハ鎧の袖にすがりても諌め申
べきを力なし君もし與させさ給ひなば世の譏(そしり)いかでか遁れさせ給ハんと涙に沈
まれしかば忠興光秀に同心なかりけり其後程経て秀吉伏見に有りて諸大名の北の方
を呼入て饗れし事の有しに忠興の北の方かくと聞き女の人なくて一間に入りて他人に
まみゆる事やあるわれも召れんとならばとて懐にヒ首を用意せられけり此れより秀吉の
悪行ハやみてけり石田西國の諸将をかたらひて兵を起す時諸大名の北の方を大坂城
中に取入れんとするを北の方聞て傳に付られし河喜多石見稲留意賀小笠原正斎を呼
て吾此所を出ん事思ひもよらず城中に取こめられんハ恥辱なりよく断を申たべ猶聞入ら
れずハ是を限と思ひ定むべしと語られしかば正斎東國に向ハせ給ひし時おもひかけざる
事のあらんにハ正斎はからひて武将の恥なさらしそと仰せ置れき敵奪ひとらんとするな
らば其時思召切せ給へと申しけりかゝる處に城中に入よと使を以ていたせしかば再三
断の旨を述けれども聞入れず七月十七日の未の刻ばかりに大坂の軍兵五百餘り玉造
口の屋敷ヲとりまきてとく城中に入り申されよさらずハ乱入りて奪取んと呼ハりけり女房
ばらあハてゝ泣悲めども北の方ハさわぐ色もなくかくあらんとハ兼ておもひ設つる事ぞと
正斎介錯せよわれ生る世にまみえざりし人々に死しての後も見られんハよからじとて面
に覆面打かけくゝり袴着て刀を抜胸につきたてられしかバ正斎眉尖刀(なぎなた)にて介
錯し其まゝそこにて腹を切んとせし處に正斎が小姓はしり来たり殿の北の方と同じ處に
自害あらバ後の誹のあるべきと云ひければ正斎あまりのいたましさにわすれたるよとて
障子の外に走り出家に火を懸け石見と共に腹切て炎の中に死したりけり伊賀ハ光秀よ
り附られし身なれバ遁るべき道もなきに人にまぎれて落うせけり忠興の北の方かたみと
おもハれけん手ずさみのように書すてゝ硯の中に入られし哥に
先たつハおなしかきりの命にもまさりてをしき潔とぞしれ
落出たる女房の取傳へて世に残りけるとなん