「新書太閤記」にある、細川藤孝の実兄・三淵大和守に係わる部分をご紹介する。
【編輯人不詳 出版:東京栄泉社,明15.2】
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将軍家再度思召立事有て宇治填島へ移らせ給ひ要害を構へ合戦の用意なし玉ふ由岐阜
へ追々注進来りしかバ信長然も有べしと豫て思ひつれ然バ上洛すべしとて(天正元年)七
月三日回文を以て軍勢を催促せられ五日岐阜を出馬なし玉ひ佐和山に着御在ます虎御前
山の城主木下藤吉郎ハ竹中半兵衛尉重治に兵士数多差添防禦の手當厳重に沙汰し置其
身ハ信長の御供せんと急ぎ佐和山へ参上し御前へ伺候し将軍家始終の御顛末何と成るべ
き思召にやと尋ね奉つれバ信長宣ふ様将軍家初めハ一乗院の學慶得業とて法相の沙門
にて在しけるが御母御臺所并びに御兄将軍義輝卿の仇を報はん事を思召立せ玉ふとて越
前の國より遥々御頼仰越されし儘即日御迎を奉つり直に軍兵を發し事故なく都へ返し入奉
つり将軍宣下の大禮を始め都て信長是を奉行し御所の経営迄残る處なく忠義を盡し勲労を
厭ずなしつる事を早晩思召忘却させ玉ひ信長を滅ぼせとの御教書を諸国へ下されし事先達
て露顕したりし時御誤りの由仰られ候により信長疎意存じ奉つらずと申上て歸國したりしに
時月も移さず今度の御企て實に以て不當に在しませバ天下の為に此君を除き奉つるべきな
り元來自業自得と申べし但し御命の存亡ハ其時に臨まざれバ豫じめ定め難しと仰られけれ
バ藤吉郎承まはり仰の趣き隙間なく聞え候但し今度の御處置に因て君の御開運有べく候
へバ能々御賢慮を廻らされ候べし三好長慶が萬松院殿光源院殿両将軍を補佐し奉つりし
事涯分の力を竭して候へども終にハ逆臣の名を取て候と申上しかバ信長心得玉ふ由頷首
せ玉ふのみにて何とも仰られず秀吉ハ浅井押えの虎御前山を預る身なり彼地を動べから
ずと仰られしばれども秀吉虎御前山の警衛ハ手厚く申付候へバ更に心配無く候御供の事
一向願ひ奉つる由申上しかバ然バ召具し玉ふべき由仰付られ六日佐和山を立せられて豫
て長秀に仰付置れし大船に取乗て坂本へ押渡り直に京都へ寄玉ふとて先白河の在家に火
を掛て焼立玉へバ洛中洛外以ての外に騒動す二條御所にてハ豫て期したる事ながら日野
大納言高倉宰相など弓箭の家成ぬ方々の御過ちあらん事近頃以て心成ず候早く御立退然
るべし迚退せ奉つり三淵大和守藤秀以下同志の融資わづかに五百餘人大門を鎖固めて待
所に織田軍勢雲霞の如く押寄て■を吶と作りける三淵莞爾と打笑ひ天晴敵の大勢や斯る軍
の無りせハ我等の手柄何時顕るべきや日頃の約束違へれバ我に續けや若者共迚大門を八
文字に押開き吶と喚いて駆出る履の子を打たる如く透間なく群りたる敵なれバ将棋倒しを見
如く當るを幸ひ切伏薙伏突立けるにぞ織田方の先鉾立足もなく敗走す信長遥に御覧じて御
所方に斯程の勇士有べしとも思ハれず誰ならんと不審げに宣へバ荒木攝津守村重御側に
有けるが是ハ三淵大和守藤秀にて候べしと申けれ場可惜勇士なり討死と決したりと見ゆる
ぞ幸ひ長岡兵部太輔ハ近き間柄なり如何にもして渠を止よと仰らるゝにより藤孝馬を馳出し
