津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

勘違い

2010-01-04 11:00:02 | 徒然
 今年は寅歳、亡くなった母が寅歳であったことを思い出した。姉(4年前死去)に言わせると「根性者」ということになる。私が2歳に成る前に父が亡くなり、姉弟を苦労して育て上げた訳だから、確かに根性者であったのだろう。そんな母は自分の干支は「寅」それも「ごうの寅」だといっていた。姉が言う根性者から「剛の寅」か「豪の寅」だとずっと思い込んできた。生きていれば九まわり目の寅年なのだが、誕生の大正3年の年表を見て思わず苦笑してしまった。「甲寅=きのえとら」生まれだ。これを「こうのとら→ごうのとら」と言ったのではないのだろうかと・・。

 口数の少ない細身の物静かな人だったから、姉のいう「根性者」も以外だったし、ましてや「ごうの寅」も母には似合わぬもので不思議に思っていた。「甲寅」が正解であるのかどうか、来世で母に再会するまでは謎のままだが、案外こんな所が正解なのだろう。
とんだ勘違いで60数年を過してきた。
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有吉家御家傳略 - 3

2010-01-04 10:15:39 | 歴史
   武蔵守様之傳
一、永禄元年立言君朽木谷御住居之節御嫡子御長や内ニ而正月十一日御出生武蔵守立行
   君と奉申候事 御幼名千松様 万助様 平吉様 四郎右衛門様 後武蔵守様
一、立行君御幼年より藤孝公御側ニ御育て被成り候由然るに御十三之冬藤孝公の御許ニ御
   夜噺之御客御座候節御客仕之時分御料理人返言仕候ニ付御言葉を御懸被成候間鍋を
   御料理人請取候処を御脇差ニ而御切被成候藤孝公其節之御仕方殊之外御賞美被成候
   事
一、岩城(ママ・成)主税助吉道が籠たる淀之城責之節立行君御十六ニ而御初陳被成鑓を御合
   御高名被成候立行君御甲之御立物ハ白熊毛之天衝ニ而御座候御指物者白練鞘の手ニ
   而御座候事
妙鏡様之傳
一、妙鏡様御女儀ながら武偏ニ御心懸有之乗馬御達者ニ被成り御座候丹後御城下より一里
   程有之萱と申所に御隠居被成り菅源兵衛御附申上居候有時萱より御城下へ御出之節御
   乗馬ニ而源兵衛を被召連御途中ニ而手負猪駆来候を妙鏡様御馬より御下立被成長刀を
   御取手負猪御仕留被成候惣而立行君御代ニ者何事ニよらすに被成御座節ハ御家中之御
   仕置等御支配被成候事

一、天正十八年三月相州小田原之城豆州韮山之城秀吉公御責被成候節忠興公被指向候此
   時立行君出丸を御責破被成火を御放被成御焼立被成候其節組打ニ而首を御取被成御高
   名御座候事
一、天正年中ニ秀吉公城州淀之城御普請之時秀吉公御縄張ニ而御座候忠興公御供ニ立行君
   御出被成り候立行君御縄張悪し被思召候ニ付御仕直し被成候處秀吉公御覧被成り忠興
   公へ御尋被成候ニ付立行君御直ニ被仰上候ハ御差圖之通ハ悪しく奉存候ニ付委細御存
   寄之通仰上候書何共秀吉公御返答なく四郎右衛門 此時四郎右衛門様と奉申候 縄張之通と被
   仰候忠興公殊外御気遣被成候よしニ御座候立行君へ御普請場へ笠をかぶり候様我等目
   前ニ而も不苦候由秀吉公被仰候事
一、文禄元年秀吉公朝鮮國へ御人数被差向候忠興公へも御渡海被成立行君御渡海ニ而彼國
   ニ而御武功御座候事
一、挑戦二て城責之節立行君結橋を御乗上り被成候処城内より半弓を射懸け石を強ク投けけ
   るゆへ立行君も彦四郎もとも二御絶入被成候然るに的わめき申■ニて彦四郎正気を得立
   行君を押起候得ハ其侭御正気被為附候ゆへ又結橋を懸りへ無程城へ御乗込被成彦四郎
   も一同ニ乗込申し立行君米田助右衛門殿 是政 両組之諸士其外御家士何れも乗入相働き
   首を取彦四郎兄九兵衛も力戦して首を取彦四郎ハ城中ニ而左之股を射られ其侭的と組合し
   が無程組伏首を取此時猶少々手を負申候事
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