津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

藤公(加藤清正公)遺業記から

2009-12-10 13:43:54 | 歴史
 加藤清正公が眠る浄地廟(本妙寺)の真横に、3mをゆうに越える大きな石碑が有る。
清正公を土木の神様と崇め「神君」と奉って憚らなかった、鹿子木惟善がその徳を称えて建立したものである。そこに刻まれている内容に、菊陽町馬場楠にある「鼻繰り」に関する記述などが確認された。いろいろ調べていたら同氏の著「藤公遺業記」の巻末にその碑の全文が掲載されていた。


       嗚呼公事上也忠、御下也仁、至其智勇、則古今絶倫、
       謀無不中、戦無不克、其動燗焉于前朝、史冊之所載、
       口碑之所傳、雖婦人需人、皆知而穪之、余先人又既
       著神道碑、鹿子木維善軸而蔵之寺中、頃維善來告曰、
       公之長于治國也、世之所不過知也、恐無傳後世、今
       欲新建碑、請継先君子識之、余因擧其揚較、昔肥之
       為國、數主領之、是以政令各異、風俗不一、民易蠢
       動、其於水理利、曲防自便、故失其性、公之就封也、
       法令厳明、寛以済之、人心帖然、皆愛戴之、築城於
       茶臼山、外至四陲、設険各所、以便防戦、實為四塞
       之國、都下壺川舊入白川、白川水迅、灘碩下流、積
       砂易致塡塞、公慮失船運之便、塞其所入、決之于西
       南、會井芹川、西至高橋入于海、故都下皆蒙其利、
       公旁巡封内、察其水理、於是大興土功、身親督之、
       是以成功速、而民不怨、其巨浸四、曰玖摩川、狭間
       石峻水駛、至于八代漸穩、其奔放之衝、分為三派、
       場而合之、拝而注之、以為一道入于海、曰緑河、決
       佐俣川、移御舟川、堤書湖之流、皆合之緑河、下及
       杉嶋、分其流、以穀洶湧之勢、或迂而緩之、或激而
       流之、西至于二丁于入海、曰白川、發源蘇山之麓、
       黒川出其北、合為一道、而為都東、西迤于海、曰菊
       池川、呑納追及合志鍋田之諸川、導至高瀬、移流於
       大小濱之間、西入于海、墾瀕海之斥鹵、堙味生之池、
       以為佃田、設堰于此、置閘于彼、築堤防、構掃棚、
       通溝渠、開水堰、凡其所營為、皆得其宣、是以乾無
       涸渇、澇無氾濫、荒蕪之野、斥鹵之地、變而為沃饒
       者多矣、今皆頼以為利、最工穿渠、有剪白川而漑于
       馬場楠者、其渠在両崖壁立之間、不便游浚、是以其
       穿也、一濶一狭、相承而下、濶處湛之、狭處噴之、
       水常激盪、自無壅游、民蒙共澤者、有私建祠而祭者、
       其所憩之樹、有比之甘棠、夫公功戦之功如比、治國
       之續又如比、而今威霊赫赫、一日盛於一日、邦人之
       敬事也、患患疾病、凡有求者必祷焉、不唯邦人而巳
       四隣之邦、亦皆敬之、不唯四隣之邦而巳、延及京攝
       遐遠之地、亦皆無不敬之、是何以使之然哉、蓋公之
       神、磅礴天地、果有不随死而亡者也、蘇子題韓文公
       碑曰、其生也有自來、其逝也有所為、余於公廟亦云
                   府學訓導大城允撰
                   蔡主 鹿子木惟善
  

  
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細川家家臣・久野(次郎左衛門)氏

2009-12-10 08:40:05 | 歴史
 久野氏は佐久間信盛の家臣であったことは、先祖附で承知していた。ある時久野氏宛の信盛息・不干齋の書状二点がオークションに出た。無事に久野氏が落札され現在は久野氏の所有となっている。当方にもコピーを頂戴し、関係者のご努力で読み解かれた内容は、大変興味深いものであった。

     【不干齋】・・・ ja.wikipedia.org/wiki/佐久間信栄

      (その一)
           尚以 不及申候へ共
           弥無油断御奉公
           専一ニ候 連々之儀ハ 如在申
           間敷候 以上
          御状到来 披見
          珍重ニ候 其後絶
          音問候処 御書中満
          足仕候 大阪御普請ニ
          御詰候由 御辛労奉
          察候 併無相違御奉
          公喜悦之至候 折々便
          を以 越中殿へ可申候
          条 可御心易候 折節
          持病発平臥候間 不
          能多筆候 恐々謹言
           五月二日    不干斉
                      (花押)
           久野二郎左衛門尉
                   回答


      (その二)
           尚以 久絶音間候処
           来札本望ニ存候 
           以上
          去月廿四日之御状到
          来 披見珍重々々
          先以其地御無事
          尤満足申候 今度内記
          守殿へ御家徳(ママ)相済、小
          倉へ御移之儀 千万目
          出存候 我等之大慶可
          有御推量候 殊貴
          所内記殿へ御付候由
          尤本儀ニ候 連々之儀
          内記殿へ可申入候 大坂
          御普請之刻 御煩ニ
          付 為三齋老御気
          色悪候へ共 被対拙老  
          御様捨之由 於我等承
          候 御父子へ御礼可申候
          此度之書中ニも 我等
          三齋老へ奉願 貴所
          出し申候由 内記殿へ
          申入候間 可御心易候
          将又 従旧冬長々
          煩申候キ 近比得快
          気 御前へ罷出候
          甚九郎も無事候間
          可御心易候 猶期後
          音時候 恐々謹言
           七月廿七日   不干斉
                      (花押)
           久野次郎左衛門殿
                   回答


 佐久間氏の没落により、再仕官を余儀なくされた旧臣を思いやる、不干齋(信栄)の暖かい心情が読み取れる。
コメント (2)
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