たり三淵ハ敵をも多く討取しが味方も大形討れて漸く十五六人と成しかバ今ハ是迄なり御
所へ引返し自害せバやと思ひつゝ向を見れバ長岡馬を進めて馳近づく三淵思ふ様藤孝が
來るハ必定我自殺を止めん為成べし然ども何の為なり命を護ふべき速く御所へ入て門を閉
よと云棄て御所に走歸り既に大門を鎖固めし時藤孝馳付三淵殿に物申さん信長の口状も
有と雖も更に音もせず唯大庭に酒宴して舞つ唱ひつ高々と笑ふ聲のみ聞えて其後大和守
切腹しけれ場皆々追々に自害したりける藤孝門外に有て様々に音なへども答ふる音信なか
りしかバ是非なく門を打破り乗入て見れバ此ハ何に大和守を始め郎等十五六人皆一様に
腹を切俯伏に成て死したりけり藤孝涙を倶に信長の前へ出如斯なりて死て候と申しゝかバ
あら哀れや何卒して命を全くなさせ長く将軍家へ忠義を盡さんと思ひし物を斯空しく見なす
事の可愛さよと信長も暫時涙に咽び玉へバ其外の侍ひ中何れも鎧の袖を濡しけり此藤秀ハ
将軍未だ南都に在しましける頃より付随ひ奉つり江州越前若狭美濃の國々御動座の時少
しも離れず供奉したりける忠臣なり将軍の御行儀宜からざる事を悲み幾度となく諫言申或ひ
ハ御勘気を蒙り或ひハ御怒りを犯し心の及ぶ程忠言を盡し二條御所を預り寄手を引受花々
敷合戦し其後潔よく自害して滅ぬ藤孝ハ亦将軍の諌む可らざるを知て是を諌め信長に随ひ
て将軍の過ち無らん事を庶■其所業各々異なれども主君を思ひ奉つる處ハ全く同じと云べ
し斯て二條御所破れしかバ信長惣軍を率し宇治五箇の庄に移り柳山と云處を本陣と定めらる。
(以下略)
【編輯人不詳 出版:東京栄泉社,明15.2】
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将軍家再度思召立事有て宇治填島へ移らせ給ひ要害を構へ合戦の用意なし玉ふ由岐阜
へ追々注進来りしかバ信長然も有べしと豫て思ひつれ然バ上洛すべしとて(天正元年)七
月三日回文を以て軍勢を催促せられ五日岐阜を出馬なし玉ひ佐和山に着御在ます虎御前
山の城主木下藤吉郎ハ竹中半兵衛尉重治に兵士数多差添防禦の手當厳重に沙汰し置其
身ハ信長の御供せんと急ぎ佐和山へ参上し御前へ伺候し将軍家始終の御顛末何と成るべ
き思召にやと尋ね奉つれバ信長宣ふ様将軍家初めハ一乗院の學慶得業とて法相の沙門
にて在しけるが御母御臺所并びに御兄将軍義輝卿の仇を報はん事を思召立せ玉ふとて越
前の國より遥々御頼仰越されし儘即日御迎を奉つり直に軍兵を發し事故なく都へ返し入奉
つり将軍宣下の大禮を始め都て信長是を奉行し御所の経営迄残る處なく忠義を盡し勲労を
厭ずなしつる事を早晩思召忘却させ玉ひ信長を滅ぼせとの御教書を諸国へ下されし事先達
て露顕したりし時御誤りの由仰られ候により信長疎意存じ奉つらずと申上て歸國したりしに
時月も移さず今度の御企て實に以て不當に在しませバ天下の為に此君を除き奉つるべきな
り元來自業自得と申べし但し御命の存亡ハ其時に臨まざれバ豫じめ定め難しと仰られけれ
バ藤吉郎承まはり仰の趣き隙間なく聞え候但し今度の御處置に因て君の御開運有べく候
