津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

高山右近の弟

2009-12-07 08:47:35 | memo
 米田求政の弟米田甚左衛門・是澄の、討死に至る勇猛な働き振りを秀吉に伝えた人物が、高山右近の弟・高山喜兵衛だという。 (米田家臣中山宗俊覚書より)

 高山右近の子孫は全国に三家あると伝えられるが、この喜兵衛なる人の其の後の消息は・・・ご存知の方はご教示いただきたい。
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遠山三右衛門の「安政の大地震」-- 2

2009-12-07 08:05:59 | 歴史
一、損所大略
   御本丸百人番所潰れ下勘定同段黒鍬詰小屋同断是ハ高石垣崩れ掛り石撃れ死候者未
   數不相分桔梗御門潰れ和田倉同断其植え焼其外石垣壁御櫓等所々大破私見受候者白
   金御屋敷前町家裏屋共拾軒余つぶれ即死多人其外破損三田臺町大概同断三田町少々
   薩州様御殿共ニ大破御住居不相成青山江御立除久留米様右同断御住居は相成居申候
   潰家不相見神明前強く倒れ此邊尤強く相見申候柴井町露月町邊者潰家之植え焼失愛
   宕下邊潰家數多外櫻田幸橋内邊屋敷/\御殿御長屋共倒れ焼失八官町邊破損迄ニ而
   倒家等不見受大名小路大破倒家等有の日比谷御門より龍口迄之處八代洲海岸邊一軒
   も不残潰れ横町少々宛倒れかゝる上御屋敷餘程張損シ西側御家老衆御小屋等住居不
   相成道三橋より御普請小屋大破酒井左衛門尉様越前様格別之大破ハ見受不申常盤橋
   外より日本橋邊者大損シ不相見本通筋京橋邊損家計内大破家所々有之京橋より新橋
   迄同様焼失塙(ママ)地震ニ而土蔵損シ候上之火故残り候土蔵百ニ一も無覚束柴井町邊
   土蔵數四五百も可有之内焼残ハ貮ツ漸く相見申候其餘者都而焼失先往来仕見受候處
   大略右之通ニ御座候
一、承及候損所
   千住邊新吉原浅草邊倒家潰家七歩通餘者都而大破下谷本所深川邊同断赤坂邊潰れ家
   倒れ長屋等所々ニ有之品川邊右同断小石川邊高之の分少々軽く下々之者ハ不及申候
   偖大小名ニ而も住所無之野宿被成御凌キ候御方数多有之状
一、死亡十万ニも可及取沙汰候得共夫程ニ者有之間敷四五百ハ必定に相見申候死亡之者
   取片付棺■(扌編に郭)坏存も不寄瓶早桶も即時品切ニ相成酒樽油樽醤油樽砂糖樽等
   小なるハ底を抜詰込上下ハ莚ニ而ツゝミ葛籠天水桶玄蕃桶長持そうめん箱米俵炭俵もつ
   かふニ乗せ候も有之又ハ人馬共車ニ積揚ケ引参も赤羽橋ニ両度見受申候
一、三日公義より御觸達當年中月次出仕御用捨玄猪御祝無之諸大名屋敷潰れ焼失等ニ而
   難澁之面々勝手ニ御暇被下御城御飾場所之外都而其儘ニ被差置候二付屋敷/\も右
   心得ニ而入用不得止場手軽作事いたし候様昨年武器用意之ため年賦拝借之分都而被
   捨下以上御觸面大意之書取諸大名御側衆御使番等を以三日之晝一統御尋上使右之稜
   々者御承知ニも相成居たる儀ニ奉存候得共餘り速なる御決議ニ感心仕言上仕候
一、一番御馳付ハ御老中内藤紀伊守様是ハ御寝巻之儘御脇差計ニ而御馳出御途中御家来
   馳付候衣類大小等御借御召替被成候由奉入御覧候ケ條数多有之候得共何分暇無之只
   今急御使ニ付大いそぎ誠ニ大乱筆奉申上候以上
       十月八日                  遠山三右衛門
          市郎兵衛様

                          (了)
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