此記は天正五年三月豊公島津氏を征伐せんとして九州に赴けり依て之をねぎらはんとして二十一日丹波城を發し
山陽道を船路或は陸路にて名所を巡覧しつゝ長門より門司の関を渡り筑前に至り、歸路を山陽道にとりて難波に入
られし迄の紀行文なり
玄旨法印は其始めは三淵伊賀守晴員の子なり後細川氏を胃して細川藤孝と名乗り、従四位下侍従兼兵部太夫に
叙任し丹波の田邊城に居りしが後剃髪して玄旨或は幽齋と號し二位の法印に叙せらる、幽齋且て藤原實隆より古
今傳授を受け和歌の深奥を究めたり、公卿武将の氏門に来る多し、慶長十五年八月二十日卒す年七十七才
今年天正十五年三月の初、博陸殿下、九州大友島津私の鉾楯■と■めらる可き為に、御進發の
事あり、 (博陸殿下とは太閤秀吉を云ふ)
息與一郎同玄蕃允乗陣の上、家を逃れ入道せし身なれば、供奉の事にてもなかりしに、遥かなる
御陣の程を、徒に在國も空恐しき心地して、四月十九日に、舟をば熊野郡まで廻して、廿一日田
邊を出で、其日は宮津にとゞまり、廿二日松井城、松倉に着て、明なば出發すべき旅装ひせしに、
雨降出て、終日晴なましかば、松井子禅門と云出て抑留し、盃度々出して慰み暮し、其夜は止り
て廿四日、いとよく晴て、風も追手になると云へば、出立とて、是占山近ければ、
必ずの旅の行方は善悪も問はでふみ見る足占の山
軍書に欲必則莫令卜問軍吉凶とあれば思よれり、かやうにして、港と云ふ所より、辰時斗りに出
船して、其日の暮に但馬因幡の境、居組と云處に船泊しける、旅宿いと所せくて、上なか下、らう
がはしき假枕し侍りて、
主従は旅にしあれは里の名の居組にしたる假の宿■
廿六日、伯耆國御來屋より舟を出して、出雲國三保の関に上り、見物し侍りて、夫れより磯傳を行
くに、錦の浦と云へば、暫し船を停めて、
船寄する錦の浦の夕波のたゝむや返る名残成らん
かやうに口すさびて、其わたり近きかゝと云ふ所、漁人の家に留まりぬ
哀にも未だ乳を飲む■の子のかゝのあたりや離れさるらん
二十七日、雨音荒き故に、かゝより船出成難かるべき由を、船人申侍れば、さらば徒に暮さんも物
憂しとて、船をば浪間を待ちまはし侍べきよし申て、杵築も彌見物のため、徒歩にてたどり行く、道
の程三里斗り經て、木深くて、山のたゝずまゐたゞならぬ社有を見廻りて、社人と覚えたるに尋ね
侍りしに、之なん佐陁の大社なり、神体伊邪那美尊とおしえへけるに、しかじか物語し侍るに、日
もたけ雨もいたく降れば、衣あぶらん程の宿り求て、とゞまりぬ。
千早振神の社や天地と別ち初めつる國の御柱
廿八日、佐陁を出て、秋鹿と云ふ所にて、湖水の小船に乗て、本田まで行に、生捕なりと船人の
云を聞て
磯枕恨やおふの浦千鳥見果ぬ夢の醒むる名残に
かやうにして暮かゝる程に、杵築の社に至りて、寶前を初め、末社等、あなた彼方めぐりて尋ぬるに、
當社両神社神官千家北島、何も國造となん云ける、家々見物して、其後旅を宿かり出、椎の葉斗り
に盛たる飯など食ひて、休み居たる處に、若洲の葛西と云ふ者尋來りて對面しける、太鼓打つ人に
て、若き衆多く同道有て、一番きく可き由あれば、さらばとて催しけるに、両國造より、處につきたる
肴樽など、使にて送られける程に、笛鼓の役者共きわみて、夜更まで乱舞有けり、思ひかけぬ事な
りき
廿九日、朝なぎの程に、まはしつる者共めぐり來て、急ぎ船に乗れ、日もたけにけりと云へば、あは
ただしく
此神の初てよめる言の葉を敷ふる歌や手向なるなん
逮干素戔鳥尊到出雲國初有三十一字詠とあれば、やう/\字の數を合はする斗り、手向にしたり
と云ふ心ざし計になん此短冊を千家方へ遣はけしけるに、両司なれば一方は如何と、主の云ひける
に、俄かなれば同歌を書てやりける、又當社本願より、發句所望なれば
卯の花や神のい垣のゆふかづら
(両司は千家北島の両宮司を云ふ)
かように書てやりけるに、千家方より、今の發句は北島にて連歌たるべし、吾方にては百韻興行す
べしとて、船に乗るに追附て、發句所望なり、忙はしきに成難よし、度々申せしかども、所のならひに
や、わりなく申されける程に、人の心を破らじとて思ひめぐらすに、折ふしほとゝぎすの名のりければ