へバ能々御賢慮を廻らされ候べし三好長慶が萬松院殿光源院殿両将軍を補佐し奉つりし
事涯分の力を竭して候へども終にハ逆臣の名を取て候と申上しかバ信長心得玉ふ由頷首
せ玉ふのみにて何とも仰られず秀吉ハ浅井押えの虎御前山を預る身なり彼地を動べから
ずと仰られしばれども秀吉虎御前山の警衛ハ手厚く申付候へバ更に心配無く候御供の事
一向願ひ奉つる由申上しかバ然バ召具し玉ふべき由仰付られ六日佐和山を立せられて豫
て長秀に仰付置れし大船に取乗て坂本へ押渡り直に京都へ寄玉ふとて先白河の在家に火
を掛て焼立玉へバ洛中洛外以ての外に騒動す二條御所にてハ豫て期したる事ながら日野
大納言高倉宰相など弓箭の家成ぬ方々の御過ちあらん事近頃以て心成ず候早く御立退然
るべし迚退せ奉つり三淵大和守藤秀以下同志の融資わづかに五百餘人大門を鎖固めて待
所に織田軍勢雲霞の如く押寄て■を吶と作りける三淵莞爾と打笑ひ天晴敵の大勢や斯る軍
の無りせハ我等の手柄何時顕るべきや日頃の約束違へれバ我に續けや若者共迚大門を八
文字に押開き吶と喚いて駆出る履の子を打たる如く透間なく群りたる敵なれバ将棋倒しを見
如く當るを幸ひ切伏薙伏突立けるにぞ織田方の先鉾立足もなく敗走す信長遥に御覧じて御
所方に斯程の勇士有べしとも思ハれず誰ならんと不審げに宣へバ荒木攝津守村重御側に
有けるが是ハ三淵大和守藤秀にて候べしと申けれ場可惜勇士なり討死と決したりと見ゆる
ぞ幸ひ長岡兵部太輔ハ近き間柄なり如何にもして渠を止よと仰らるゝにより藤孝馬を馳出し
たり三淵ハ敵をも多く討取しが味方も大形討れて漸く十五六人と成しかバ今ハ是迄なり御
所へ引返し自害せバやと思ひつゝ向を見れバ長岡馬を進めて馳近づく三淵思ふ様藤孝が
來るハ必定我自殺を止めん為成べし然ども何の為なり命を護ふべき速く御所へ入て門を閉
よと云棄て御所に走歸り既に大門を鎖固めし時藤孝馳付三淵殿に物申さん信長の口状も
有と雖も更に音もせず唯大庭に酒宴して舞つ唱ひつ高々と笑ふ聲のみ聞えて其後大和守
切腹しけれ場皆々追々に自害したりける藤孝門外に有て様々に音なへども答ふる音信なか
りしかバ是非なく門を打破り乗入て見れバ此ハ何に大和守を始め郎等十五六人皆一様に
腹を切俯伏に成て死したりけり藤孝涙を倶に信長の前へ出如斯なりて死て候と申しゝかバ
あら哀れや何卒して命を全くなさせ長く将軍家へ忠義を盡さんと思ひし物を斯空しく見なす
事の可愛さよと信長も暫時涙に咽び玉へバ其外の侍ひ中何れも鎧の袖を濡しけり此藤秀ハ
将軍未だ南都に在しましける頃より付随ひ奉つり江州越前若狭美濃の國々御動座の時少
しも離れず供奉したりける忠臣なり将軍の御行儀宜からざる事を悲み幾度となく諫言申或ひ
ハ御勘気を蒙り或ひハ御怒りを犯し心の及ぶ程忠言を盡し二條御所を預り寄手を引受花々
敷合戦し其後潔よく自害して滅ぬ藤孝ハ亦将軍の諌む可らざるを知て是を諌め信長に随ひ
て将軍の過ち無らん事を庶■其所業各々異なれども主君を思ひ奉つる處ハ全く同じと云べ
し斯て二條御所破れしかバ信長惣軍を率し宇治五箇の庄に移り柳山と云處を本陣と定めらる。
(以下略)