一、慶長四年十二月忠興公丹後國似被成御座候内家康公より豊後國之國之内国崎(ママ)郡
速見郡にて六万石御拝領木付之御城御預被成立行君御當家御再興之御長臣ニ付以来
城主たるべきと御家柄ニ付立言君安良御城主たりといへ共當時は宮津へ御屋敷御住居
ニ而御城主之御格ニ被仰付置候ニ付立行君木付ニ御居城可被成旨依御意ニ木付御城
御請取として御越被成候此時松井佐渡殿 康之 江検地被仰付候事
一、木付之御城二大友方より蜂起致し夜討之節立行君 此時も四郎右衛門様と奉申候 大友義統
之士大将柴田小六統生■木二懸り軍卒を指揮する様子はるかに見へたるを小筒ニ而成
がたきゆへ御船筒を御取寄被成御鉄炮之者岸助之丞が肩臺ニ而統生を御打留被成候
右御鉄炮玉目六尺此御筒を柴田筒と唱申候事
一、石垣原ニ而立行君大友者頭源沢主水を鑓を御合御突伏被成る候へ者首を御取被成候
此時御家士葛西彦四郎も鑓を可参候て言葉を懸突懸候大友方より甲ハ不着して胴斗着
て鑓ニハ赤き印をつけ進ミ懸て彦四郎と鑓を合■突合けるが彦四郎突伏て首を取彦四郎
立上る処ニ敵壱人馳付て彦四郎が真甲を一太刀切る彦四郎刀を取直し切懸る敵之腕を
かけ刀當りけると覚けれハ敵其侭引取申候彦四郎面之疵深手ニ而候故其侭其所へ居申
候谷長二郎も大勢之中ニ而鑓を合相働申候八坂又助も鑓を合突伏て首を取岸助之丞力
戦して首を取申候其外木付勢粉骨を盡し相戦各々首を取申候大友勢大ニ乱て引退申候
事
一、慶長五年十ニ月関東方忠戦の諸大名ニ恩賞之國郡を給ふ豊前国并豊後國之内国東郡
速見郡を忠興公御拝領凡御知行高三拾九万石ニ而御座候
一、同六年四月立行君 此時も四郎右衛門様と奉申候 江豊前国言田(ユフダ)之御城御預被成候ニ付
言田之御城主ニ而被成御座候木付之御城は松井佐渡守殿 康之 御預被成候事
一、豊前ニ引移以後御加禄を給ふ立行君江三千石之御加禄都合壱万五千石御拝領松井佐
渡守殿 康之 五千石御加禄都合弐万五千石 忠興公 立行君へ長岡武蔵守と改可申旨
御意御座候而御召縫延之御具足御拝領右具足ハ忠興公御自作ニ而西村与左衛門へ御
手傳被仰付候御秘蔵之御召料ニ而其比御家様御具足と申候其節忠興公御意被成候ハ
後藤又兵衛抔随分之者なれ共城井谷ニ而猩々緋の羽織ぬぎさりし様子の事あり四郎右
は戦場ニ而壱度も不覚なき者なり古へ之武蔵坊ニも劣まし勝ら者今武蔵ニなしても災ふ
もの有ルましと御意被成右之御意ニ而武蔵守様と御附被成候事
一、忠興公より立行君御拝領之御頬當ハ谷出羽守面躰を被成御写候像ゆへ谷頬と被成御
付候右之御品御拝領之時分大■験を立行君へ被成御免白大四半絹五幅ニ而御定紋御
附被成候此以前は御旗迄ニ而御座候事
一、忠興公御舎弟長岡玄蕃頭興元公御出奔ニ付て左備の大将を松井佐渡守殿 康之 被仰附
右備之大将を長岡武蔵守立行君江被仰付候而両年寄ニ御定被成候事
一、長岡内膳正興道君 此時四郎右衛門康以君と奉申候 御家司葛西惣右衛門 始惣兵衛 立行君江
申上候者元有様已来将監様御両代武蔵守様御大ニ至迄於御當家ニ数度之御忠勤御戦
功之子細を為御後代之御家譜を御記被成る候へかしと申上候處立行君被仰候ハ功を立
候事は新参衆の致事ニ而我等ハ御譜代長臣之家柄ニ而飾事ハ少も無之細川之御家立て
有吉之名字さへ不絶之候て功之失事有間敷細川之御家ニ有吉と云名字不知者ハ無之後
代迄も左あらんと思ふなり不入事をせすとも家之不絶分別肝要なりと御意被成候事
(附箋有り・・別途紹介)
一、慶長十ニ年十二月十四日立行君御卒去御遺骸を御菩提所万歳山天聖寺ニ奉葬峯雲院様
と奉申候御歳五十一ニ而御座候事