時鳥こゑの行くゑやうらの波
(了) 馬琴旅行文集より
山陽道を船路或は陸路にて名所を巡覧しつゝ長門より門司の関を渡り筑前に至り、歸路を山陽道にとりて難波に入
られし迄の紀行文なり
玄旨法印は其始めは三淵伊賀守晴員の子なり後細川氏を胃して細川藤孝と名乗り、従四位下侍従兼兵部太夫に
叙任し丹波の田邊城に居りしが後剃髪して玄旨或は幽齋と號し二位の法印に叙せらる、幽齋且て藤原實隆より古
今傳授を受け和歌の深奥を究めたり、公卿武将の氏門に来る多し、慶長十五年八月二十日卒す年七十七才
今年天正十五年三月の初、博陸殿下、九州大友島津私の鉾楯■と■めらる可き為に、御進發の
事あり、 (博陸殿下とは太閤秀吉を云ふ)
息與一郎同玄蕃允乗陣の上、家を逃れ入道せし身なれば、供奉の事にてもなかりしに、遥かなる
御陣の程を、徒に在國も空恐しき心地して、四月十九日に、舟をば熊野郡まで廻して、廿一日田
邊を出で、其日は宮津にとゞまり、廿二日松井城、松倉に着て、明なば出發すべき旅装ひせしに、
雨降出て、終日晴なましかば、松井子禅門と云出て抑留し、盃度々出して慰み暮し、其夜は止り
て廿四日、いとよく晴て、風も追手になると云へば、出立とて、是占山近ければ、
必ずの旅の行方は善悪も問はでふみ見る足占の山
軍書に欲必則莫令卜問軍吉凶とあれば思よれり、かやうにして、港と云ふ所より、辰時斗りに出
船して、其日の暮に但馬因幡の境、居組と云處に船泊しける、旅宿いと所せくて、上なか下、らう
がはしき假枕し侍りて、
主従は旅にしあれは里の名の居組にしたる假の宿■
廿六日、伯耆國御來屋より舟を出して、出雲國三保の関に上り、見物し侍りて、夫れより磯傳を行
くに、錦の浦と云へば、暫し船を停めて、
船寄する錦の浦の夕波のたゝむや返る名残成らん
かやうに口すさびて、其わたり近きかゝと云ふ所、漁人の家に留まりぬ
哀にも未だ乳を飲む■の子のかゝのあたりや離れさるらん
二十七日、雨音荒き故に、かゝより船出成難かるべき由を、船人申侍れば、さらば徒に暮さんも物
憂しとて、船をば浪間を待ちまはし侍べきよし申て、杵築も彌見物のため、徒歩にてたどり行く、道
の程三里斗り經て、木深くて、山のたゝずまゐたゞならぬ社有を見廻りて、社人と覚えたるに尋ね
侍りしに、之なん佐陁の大社なり、神体伊邪那美尊とおしえへけるに、しかじか物語し侍るに、日
もたけ雨もいたく降れば、衣あぶらん程の宿り求て、とゞまりぬ。
千早振神の社や天地と別ち初めつる國の御柱
廿八日、佐陁を出て、秋鹿と云ふ所にて、湖水の小船に乗て、本田まで行に、生捕なりと船人の
云を聞て
磯枕恨やおふの浦千鳥見果ぬ夢の醒むる名残に
かやうにして暮かゝる程に、杵築の社に至りて、寶前を初め、末社等、あなた彼方めぐりて尋ぬるに、
當社両神社神官千家北島、何も國造となん云ける、家々見物して、其後旅を宿かり出、椎の葉斗り
に盛たる飯など食ひて、休み居たる處に、若洲の葛西と云ふ者尋來りて對面しける、太鼓打つ人に
て、若き衆多く同道有て、一番きく可き由あれば、さらばとて催しけるに、両國造より、處につきたる
肴樽など、使にて送られける程に、笛鼓の役者共きわみて、夜更まで乱舞有けり、思ひかけぬ事な
りき
廿九日、朝なぎの程に、まはしつる者共めぐり來て、急ぎ船に乗れ、日もたけにけりと云へば、あは
ただしく
此神の初てよめる言の葉を敷ふる歌や手向なるなん
逮干素戔鳥尊到出雲國初有三十一字詠とあれば、やう/\字の數を合はする斗り、手向にしたり
と云ふ心ざし計になん此短冊を千家方へ遣はけしけるに、両司なれば一方は如何と、主の云ひける
に、俄かなれば同歌を書てやりける、又當社本願より、發句所望なれば
卯の花や神のい垣のゆふかづら
(両司は千家北島の両宮司を云ふ)
かように書てやりけるに、千家方より、今の發句は北島にて連歌たるべし、吾方にては百韻興行す
べしとて、船に乗るに追附て、發句所望なり、忙はしきに成難よし、度々申せしかども、所のならひに
や、わりなく申されける程に、人の心を破らじとて思ひめぐらすに、折ふしほとゝぎすの名のりければ
時鳥こゑの行くゑやうらの波
(了) 馬琴旅行文集より