津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

大寒や・・・

2010-01-21 23:00:57 | 徒然
 昨日は大寒、「大寒」という季語でどのような俳句があるだろうかと思ってぐぐってみたら、名句に遭遇した。西東三鬼の句である。

        大寒や転びて諸手つく悲しさ

 大寒の寒さの中で前のめりに転んで両手をついて呆然としたのだろう。うまいなーと惚れ惚れしてしまう。
私も去年の五月、真っ暗闇の駐車場で車止めに足を引っ掛けて、見事に転んだ。左膝をしたたか打って後遺症に悩まされている。何とも惨めで、誰も見ていないのにキョロキョロしてあたりを見まわしたことを覚えている。もう少し若かったら転ばなかったかもしれない、年のせいだとショックを受けたものだ。・・・・こんな句を作ってみたいものだ。

 昨日の大寒は20度を越える暖かさだった。今日は余りよい天気ではなかったが、それでも随分暖かくて、靴下なしで過した。あちこちで梅の花が咲いたことを報じている。そろそろ鴬の初鳴きが聞えそうだ。

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追廻田畑

2010-01-21 17:44:04 | 熊本
 熊本の夜を象徴する栄通りや銀杏通り一帯は、かっては追廻田畑といっていた。私の若い頃は夜な夜な此の界隈で飲みまわっていた。ギターを爪弾く友人と「霧にむせぶ下追廻田端町」という、恐ろしい歌をつくっておだを上げていた。当時はいわゆるムード歌謡が盛んな時代である。

 細川藩主の住まい「花畑御屋敷」の東側にあたるこの一帯は、加藤清正が付け替えを行った旧白川の跡地だとされる。現在の下通りに建ち並んだ侍屋敷と「花畑御屋敷」の間は低い湿地帯だったようで「田畑」と呼ばれたのであろう。ものの本によると終戦後の瓦礫の山で埋め立てられ、現在のような町並みが出来たのだそうだ。「追廻田畑」の追廻とは「花畑御屋敷」から西の方に数百メートルの追廻馬場が有った事による。

 あることを調べようと「花畑御屋敷」の図面を眺めているが、ちょうど南の端が栄通りと並行している事が判る。「花畑御屋敷」は弐万四千七百余坪有ったとされるが、その広さに改めて驚かされる。名残を留めている花畑公園は南西の隅の一角100メートル四方ほどで大きな楠木などが往時を偲ばせている。全体の面積の約1/80ほどの広さである。北東の角から南の方向に路面電車が走る幹線道路が突き抜け、東側は歓楽街、西側は公共施設などのビル街となった。屋敷絵図をみながらゼンリン地図とみくらべていると、ちょん髷姿の侍・町人が路面電車が走る此の大きな道やビル郡、そして夜のネオン街を楽しんでいるように錯覚する。

 40年ほども前の事だから、さすがに「霧にむせぶ下追廻田端町」は歌詞・メロディーともにど忘れしている。
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