幕末期大奉行の要職にあった真野源之助について調べている。
家紋を見ると、「抱き杏葉紋」である。大友一族かと思って調べているが、現況よくわからない。
真野源之助は
名は景豊又景福、字は子純、通称を源之助と云ふ。大観堂の号あり。
禄三百五十石、奉行職より大奉行職に昇り蕃の要路に在る事廿二年
秩禄職俸を併せて千五百石に至る。又蘰園の学を好み康済に志あり、
持論鑿々條理あり、時勢に明にして頗る機宣に達せり。
万延元年十一月朔日没す。年六十八。墓は京町往生院。
御知行取諸御目付・学校方御奉行触 時習館句讀師 百五十石
↓
文政十年九月(35歳)~天保三年三月 八代郡代
天保三年三月~天保三年九月 阿蘇南郷郡代
天保三年九月~天保三年十二月 野津原鶴崎郡代
天保三年十二月~天保七年十一月 上益城郡代
天保十年八月~天保十二年六月 奉行副役
天保十二年六月~嘉永四年三月 奉行
嘉永四年六月~安政四年四月 奉行・大奉行助勤
安政四年四月~万延元年十一月(68歳) 大奉行
真野家の8代目で有る源之助は、家代々の家禄である150石を継ぎ、激動期の大奉行に上り詰める訳だが、余程優秀な人物であったのだろう。その職を離れるのは死によってである。功なり名を上げ1,500石の大身となったが、時が人を求めた結果であろう。
家紋を見ると、「抱き杏葉紋」である。大友一族かと思って調べているが、現況よくわからない。
真野源之助は
名は景豊又景福、字は子純、通称を源之助と云ふ。大観堂の号あり。
禄三百五十石、奉行職より大奉行職に昇り蕃の要路に在る事廿二年
秩禄職俸を併せて千五百石に至る。又蘰園の学を好み康済に志あり、
持論鑿々條理あり、時勢に明にして頗る機宣に達せり。
万延元年十一月朔日没す。年六十八。墓は京町往生院。
御知行取諸御目付・学校方御奉行触 時習館句讀師 百五十石
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文政十年九月(35歳)~天保三年三月 八代郡代
天保三年三月~天保三年九月 阿蘇南郷郡代
天保三年九月~天保三年十二月 野津原鶴崎郡代
天保三年十二月~天保七年十一月 上益城郡代
天保十年八月~天保十二年六月 奉行副役
天保十二年六月~嘉永四年三月 奉行
嘉永四年六月~安政四年四月 奉行・大奉行助勤
安政四年四月~万延元年十一月(68歳) 大奉行
真野家の8代目で有る源之助は、家代々の家禄である150石を継ぎ、激動期の大奉行に上り詰める訳だが、余程優秀な人物であったのだろう。その職を離れるのは死によってである。功なり名を上げ1,500石の大身となったが、時が人を求めた結果であろう。