津々堂のたわごと日録

爺様のたわごとは果たして世の中で通用するのか?

熊本弁講座 うう

2010-01-26 15:18:03 | 熊本
 熊本弁に関する問題です。さて次の言葉はなんと読むでしょうか。
    1)大頭       2)大番外

 細川護貞さまの著書を読みますと、細川家は屋敷内では熊本弁を使っていたと書かれていますが、
こんな言葉はまさかお使いではないでしょう。

    1)は ううあたま、2)は ううばんぎゃー と読みます。

 私の幼いときの写真は昭和28年の水害で流失し、その後親類に残されていたものをいただいた
僅かに数枚しか残されていません。 
その中に帰熊する前の小石川での写真が一枚有り、細川家邸内の井戸らしき物の前で遊んでいる
所ですが、危ないですねー。この写真を見ると
     うう頭井戸を覗いてかやり込み 
                  という狂句が頭に浮かびます。かやりは返りでしょうか。
                  (私は頭が相当でかいのです)

 はっきり覚えていませんが(少し違うかもしれませんが)
     ううばんぎゃー靴下はだしで靴はいて 
                  という句を思い出しますが、石田純一氏のように靴下を履か
                  ずに靴を履くのがはやっているようですが、昔の価値観から
                  すると「ううばんぎゃー」ということになります。
                  本当の熊本弁だと「はいて」は「ひゃーち」となりますが。
 山東某の「百間石垣うしろ飛び」等という話も、「ううばんぎゃーなこつ(事)」となります。

 私は熊本弁が少しがさつに感じて好きではなかったのですが、最近は歳のせいもあってか
通常の会話でもよく使うように成りました。   (67年前の写真を見ながら)
     
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梅北の乱

2010-01-26 10:01:58 | 歴史
    肥後人にして誰が肥後を奪はるゝを屑(イサギヨシ)とせん  武人百話より

加藤清正肥後に封ぜらる。會々(タマタマ)征韓の事起り、清正其先鋒となりて出發しゝかば、
薩摩の梅北宮内之を好機として肥後に入り、諸軍に徇(トナ)へて清正に叛せしめんと力む。
清正の臣堺善左衛門は此時留守して熊本城に在り。邀(ムカ)へ戦はんとしゝも糧乏しく剰
(アマツサ)へ人心稍離れしかば、佯(イツワリ)て梅北に降り城を開きて其兵を迎へ入る。梅北意
気揚々として入城しゝが、堺又梅北に向つて言ふよう、今日は是主従の禮を執るべき始な
れば、其賀儀として酒盃を賜はらんと、大に宴を張りて山海の珍味を陳ね、數十の美姫を
侍らせ、観楽を盡せり。堺梅北の隙を窺ふこと數度、思へらく今日我を殺さざれば、他日彼
れ必ず我を殺さん。生死の分るゝ所目前にありと、宴酣(タケナワ)なる比ひ一刀を閃し、躍りか
ゝりて梅北を刺殺しゝかば、一座大に駭(オドロ)き、堺を取り闉(カコ)めり。堺目を瞋(イカ)らし大
に罵つて言ふ。汝等狂顛するか、梅北は何者ぞ、本国の賊魁ならずや、而も之に属する者
は即ち属黨なり。荀(イヤシク)も肥後人にして誰が肥後を奪はるゝを屑(イサギヨシ)とせん。疾く
心を翻し、我と同心協力して此國賊を討たば、清正は必ず服従の罪を宥め、却て其功を賞
せん。否ざれば太閤忽ち汝等の三族を梟せんと。諸士其猛威と正理とに服し、唯々して之
に従へり。堺乃ち梅北の残黨を討ち遂に全く肥後を清む。清正其功を賞し、二百石を十倍
して二千石となせり。

        m.weblio.jp/c/梅北の乱
        www5f.biglobe.ne.jp/~sans-culotte/topics163.html
        castle.jpn.org/higo/sashiki/index.html
        ja.wikipedia.org/wiki/島津歳久
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