明智光秀謀反当日の覚書である。
一、勝龍寺城其時ハ矢部善七殿イノコ兵助殿両人預りニ而御座候
一、六月朔日夜明ヶ及頃者二日京大分やけ申候事ニて二日早天二
東之川端江神足掃部見ニ罷越候得者いのこ兵助殿矢部
善七殿内山田甚六殿と申仁京都より罷下掃部ニ申候様ハ今迄
萬事申■候間身上之儀ハ其方ニまかせ申候侭外聞失ひ
不申候様ニ仕可給候由被申是ハ不審なる儀被申何事不寄
申合候上■今更別儀不可有之由掃部申候此上ハ隠して不入儀ニ候
信長様御勝めし候間此儀ニて如何可仕候やと右三人申候掃部
申候天下を引更運の開き申こ戸ニ而はなく候へ共成り申程かせき
籠城可仕と申別心無之上ハ女子ハ城へ上ケ可申候合手ハ何某
と見候哉と申立候明智殿と右両人衆申され左候者心安
被存候得と何事も気遣なき事を申し候■籠城用意仕候矢部
善七殿は其時分さかいへ信長様御使ニ被参候留守ニ手御座候故
人数無御座候事
一、同六月二日之巳之刻斗ニあけち勝兵衛佐竹出羽いたい半左衛門
三人之大将ニて人数六百斗被参神足掃部不死へあけち殿
より申渡儀御座候間早々被罷で候得と申候二付如何可仕と談
合仕候處ニ先出候て可承と申し候而罷出申候右三人之衆申候ハ
勝龍寺之城をハせめ可申哉又ハ其方ハ父子存分次第ニ可仕と
あけち殿より被仰出と申候二付掃部申候ハ我等爰元父子居申
候とても預り人候間其由可申と申候て城へ参申候間ニはや
神足村之百姓五十人程くひを取られ申候其侭掃部罷出
者やうやうニ百姓之首とり申候事沙汰の限ニ候いかい半左衛門
とはたし可申候而しつまり弥城あつかい仕申候事
了
一、勝龍寺城其時ハ矢部善七殿イノコ兵助殿両人預りニ而御座候
一、六月朔日夜明ヶ及頃者二日京大分やけ申候事ニて二日早天二
東之川端江神足掃部見ニ罷越候得者いのこ兵助殿矢部
善七殿内山田甚六殿と申仁京都より罷下掃部ニ申候様ハ今迄
萬事申■候間身上之儀ハ其方ニまかせ申候侭外聞失ひ
不申候様ニ仕可給候由被申是ハ不審なる儀被申何事不寄
申合候上■今更別儀不可有之由掃部申候此上ハ隠して不入儀ニ候
信長様御勝めし候間此儀ニて如何可仕候やと右三人申候掃部
申候天下を引更運の開き申こ戸ニ而はなく候へ共成り申程かせき
籠城可仕と申別心無之上ハ女子ハ城へ上ケ可申候合手ハ何某
と見候哉と申立候明智殿と右両人衆申され左候者心安
被存候得と何事も気遣なき事を申し候■籠城用意仕候矢部
善七殿は其時分さかいへ信長様御使ニ被参候留守ニ手御座候故
人数無御座候事
一、同六月二日之巳之刻斗ニあけち勝兵衛佐竹出羽いたい半左衛門
三人之大将ニて人数六百斗被参神足掃部不死へあけち殿
より申渡儀御座候間早々被罷で候得と申候二付如何可仕と談
合仕候處ニ先出候て可承と申し候而罷出申候右三人之衆申候ハ
勝龍寺之城をハせめ可申哉又ハ其方ハ父子存分次第ニ可仕と
あけち殿より被仰出と申候二付掃部申候ハ我等爰元父子居申
候とても預り人候間其由可申と申候て城へ参申候間ニはや
神足村之百姓五十人程くひを取られ申候其侭掃部罷出
者やうやうニ百姓之首とり申候事沙汰の限ニ候いかい半左衛門
とはたし可申候而しつまり弥城あつかい仕申候事
了